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2013年9月17日 (火)

カンディンスキー展(4)~コンポジション、大いなる総合

今回のカンディンスキー展の目玉の大作です。抽象的な絵画を描いた、彼以外の画家でも、モンドリアンやマレーヴィチなども『コンポジション』というタイトルの作品を遺しています。Compositionということばは“構成する”という意味ですが、音楽の用語で“作曲する”という意味もあります。おそらく、形を持たず、言葉のような明確な意味を持たない、音楽の抽象的なあり方に、一種の憧れがあったのかもしれません。

Benmondこれらの画家の作品とカンディンスキーの『コンポジション』との大きな違いは、単純なことですが、作品サイズの違いです。とくに、今回展示されている2つの作品はともに約2×3mという大きさで、美術館の展示でも広場を設けて広いスペースにベンチを置いていました。近くで見ても全体像が捉えられないし、それだけの大画面は短時間でパッと見ただけでは見切れないからと、長時間の鑑賞で疲れてしまわないようにベンチを設けたのでしょう。そして、二つ目の大きな違いは画面に様々なものが詰め込まれ複雑な様相を呈しているということです。これに対して、例えば、モンドリアンが多数描いた『コンポジション』(右図)のシリーズは私のウサギ小屋みたいな部屋の壁にも飾れる程度の小さな作品が多く、画面は黒い数本の直線と、その直線によって形作られた長方形が着色されたという極めて単純な構成です。もともと、抽象という言葉の意味には、現実の個々の事実はケースによってさまざまなことがあるので、一様にどういうものと言えないので、それらに共通しているようなことを本質的な要素として抽出して、単純なものとしてシンボライズして簡単な言葉にする、という意味が含まれています。学問で使用される抽象的なテクニカルタームは、その典型的な例です。つまり、抽象という言葉には、単純化するという意味が含意されていているといっていいので、モンドリアンの場合は、結果的にそうなったのかもしれませんが、抽象という概念に沿う作品となっています。

これに対して、展示されているカンディンスキーの二つの作品は単純化されたとは絶対に言えないものです。ゴチャゴチャするくらいに様々な要素が詰め込まれて、それらが相互に輻輳するかのように様々に絡み合っているようで、一目では何がどうなっているか分らない。それが巨大なサイズの画面に所狭しとある。そのような作品の前に立たされたものは、何がどうなっているのか、見てて把握できないので途方に暮れてしまいます。

同じように巨大なサイズでゴチャゴチャしたような作品を制作する人にジャクソン・ポロックがいますが、ポロックの作品は、一見ゴチャゴチャですが、それを構成する線とか絵の具の滴りが面となって表われたものの個々には存在感が希薄で、全体に対しての部分というものなので、部分に注目することは、あまりなくて、大きな画面全体を細部にこだわることなく見渡すことができるのです。そのため、一見複雑な作品は、全体の印象に重点を置いてシンプルに見ることができるのです。

しかし、カンディンスキーの作品は、細部の自己主張が強い。その結果、この巨大な画面の各処で細部が自己主張を始めて、相互に競うような様相を呈しています。全体を見ようとして、部分の存在感にひきつけられる結果、足元を掬われるように全体をみるパースペクティブを見失ってしまうことになってしまいます。私も、実際に、これらの作品の前で数十分間佇んでいましたが、何がどう描かれているかよく分りませんでした。そういう、量と質の両面で見るものが圧倒されてしまうところがある作品です。

もしかしたら、前回すこし述べましたカンディンスキーの不可視の何かがあるような気がしないでもありません。作品の前で圧倒されて立ちすくむしかない観衆が感じる、圧倒に迫られるということ自体、というのでしょうか。そこで、圧倒される人が感じる圧迫感、そして、一方的に受け身に立たされるような無力感というのか、その不安とまでは行かないまでも、どこか不安定な感じ、これに対して自らの小ささを目の当たりにさせられてしまう感じとか、がこれらの作品が、結果としてそうなっているというのではなく、ある程度、明確な意思をもってというのはないにしても、制作される際に、考えられていたのではないか、そう思わさせられるのです。

Kandinskycompviまず、『コンポジションⅥ』(左図)を見てみましょう。作品解説をカンディンスキー自身が行っているらしく、画家は作品の制作の経緯を語っています。「私はこの絵を、1年半も自分の裡に温めていたので、しばしば、自分がこれを完成しないのではないか、と考えずにはいられなかった。出発点はノアの洪水だった。」とカンディンスキーは、当初あくまで出発点に過ぎない「ノアの大洪水」という主題の外面的な表現に縛られてしまったが、やがて個々のモチーフの姿が色彩の渦の中に完全に溶け込み、そして、その色斑の上に、画面全体を自在に走り、大波や降りしきる雨の動勢を生み出す黒い線描が加えられて完成したと言います。「こうしてすべての要素、そして相互に矛盾し合う要素までも、完全な内面の均衡に変えられ、その結果、いかなる要素も優勢を獲得することなく、絵の成立の動機(ノアの大洪水)は解消されて、内面的な、純粋に絵画的で、独立した客観的な存在に変換されるのである。この絵がひとつの事象の描写であることほど誤ったことないだろう」と語りました。ということで、お勉強でした。

画面右手に黒い線で船の輪郭らしきものがあったり、中央上部の赤い線の山形はアララト山でしょうか、向かいに黒い線で鳩の嘴の形らしきものが見られます。描線が何本も並べて引かれているのは雨の形跡なのか。このように、「ノアの大洪水」のパーツらしきものの形跡が残されているとは想像できます。しかし、それも、そういうお勉強をして、そのように見て、こじつけのようにして見えて来るにすぎません。だから、ここから実際の大洪水とか、災害を意味するものと捉えることはないと言えます。このような様々なものらしき形が画面の中で、折り重なったり、ぶつかり合ったり、並んだりして、その有り様が絶妙なバランスのもとに相乗効果をうみだして、最終的に緊張感を保ちながら、ひとつの世界となってまとまっているというのがこの作品だということになるでしょうか。そのために、画面上で意図的に複数の中心的な部分、緊張感が高まる部分が作られています。画面右上の船のフォルム周辺は、黒い線を中心に赤と青とが柔和にバランスしているようであり、画面左下は対照的に鋭く対立しているようなダイナミックな感じです。そして、画面中央下側は、白を基調に様々な色が白に溶解しようとする混沌的な状態に見えます。ひとつひとつのパーツが織り成すこのようないくつかの中心が構成されて、画面全体の最終的な調和に結実しているといえます。しかし、どうでしょう、中央下の白を基調とした部分、一見静かな部分なのですが、左右の中心点と対照的にポッカリと穴の開いたような、その静けさが実は混沌の入り口で現実のフォルムが解けてしまうような様相は、大洪水に呑み込まれてしまうように、現実から非現実に連れ去られてしまうような疎外感を感じさせたりしないでしょうか。そこに底知れる空虚のようなものを感じられないでしょうか。私には、他の部分には様々なパーツがぶち込まれているのに、ここだけがそうでないところに、カンディンスキーの底知れる不安と過緊張をみてしまい、それが、この大作の捉えどころがないながら、緊張感を湛えている原因ではないかと思うのです。

Kandinskycompvii_2そして、次に『コンポジションⅦ』(右下図)です。まずは、お勉強から。『コンポジションⅥ』がノアの大洪水のモチーフから出発したように、『コンポジションⅦ』は黙示録のイメージから出発したと言われています。しかし、作品を見る限りでは黙示録との関連性が直接表わされているというわけではなく、画面では、様々な形、多数の色斑がゴチャゴチャにあるようで混沌への前兆を仄めかしています。しかし、全体としての画面はそれでも秩序を感じさせるものになっています。しかし、その混沌と秩序のせめぎ合いは画面に溢れんばかりの力感をあたえ、中央部では爆発しているかのようです。『コンポジョンⅥ』に比べて、特筆すべきは色彩の氾濫と言えるほどの豊かさと、その色同士の対立と緊張関係です。それは、まさに、これだけ大きな画面ではあっても、跳び出さんばかりの勢いに充ちています。そこにカンディンスキーの現実の具体的世界から飛翔して、現実をこえた世界、そこにはヨーロッパの黙示録的な考え方による神秘主義の傾向がベースにあるのでしょうけれど、現実では考えられない幻想世界に、自らの手が描くということによって、飛翔しようというカンディンスキーの姿勢が見えるような気がします。

抽象絵画という新たな土俵を作ってしまったカンディンスキーはスタンダードという宿命を負ってしまったが故に、後世からみると、彼の後を追った画家たちが彼を物差しにして自分たちの立ち位置の差別化を図ったために、特徴がハッキリしているのに対して、カンディンスキー自身がカンディンスキーであることを示すようなスタイルが定まっていないので、彼の特徴を一言で表すのは難しいと言いましたが、このような作品にあらわれている、現実からの飛翔という感じ、それは具体性がないので、具体的には「何か」とでも言うしかないものですが、それがカンディンスキーの作品の特徴なのでは、それが最も濃厚に表われているのが、この二つの作品ではないかと思います。

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コメント

絵をCZTさんほど深く見たことがありません。絵と向き合い、絵の作者と格闘するように見る、ということは作者の表現したいものを感じ取ることができるからなのでしょう。私は抽象画からその表現したいものがめったに見えることがありませんが、抽象画を久しぶりに見てみたくなりました。本物の絵の底知れぬ力を、表現として感じ取れるかどうか危ういですが。

OKACHANさん。コメントありがとうございました。抽象画は何を描いているかとか、考えずに、きれいと思うかどうかだけで見ていられるので好きです。画家の表現したいものとかは、考えなくてすんで、表層の画面をみて勝手に感じるだけなんです。あまり、構えずに、面白がっていただければ、ありがたいです。

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