スポーツは帝国主義?─つづき
グローバリゼーションということが盛んに言われています。金融や経済、ビジネスといった経済の世界では、急速にグローバル化が進み、会社勤めの私のような人間ですら環境変化の波が押し寄せてきています。これには、賛否両論があって、グローバル化をよしとしない人も多く見られます。端的な例は、TPP交渉に対する反対運動などは、明らかな例です。グローバル化とは、端的に言えば、主に欧米の慣行をベースにしたグローバルスタンダードという仕方の基準に従い、ローカルルールをやめるということです。
一方、オリンピックとかスポーツというものは一種のグローバリゼーションと言うことができます。しかし、これに対しては積極的に従おうとする風潮が強く、目だった反発の声は聞こえてきません。例えば、健康・健全な身体をつくるのに資するという考え方。古代オリンピックを創始した古代ギリシャでは、市民と奴隷の二つの階級があって、市民階級は奴隷に生活に関わるすべてをやらせて、豊かな余暇をポリスの市民活動や哲学・芸術あるいはスポーツに費やしたといいます。古代オリンピックはそのような有閑階級の人々によって担われ行われていた、と言います。その後、近代オリンピックは大ブルジョワや貴族などの有閑階級の人々によって始められたわけです。このような人々は、経済的な豊かさに裏打ちされた有り余る余暇の時間を持てた。だから、なんら経済価値を生み出さないことに身体を使って、楽しみとすることができたわけです。それが、健康のためとか、楽しみとしてのスポーツとして整えられた。それが産業革命を経て大衆社会が生まれたことで、先進国の中産階級にも広がっていったというものでしょう。ただし、この時の先進国の大衆社会は植民地からの収奪によってなされた側面もあるわけで、スポーツを楽しめる階級というのが世界基準であったといえます。スポーツのアマチュアリズムというのは、そのような階級を前提としていたものといえます。つまり、商売抜きにスポーツを楽しむだけの十分な経済的余裕がなければできないことです。日本では大正時代に大学対抗の箱根駅伝の大会で、ある大学の選手の中に人力車夫がいたため、アマチュアリズムに反するとして、その大学が失格になったと言います。その選手は苦学して人力車夫をして学費を稼いでいたといいます。(だから、例えば、オリンピックの商業化を嘆く声を聞くことがありますが、そんな一種の特権意識のようなアマチュアリズムに固執するのはどうかと思います)
さて、話題を戻しますが、欧米の一部の階級という一種のローカルルールであるスポーツというのが、一種のグローバルスタンダードになって、それをかつて搾取された植民地だった国の人々も、全く文化を異にする国の人々も迎合するように従っているように見えて仕方がありません。たとえば、駆けっこという走り比べをするのでも、実際にはありえない平坦に地面を人工的に作り出した競技場という特殊な環境の中で、100mだけを走る、とかスタートする、駆け引きするとか特殊な技術だけに特化するというのが、私たちの生活のなかで走るのが早いこととどれだけ結び付くのか、野山を駆け巡ることとは別のことではないか、ということが、スポーツの世界では世界一速いなどと言われてしまうのです。
だからどうした、と言われればそれまでです。しかし、私個人は、どこか引っかかるものがあります。しかし、今日のオリンピック開催地が東京に決定したことを手放しに喜んでいる人々の様を見ていて、スポーツとは別の経済的な効果を歓迎する人もいるのでしょうが、スポーツというものに対して違和感を少しも持たないのか、引っかかるものがないのか、と思ったりしています。
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