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2013年9月 2日 (月)

「速水御舟─日本美術院の精鋭たち─」展(4)~写実の向こうの非現実「炎舞」

Hayamiembuこれまで、速水御舟の作品の特徴として言われている写実に基づく細密描写、とりわけ写実ということについて見てきました。写実をリアリズムと捉え、速水の写実的と言われている作品を見ていくと、とうていリアルには見えないということから、単に、日本画のバターンが行き詰った時に意識的な画家が事物そのものへ立ち返り新しいパターンを見出し、それが日本画の領域を拡大してきたことと、速水は同じようなあり方をしようとした、と考えられる。ただし、速水の場合に特徴的なこととして西洋絵画の流入により、西洋絵画のいわゆるリアリズムも流入してきてしまったこと、このリアリズムは対象を確立した視点で把握するという近代的な自我を前提としたものだったということ。しかし、速水の作品を見れば、視点を固定して、統一的なパースペクティブのもとに画面を構成するというできておらず、それはとりもなおさず、近代的な主体意識というのを持てない、あるいはそれに見合った日本画の表現が確立できていないため、そもそも、リアリズムそのものを追求する土台を、速水を持ちえなかったと考えられる。そこで、同じような状況に追い込まれた日本の文学者たちが私小説という独特の手法に逃げ込んだのと、同じように、殊更に従来の画家が取り上げなかった事物の面を描いてみたり、細部を肥大させて執拗に細かく描いて見せた入りといった、奇を衒ったなかで、新しい可能性を探ろうとした、というように見える、というところまで述べました。そこまでは、何も速水だけに限ったことではなくて、速水と同時代の、危機意識を持っていた日本画の画家たちも同じようだったのではないか、と思います。そこで、そんな中で、速水が他の画家とは異なり、速水である所以の、つまりは、彼だけができたことを見ていくことによって、彼の特徴を見つけることができるのではないか。それが今回述べていく内容です。

今回の展示のメダマとして展示されていた『炎舞』という作品を取り上げてみましょう。この作品の展示は、別室の小さな薄暗い展示室でライトアップした照明で浮き上がってくるように見えるように展示され、作品の幻想的な効果を盛り上げていました。

速水の画業のピークをなす作品として評価が高いようで重要文化財にも指定されているということでした。焚き火の炎に群がり集まる蛾の姿を、タイトルの通り炎に舞うように描いています。我が身を容赦なく焼いてしまうような炎の輝きに引き寄せられ、蛾はまるで炎の美しさに同化するように舞い、その姿を炎が照らし出す。そして、炎は蛾を餌食として燃え上がることでさらに輝きを増す、とその輝きに新たな蛾が引き寄せられてくる。と、言葉にすると、神秘、幻想、象徴、妖美といった形容が湧き上がってくると思いますが、実際に作品を見てみると、意外なほど淡泊というのか平面的、あるいは表面的であっさりした印象を受けます。むしろ、薄っぺらいといった感じ、日本画ではありませんが、シュルレアリスムの画家ルネ・マグリットのだまし絵のような作品(左下図)の薄っぺらな印象と、よく似た感じを受けます。だまし絵が、その効果を最大限にあげるためには、その絵を見る人が、その絵をリアルと信じなければなりません、ただし、あんまりリアルに描きすぎると見る人は、信じすぎてしまった騙されたことに気付かなくなってしまう。そこで、リアルっぽい、一方で、どこか現実と違うように、例えば薄っぺらく描いて、騙されたことに気付く逃げ道を用意しておく。マグリットの作品には、そういうところがあります。マグリットの作品の人物は人間としての息吹とか生命感はなく、マネキン人形のようですが、絵を見る人は、それが人を取り上げていることが一目瞭然で分かるように描かれています。

Magking速水は、『炎舞』では、夜の深い闇を背景にして、写実なら炎の明かりに浮かび上がる背後の風景をすべてシャットアウトして、炎と蛾のみを描いています。しかも、炎の燃えている材料である薪も見えず、炎だけが描かれています。その炎も、古い仏画や絵巻に出てくる火焔表現を思わせるように様式化されています。一方、群れ集まる蛾を見てみると、それぞれの蛾を見てみると、まるで標本のように翅を広げて正面から見るようなポーズですべての蛾が描かれています。翅を震わせたり、はばたく格好のものはなく、横向きの蛾や裏側を向いた蛾もいません。つまりは、蛾の群がり飛ぶ実況的な現実感は、ここでは放棄されている、ということができます。一般的な解説では、この作品は、写実を自家薬籠中の物とした御舟が写実を突き抜けて幻想的で象徴的な世界に入ったと言われているようです。実は、前回までに見た、速水の中途半端で平面的な、言うなればエセ写実のままなのです。それが、このような題材を得て、効果を上げたということではないか、と私には思えます。

ここで、もう一度ルネ・マグリットに戻りましょう。マグリットが参加していたシュルレアリスムの芸術運動は、夢とか人間の無意識とかを基に、その象徴的で幻想的な世界を表現しようとすることをひとつの要素として持っていました。だから、だまし絵のようなマグリットの作品は夢の世界でもあるのです。夢を見るのは現実がひとつのペースにはなっていますが、けして現実そのものではないのです。だからこそ、マグリットの絵画で描かれる人物や風景は薄っぺらだったのです。それは夢の世界で見る風景や人物が薄っぺらであったのに通じるものであると思います。夢というのは、一人の人間が個人で見る者です。集合無意識というような概念もないわけではありませんが、基本的には個人的なものです。現実を無意識のうちに個人が取り込んで、それを欲望や感情などを加味して恣意的に解釈して見せたのが夢ということができます。この場合、夢の世界というのは個人の主観的な世界です。そこで、速水御舟に戻りましょう。最初のところで、速水はリアリズムに必要な近代的な主体が確立していないため視点を固定することができなかった、ということを述べました。そのような速水にとって、その視点を得るために、近代的な主体ではなく、主観的なものであるにしても、シュルレアリスムに通じる夢とか無意識的なものに代替的に求めたということが言えないでしょうか。つまり、この『炎舞』という作品は、速水の幻想とか夢の世界であると。そこで、速水は西洋の近代的主体に替わる幻想とか夢の世界という主観的な無意識の閉じた世界を獲得したのではないか、と思うのです。だからこそ、『炎舞』は特徴的なものしか描かれていない、それは夢の主体である速水が見たいものだけしか存在しない夢の世界だからです。そして、晩年に向けて、速水の写生的な作品というのは、一輪の花とか実とか一部をピックアップして、速水が見たいものだけを描く作品になっていきます。それは、現実をリアルに見たまま写生するというのはなくて、現実を速水の主観とか無意識とかいうフィルターを通した夢、あるいは幻想を忠実に写生した作品と言えるのではないか、と考えると、私なりに、速水の作品の辻褄が合うように思えるのです。

Hayamiyoiそのような傾向は、『春の宵』という作品では、さらに顕著です。画面右上の幽かに見える新月の夜の闇の中でハラハラと花弁を散らす桜の姿は、現実の風景を見て描いたというより、頭の中で、そのようなストーリーを言葉で組み立てて、風景を想像したものと考えられます。まさに夢の光景ではないでしょうか。そこに写生した、いかにも“らしい”パーツを配置して、墨による薄闇の中で、桜の白い花が咲き、花びらが散って空中に舞う風景を作り出しています。夢の中ですから、暗闇でひとつひとつの花びらが見えるわけがないということもなく、桜以外のものはすべて省略し、桜の木の枝ぶりなどもかなり無理がある強引な描き方で、斜めに傾いでいる幹は、どうしたらこれで立っていられるのか不思議です。そんなことは、夢の世界では関係ないでしょう。そこには、新月と暗い画面で動きがないために森閑とした静けさや、夜目に無数の花びらが一枚一枚描きこまれていることから桜のむせ返るような香りが想像できるような気分にさせられます。日本画の様式性を生んだわざとらしさ(フィクショナルなところ)が、近代主義の客観性と超現実的な夢を介して、折り合うことのできた一つの成果ではないかと思います。

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