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2013年10月 6日 (日)

「福田美蘭」展

Fukudapos 2013年9月13日(金)東京都美術館

人間ドックで肺の精密検査を勧められて、翌日病院へ赴いたところ、即日入院となってしまい、その後社会復帰まで2週間を要することとなりました。そのあと、少しずつ身体を慣らしていく途上のことで、都心の用件が早めに終わったので、無理のないところで、と寄って見ることにしました。あまり気を張ってしまうと身体に堪えるかもしれないので、軽い気持ちで眺めるのもいいかもしれないと、選んだ展覧会です。

諧謔をこめたユーモアとウイットに富んだ作品ということになるのでしょうか。例えば美術館のエスカレータを降りて展示室に入るとすぐに目に入る『銭湯の背景画』という作品、東京の銭湯では富士山の壁絵が一般的ですが、そこに企業の宣伝ロゴマークを隠し絵のように偲ばせて、それを画面から見つける宝探しのような楽しさとでもいうのでしょうか。それを、銭湯の壁絵と見紛うような画面の中に巧妙に置いています。一見楽しい。芸術とか、現代アートに対して馴染みのない人が、その垣根を取り払うものとして、それなりに楽しまれる、のかもしれません。と思って、私は、何か居心地の悪さを感じざるをえませんでした。それは、この作品だけに限らず、そこに展示されていた作品全般に対して感じたもので、その結果、ひと通り展示を見た後、重いしこりのようなものを感じて、かなりの疲労を感じたのでした。ストレスのたまる展覧会だったというのが大きな印象です。

Fukudafuro 思いつくままにお話ししていきたいと思います。まず、『銭湯の背景画』というのは、一種のパロディとなっていると思いますが、この富士山を描いた画面が銭湯の壁絵には私には見えませんでした。パロディと言うのは、もともとのパロディるものがきちんと特定されないと効果が出ませんが、そのベースとなる銭湯の壁絵がそうなっていないと、それはパロディとして成立しません。たんに富士山を描けば銭湯だとでも思っているのか?と茶々を入れたくなります。私の経験で言えば、富士山の手前に湖や海が描かれるのは、この作品も同じですが、銭湯の壁絵はその手前は必ず水面になっているということが常識的と思っています。それは、遠く霊峰富士を源として発した水が湖や海となって手前に届き、そのこちら側に湯船があるということで、その湯船の水は富士の霊的な水とつながっている、つまり、銭湯の湯船は身を清めるということを象徴的に表わしているというもののはずです。だから、福田の作品のように手前に木を配するというのは、私からみれば、富士山と湯船の連続性に障害物を置くことになりルール違反です。しかし、美術館を訪れるような人には、それでもいいのかもしれません。

Fukudaymi そのことが、第二の引っ掛かる点です。美術館に来る人は銭湯などには行かないものです。(かなり断定的ですが)これは、福田のような試みが誰を対象にしているのかということです。福田も作品を書いて生活の糧を得ているはずで、絵が売れなければ生活できないと思います。その時、もし現代アートが難しという壁を取り払う、ということを目指しているとしたら、ふつう美術館に来ないような人々を対象とするべきということになります。マーケティングとしては、従来顧客をほかのライバルと奪い合うよりは新しい顧客を開拓する方が競争を避けられるので、場合によっては賢明な選択となるでしょう。だとしたら、今までとは違う販路や販売方法を検討しなければなりません。そのとき、美術館で展覧会をすることを安井賞とかいう美術賞を受賞することに何の意味があるのか、かなり厳しい言い方ですが。そして、件の銭湯の壁絵です。本来なら美術展になどに出掛けてこない人々を対象としているはずなのに、美術展に出掛けている人に納得してもらえばいいと言う作品になっている。だから、見ていて中途半端なのです。単に目先を変えて、奇を衒っているとしか思えなくなってくるのです。その程度のものなのでしょうか。そう切り捨てるのは簡単なのですが。実際のところ、西洋名画のパロディ的な作品も多く展示されていますが、正直言って元の絵を知っていて初めて楽しめるという程度で、パロディとしては底が浅いのです。ただし美術展に来るような人々が、多少の知識をもっていて、そのプライドをくすぐり、パロディのもとの作品を知っているという優越感を抱かせるようなものに見えてきます。私は、そういうくすぐりのような媚びを好きではありません。

Fukudabush そして、第3の点として、『銭湯の背景画』がそうであるように、この作品は企業のロゴマークが隠し絵になっていると言葉でコンセプトをほとんど全部説明できてしまうのです。この説明を受けて、実際に『銭湯の背景画』をみると、その確認で終わってしまう。作品にそれ以上のものを見つけることができませんでした。わざわざ作品を目で見るだけの価値が感じられず、コンセプトだけが重要で、それが独り歩きしているのです。逆に、何の情報もなく作品だけを見たときに伝わらないのです。と言って、作品を見て自由に想像や解釈してくれればいいというほど、画面自体に力がない。そのせいか、展示されていた作品の一つ一つに福田自身による解説がつけられていました。しかし、この解説は日本語しかなかったので、会場にいた外国人には読めなかったようで、難しい顔をして作品の前で考え込んでいたように見えました。福田には、文句を言っているような言い方ですが、9.11のニューヨークのテロ事件に対しての作品や3.11の東日本大震災に対しての作品は、本人も真摯に考えて制作されたのかもしれませんが、あえて作品とする意味が、私には理解できず、そう考えたら、しゃべったらいいじゃないの、どちらかと言えば、しゃべった方が手っ取り早いのではないか?と言いたくなるような、解説の言葉以上のものは何もない(私の感性が鈍いのかもしれません)ものでした。

そんなことを考えているうちに、一過性の衒いとして何も考えず嗤い飛ばせば、それでよかったのかもしれませんが、食い足りなさと何の意味があるのかと袋小路にハマったような感じの、重苦しい印象の残った展覧会でした。

PS このようなことを書いたからと言って、私がパロディとか諧謔とか、そういうものが嫌いと言うわけではありません。「モンティ・バイソン」は東京12チャンネルで最初の放映を、本編の後の3分程度の当時無名だったタモリのギャグとともに楽しみにしていましたし、鳥山明の「ドクタースランプ」に次々に登場するパロディキャラは大好きでした。

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コメント

福田美蘭。 久しぶりに名前を聞きました。
銭湯画の画像を拝見して違和感を感じたのは手前の木々のせいだったのですね。
確かに湯船につかりながら絵の中に溶け込むような開放感を抱くのは水の効果とよくわかりました。
個人的にあまり肌の合わない作家なので足を運ぼうと思わないのですが、なんのロゴマークか気になります。

ひつじさん。コメントありがとうございました。小さくて見難いかもしれませんが、湖の右岸から突き出ている半島から生えている林の木々がHMVのロゴの形になっています。その他にも、ポカリスエットとかマクドナルドなどがありました。

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