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2013年10月15日 (火)

田島正樹「スピノザという暗号」(7)

さて、数学において反実在論の精神で、数学の諸命題を証明構成の結果と考え、真理を構成されたものと見なすことは、永遠の言語で書かれたイデア的真理といった観念を幻想として退け、言語を実際の使用に基づけられることになるから(つまり、真理を人間の実際の言語活動と不可分のものと見るから)、証明によってわれわれの言語使用が変わることを、理論の中に繰り込まねばならなくなるのである。実際、ヴィトゲンシュタインの中期から後期への移行期に起こったことが、このことであった。例えば、将棋の駒の動きが最初にルールで決められたまま変わらず、どんな帝石を習得しようが、どんなうまい手を考案しようが、そのことによって、最初に与えられた駒の意味(使用法)には変化がないように、数学の諸概念の意味も公理や定義で与えられたままで固定され、どんな定理の証明によっても変容することなどとは言えないねという強い誘惑がある。しかしここでヴィトゲンシュタインは、さらに強い議論を展開するのである。そもそも最初にルールを完全に与えたり、駒の動き方を完全に与えてしまうということに、我々は十分な意味を与えることができない。逆に言えば、一定の言葉づかい、または駒の動かし方が、はじめに習得されたルールに則ったものであるということに、十分な意味を与えることができないというものである。今まで盲点となっていて誰も思いつかなかったような駒の動かし方が、我々の可能的経験を構成していなかったように、いままで証明されていない定理は、われわれの可能的経験を構成していなかったように、いままで証明されていない定理は、我々の可能的経験の一部をなしてはいないのである。定理の証明は、実際にそれが解けていない段階では、その可能性は存在しない。すなわち我々の可能的経験を構成しないのである。我々は定理を証明することによって、いままで我々の可能的経験には属していないことを実際になしてしまうのであり、そのことによって我々の可能的経験自体を拡張してしまうのである。このような可能性自体の生成は、実際に生成してみるまではその可能性について指示しつつ語ることができない個体的事実の生成と同じように、その現実の存在に依存する。すなわち、現実性が可能性に先行するのである。このような見方は、問題と問題解決両方に対して、新しい反実在論的な形而上学を要請することになるだろう。すなわち、どんな問題に関しても、その答えが認識に先んじて存在するわけではなく、解決そのものが、我々の認識と経験の可能性を拡張するものと考えねばならないのである。認識や真理に対するかかる反実在論的見方は、我々の自由の可能性にとって本質的なものである。

自由にとって最も困難な問題の一つは、自由と合理性をいかにして調停すべきかということである。伝統的には、情念や欲望を理性によって克服することこそ自由の前提と考えられてきた。そこで、合理性をどう考えるべきかということが、自由にとって最大の問題となるだろう。合理性に対して強い実在論を取るならば、何が最も合理的かということは、実際に我々がそれを認識できるかどうかはともかく、一義的に決定されているはずだ、ということになろう。この見方によれば、我々が実際にする行動が自由なものか否か、当の我々自身にはまったく知られる必要のないものとなってしまう。ちょうど証明されないまま、ある命題を真と信じていて、たまたまそれが真理に的中することがあるようなものである。その真の根拠を知らず、知らないうちに最善の行動をした人が、その限りで自由とされるということになりうる。これは我々の直観とはずれている。

より自然な見方は、我々の自由を我々の能力と結びつけることだろう。合理性というものを、知識と同じような、我々自身の能力と見なすことである。与えられた条件を基に、そこから最適解を算出できる推論的能力こそが合理性の中核なのである。いったん定理の証明が発見されれば、何度でもそれを再構成することができるように、我々は再び与えられた類似の状況に対して、類似の解を算出できるようになる。これを認めるためには最適解が既に決定されているという実在論的な立場をとることはできない。これに対して反実在的な見方では、いかなる解決であれ、それは一つの創造行動になる。

しかし、反実在論的見方によれば、我々は問題を解く能力を所有しているとは言えない。実際に解決が見出されるまではそのような能力はどこにも、我々の可能的経験のなかにもないからである。新たな解決によって新たに解決可能性が生まれ、我々の能力としての合理性の範囲が拡大する。しかし、重要なことは、我々がこの能力を拡大すること自体、我々の能力に属してはいないということである。言い換えれば我々の可能的経験を拡大する可能性自体は、当の可能的経験には属していないということである。言い換えれば我々の可能的経験を拡大する可能性自体は、当の可能的経験には属していないということ。さもなければ我々は自由に自分の能力を拡大し、かくて全能ということになってしまうだろう。われわれの自由の水準は、自分の思いのままになることではないし、どの問題をも解く能力を我々が所有しているわけではない。とはいえ、問題を運よく解けた場合には、そのこと自体は認識される。自由は合理性に反して与えられているのでも、実在論的合理性によってきっちり決定されているのでもなく、合理性自体を拡張していくそれ自体は偶然的なものなのである。

我々の可能的経験を拡大する可能性自体は、当の我々の可能的経験の中にはなかったものとして、突然にいわば外から超越的に我々の経験に介入してくるものと言うしかない。その結果、拡大された可能的経験の中で、はじめてその経験について、またその経験の意味について語ることができるようになるのである。このことは、我々の「自由意志」が結果から訴求して立てられた幻想的原因に過ぎないということを意味している。一般に因果関係の認識と目的合理的・技術的実践は、ピッタリ逆の関係で重なり合っている。因果法則を認識すれば、原因を操作することによって結果を操作することができるようになるから、目的に合わせて手段をあれこれ案配することが可能になるわけだ。言い換えれば、目的合理的実践の要請から、ものごとの因果的認識が求められるのだと言っていいだろう。「すべての結果の差異には、対応する原因の差異が存在する(はずだ)」という因果律は、経験的認識ではなく、因果法則によって現象を説明しようとするリサーチ・プログラムの基礎にあるアプリオリな要請に過ぎない。可能的経験を拡大する自由な行動に対して因果律を適用して、そこに幻想的な「原因」をたてようとすることから、「自由意志」が想定されるのである。しかるに、このような「原因」は、当の可能的経験を超越するものである以上、そこに法則的認識を求めるのは、理性の越権行為となるだろう。自由は、あくまでも結果の意味から過去へと遡及して語られるに過ぎない。その意味で、意味の立ち現われの運動一般が、結果から過去に遡及して初めて「その意味の立ち現われの運動であったもの」として、過去形で語られざるを得ないのと同様である。意味の現象という運動の本質=「そのものは何であったか」は、すべからく過去への遡及という辞世的構造を持たざるを得ないのである。

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