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2013年10月29日 (火)

田島正樹「スピノザという暗号」(19)

スピノザは『エチカ』の中で人間精神について定理11、12、13で言及している。これら三つの定理は「我々の精神が、身体の観念である」ことを主張している。そこでの「人間精神を構成する観念の対象」の意味が問題である。その解明がなければ、「その身体の中には、精神によって知覚されないような、いかなることも起こり得ない」と言う意味も明らかにならないだろう。なぜなら、我々の身体の中には、我々自身の精神によって知覚されないようなことが、多く起こっているのは自明だと思われるからである。

実際、人間精神が身体という対象に関して認識することと言えば、漠然とした感情(快・苦・欲望など)にすぎない。確かにそれらは、われわれの最初の認識というべきものを構成し、それゆえ、最初の精神を構成するだろう。「身体の観念」とは、少なくともはじめはこのような感情である。それは決して身体を志向的対象とする知覚などではない。精神と身体の関係は、そのような超越的・志向的関係ではない。精神は身体を対象として認識する能力ではなく、むしろ、身体それ自身の感情的・気分的現象(立ち現われ)であり、意味作用なのである。つまり、「精神は身体の観念」とは、「精神が身体の観念を持つ」ということではなく、身体の意味表現によって表現された観念(意味)こそが精神を構成するということである。言い換えれば、身体の意味表現によって表現された観念(意味)こそが精神を構成するということである。言い換えれば、身体と精神の関係は、シニフィエとシニフィアンの関係である。「身体の観念」とは、「身体が表現する観念」ということであり、「身体を表現する観念」という意味ではない。「人間精神を構成する観念の対象」とは、「精神を構成する観念を表現する個体」という意味であり、「観念によって表現される対象(志向的内容)」という意味ではない。精神を独立した認識の主体として、身体を対象として知覚するという意味に受け取られてはならない。スピノザにおいて、精神はそのような独立の主体ではなく、少なくとも身体からは分離できるような主体ではない。

スビノザは定理19で、精神は身体の認識を、その変状の観念を通してのみ、いわば間接的に得るに過ぎないと言う。身体は環境世界の因果性によって成立しており、環境世界からの影響を絶えず受けながら、同一個体としての自己を維持し続けていること、従って、身体の十全な認識のためには、ただ身体だけを孤立的に認識するのでは不十分で、他の多くの個物(環境世界)からの諸作用をも、(存在及び存続の原因の連鎖として)認識していなければならない。

人間精神の十全な観念または認識は、人間精神自身には持ち得ないとされる。なぜなら、人間精神の十全な観念を有するためには、(神がそうするように)人間を取り巻くものについて「きわめて多くの他の観念」を必要とするのに、我々はそれを持っているわけではないからである。我々の精神は、神的知性のように全ての事柄の原因を認識しているわけではなく、神的知性のごく一部を、いわば虫食い算のような不完全な形で、あるいは落丁の多い本のような形で、認識しているにすぎない。精神は、それらの原因の十全な認識を持たない以上、人間身体をも十全に認識していないのである。しかし、我々は「身体の変状の観念」を知覚する限り、これからいわば間接的に、身体についての非十全的認識を獲得していくことはできる。ここで「身体の変状の観念」とは、もちろん「身体の変状が表現する観念」のことであり、「身体の変状を対象とする認識」のことではない。実際、たとえば神経網組織の微細にわたる生理学的認識など、我々は殆ど持ってはいない。しかし、身体の変状が表現する意味は、現実に我々の思惟そのものを構成しており、我々は、もちろん十分な習得のあとにではあるが、それを認識していると言っていい。かくて、変状を表現する意味を我々が知る(通暁する)ことにより、結果的に身体自身についても、非十全的ながら、ある種の認識をもつことになる。その認識は、我々が知性=運動能力を高めることにつれて、ますます我々自身の身体について、より深い認識をもたらすものとなるだろう。そしてこのような認識の深化は、身体の能力の拡大と結びつくだろう。

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