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2013年10月22日 (火)

田島正樹「スピノザという暗号」(12)

第3章 自己原因としての神

1.『短論文』における「アポステリオリな証明」

『短論文』の中で、スピノザは神の存在証明をいくつか列挙しているが、彼特有の考察が見られるのは、アポステリオリな証明である。その骨格部分は、「人間が神の概念を有するなら、神は形相的に〔単に考えられているだけでなく、そのもの自体で〕存在せねばならぬ。しかるに、人間は神の観念を有する」から、というものである。

神の観念が存在するとは、我々の諸観念が何らかのリアリティを持つということ、言い換えれば、それが何かを表現していると言えるような意味を持つこと、すなわち我々の認識に、断片的・不完全ながらも、真と言えるような実質を与えることができるということなのである。もしすべてが空想なら、我々の認識に、真偽の区別も、完全・不完全の区別も意味がないだろうし、かくてそもそも認識自体がなくなってしまうだろう。そうすれば、ある観念と他の観念がどう関連するかも、互いに合わさって高次の観念や認識をもたらすこともないし、対応とか矛盾などとでんで言ったこともなく、すべてがバラバラに存在してだけということになる。かくてそれらは、なんら観念ではないということになるだろう。

 

2.『エチカ』における神の存在証明

スピノザは「神の存在証明」を定理11で論じている。

定理11 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実体は、必然的に存在する。

スピノザは、これに対して三つの証明をあげている。

その第一の証明の大筋は以下のようなものである。紙が存在しないと考えられるなら、(公理7により)その本質は存在を含まない。ところで、定理7から、実態の本性には存在が属するから、実体の本性には存在が属するから、実体である神が存在しないのは不条理である。それゆえ、神は存在する。

ここで言及されている公理7は、「存在しないとかんがえられうる物の本質は、存在を含まない」とある。つまり、仮にも「存在しないとしたら」という可能性を想定できるものは、必然的存在ではないわけだから、「その本質は存在を含まない」つまり、その本質にとって存在することは偶然的である、ということである。第一の証明の核心は、神が実体であり、それゆえ、「実体の本性には存在が含まれる」という定義7により、神は存在せねばならないということである。第一の証明は、神が多くの属性を含む実体であるとされる以外は定理7と同じだから、「自己原因」の意味が解明されない間は、同様に霧の中にあるというほかない。

我々人間には、思惟と延長(観念と物質)という二種類リアリティが、理解できるものとして与えられている(それぞれ属性と呼ばれる)。それぞれに属するもの(諸観念と諸物体)は、それぞれ同一の属性に属するものども(様態と呼ばれる)と、互いに全体論的連関を持ち、それを抜きにしてはいかなる実在性もない。それぞれの属性は、それぞれに属する諸様態が因果関係を持ちうる。または因果関係の連鎖で結びつき得るということによって、それぞれ体系をなしていたが、異なる属性間にはいかなる因果関係も存在し得ない。それぞれの属性は、それぞれに自身いかなる限定もない一つの全体であり、それゆえ、たとえば、二つ以上の延長が存在するということはあり得ない。ただし、属性は実体の本質を構成するものであるが、その際複数の属性が一つの実体を構成することは否定されない。とくに神は、多くの属性から構成される実体である。

ところで、実体の唯一性は証明されているだろうか。属性が、それぞれ一つの全体であり、いかなる限定にも先んずるものであるということは、納得できる。しかし、かかる複数の属性が単一の実体に属することの可能性は、証明されてはいない。

スピノザは神は「絶対に無限なる実有」であり、「本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属する」のであるから、「あらゆる属性が着せられる実有」と言っています。ここでの「あらゆる属性を含む実体」という観念は、はたして合法的なのだろうか。我々人間にはアクセスできないような属性について思弁を逞しくしても、あまり意味はないだろう。しかし重要なことは、スピノザがあらゆる属性に共通な、全体論的統一を実体そのものに由来する本質と捉えていたこと、ならびにそれを実在性そのものの起源と考えていたことである。すなわち、属性における共通性は、それぞれが単一の実体に由来するからだということ。

常識的に考えれば、まず、延長の単一性が存在し、思惟はその表現であるから、その結果として、思惟にも単一性が付与されると考えられそうである。従って、この場合、両属性が唯一の実体に帰属するのは、基本的には延長(物質的世界)の優位のもとで理解される。これはいわば、唯物論的な理解である。第一部の公理6によれば、「真の観念はその対象と一致しなければならぬ」。ここで言う「対象」が、延長の属性に含まれる諸対象に限られるのか、それともすべての属性の諸様態に対してそれぞれの観念が存在するのか分らないが、我々に無縁なほかの属性のことは無視すれば、この箇所を唯物論的に読むことは可能だろう。つまり、観念は延長に一致せねばならないからこそ、両属性にそれぞれ並行的に自らを表現する実体を考えてもいいのである。これによれば、観念が一つの全体論的体系をなさねばならないのは、それが単一の物質的世界を忠実に反映せねばならないからである。しかし、延長という属性が一つの全体でなければならないのはなぜか。それは、空間関係が、部分においても同一なまま適用される「共通概念」だからである。たとえば、「隣」という概念を次々に適用して行ったとき(隣の隣の…)、突然どこかで、その隣が存在しない世界の果てとか、深淵に達するようなことはない。これに対して、二種類の態度があり得る。その第一の態度によれば、我々は、単にどこまでも反復可能な空間概念を所有しているにすぎず、その際に、世界の無限な広がりについて何の含意も持っている必要はない。とりあえず、その概念の有限な反復適用によって構成された任意の範囲についてのみ語るだけで、一切の用は足りるからである。これに反して、スピノザはそうは考えなかった。どこまでも反復適用可能ということの理解そのものに意味を与えるためには、あらかじめ全体が先取りされていなければならないと考えるのである。つまり、延長の果てに、もしどこかで延長ではないものが出現しうるとすれば、それは有限な延長ですらないのである。このことは、夢とか幻想の場合を考えてみると、分かりやすいかもしれない。我々は夢を見る時、意識はその夢の筋道を辿って行く。しかしそれを長々とたどった挙句、その夢の中にベルが鳴っているのを聞くような場面にいるのだが、実際に、それは目覚まし時計の音が夢の中に介入して意識されていたわけである。つまり、夢のストーリーは、その果てに、現実の音が夢の中に介入して意識されていたわけである。つまり、夢のストーリーは、その果てに、現実の出来事によって限界づけられているわけだ。こうして、その夢の全体が実在的でなかったことになる。それゆえ、スピノザにとっては、限定されぬ全体であることは実在的であることのアプリオリな制約なのである。このことは、我々の理性に対して非常に大きな要求を課すことだろう。つまり、我々は限定された場面で経験を積み、次第に思考を広め深めていくかのように考えがちであるが、それだけではいくら我々の知識が広がっても、未だ真に思考しているという保証もないのである。それだけでは、真の観念、実在性の真の意味を把握しているとは言えないからである。我々は何らかの意味で、先取りされた全体の観念(神の観念)なくしては、幻想と知覚の区別を持ち得ず、従って思考しているとも言えない。かくてスピノザにおいて、二つの属性の関係は錯綜していることになる。単純に、延長の優位が前提されているわけではないのである。延長の全体性のためには、思惟における実在性、真と偽の区別、それゆえ真理の全体としての神の観念、即ち思惟という属性が必要であるからである。しかしもちろん思惟が思惟だけで、全体性をもちうるわけでもない。思惟に対して真理性を要求すればこそ、その全体性が必要となり、思惟の全体性自体、実在の全体性においては無意味だろうからである。

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