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2013年10月 5日 (土)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(8)

私たちは「ことば」を何気なく使っていて、その使用を特に問題視することはない。ところがヨーロッパでは問題意識が異なる。それが「文法理論」に表われる。ヨーロッパには文法研究の長い歴史があるが、日本にはまだあまりない。日本人はこれまで外国語を学ぶ際の道具としての外国語文法しか見ていないで、自分たちが使っている言語の本質的理解のための道具などとは思っていない。日本人は文法そのものには興味がないのである。

ヨーロッパでも初めは、文法の研究はギリシャ語やラテン語という外国語を理解するためのものであり、読み書きの文法としてであった。修道士たちは外国語であったラテン語を学び、その際ラテン語の文法は常に意識された。ラテン語文法の学習は、上級ともなれば、単なる文法書を読む、ということではない。むしろ文法を学ぶとは、言葉を巧みに操る修辞学を身に着けることまで意識し、広い意味を持っていた。また「文法」を学ぶ際には、ラテン文学の作品を通じて異教的なものを学ぶことになる。したがって、キリスト教会から見ると、道徳的に危険なことを学ぶことでもあった。

さらにキリスト教の精神的影響によって、文法の研究に新しい意味が加わった。

哲学で問題にされる「文法の研究」とは何かなると、次のような説明しかできない。すなわち、それは音楽を理論化することと似ているということである。音楽は、ある音階の音によって構成されている。言葉もまた発声された音の連なり、つまり音節を単位にして構成されている。音楽にはリズムやメロディがあるが、それとは別に音階の調和が問題となる。そしてそれは二分の一の分割によるオクターブの違いと三分割による和音の作成を基礎にしている。三の倍数と二の倍数は割り切れない。それはちょうど地球の自転と公転の周期が微妙にずれていて、それを調整するために、閏年を入れなければならないことと似ている。ドレミを決めても、和音を正確に作るためには微妙な調整が必要になる。音の協和音を守りながら音程を当てはめるためにはどうすればいいのか、主に音楽理論はこの計算によって成り立っている。また周知のように、さらに歴史を遡れば、ピュタゴラスの和音の比例の発見にまで関係する。したがって、音楽理論は古代ギリシャ時代から数学的な研究であった。そのため伝統的な美しい音楽の作曲には計算が必要とされている。

しかし、似たようなことを「ことば」で実現しようとしても、ことばには分量的な比に基づく要素がない。音楽と言葉の間に見つかる類似性は、音節という音の連なりがあるだけである。見方によれば、音楽と言語は似た所より違いの方が大きいとも言えそうである。ところが、キリスト教を知ったヨーロッパ人は、そうは考えなかった。音楽に理論を見出そうとする探求が古代ギリシャ以来あったように、言語に理論を見出そうという探究が中世に起きたのである。この探究がいささか特異な「文法」理解を生んだと推測される。つまり中世のヨーロッパ人の考えた「文法」というのは、音楽の理論が理想の音楽を作るためであったと同じように、文法を理想の言語として作るための様式と見られていたらしいのである。その様式が分かれば、言語は正確に美しく作られる。ちょうど音楽理論によって、音楽が不協和音を避けて美しく作られるように、である。この背景には、「ことば」を神とするギリシャ的なキリスト教思想がある。よく知られているように、「ヨハネ福音書」の出だしに、「ことばは神であった」という言葉が述べられている。神が言葉を語り出し、その言葉が神と同等のものと見なされ、その言葉によって世界が創造されたと考える思想である。それが、合理主義のギリシャ思想の影響を受けたキリスト教思想である。成立したのは、紀元2世紀と見られる。しかし、もしも神が言葉であり、世界が言葉によって造られたとするなら、言語の研究は神の研究であり、言葉が発せられる様式の研究は、キリスト誕生の様式の秘密に迫ることである。しかもそれは、同時に世界の創造の秘密に迫ることである。したがって言語の研究、つまり文法の研究は神学的な背景をこのときから持つことになった。

カンタベリーのアンセルムスの作品の中に「グラマティクスはどのようにして質であり、実体であるか」というのがある。この「グラマティクス」とは、英語の「グラマー」すなわち「文法」に派生する言葉、強いて訳せば「文法を身に着けた人」を意味する。ここでの「文法」は、あくまでも神が言葉を発するときに従っている様式のことなのである。したがってグラマティクスとは、「真実の言葉を発することができるように、正確に述べることができる様式を知性のうちに整えている人」を抽象的に意味している。このような人の理想形は、キリスト教の教義で言えば、まさにキリストそのものである。とすれば、アンセルムスの作品「グラマティクス」の裏の意味は「キリストについて」の問題である。なぜならキリストこそ真実の言葉である神の言葉を発した人だからである。言い換えると、くだんの問いの実質は、「キリスト性は質としてはどのようなものであり、実体としてはどのようなものか」という問いなのである。アンセルムスはそれを文法理論から論じている。

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コメント

学生時代、ヨーロッパ中世の歴史を少しばかりかじったことがありました。
それで(なのかな?)、CZTさんのレヴューを見て、気になってしまい、
「天使はなぜ堕落するのか」を購入してしまいました(^^;)
かなり分厚い書物ですので、気長に読んでいこうと思っています。
多分読むだけで、精一杯だとは思いますが(笑)

猫スキーさん。コメントありがとうございます。すいません。散在させてしまってようで、責任を感じててます。この本、半分くらいまでは、そこそこ挿話みたいな脱線があったりして、難しいのですが、それなりに読めます。後半のアンセルムスが出てくる辺りからは、メモを取りながら読んでました。中世史なら、アッシジの聖フランチェスコ(『小さき花』)なんかが好きです。

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