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2013年10月28日 (月)

田島正樹「スピノザという暗号」(18)

・定理7の証明 公理4から明白である。

※公理4 結果の認識は、原因の認識に依存しかつこれを含む。

『知性改善論』の中で述べられた珠の観念を例にとって考えてみよう。スピノザによれば、球の真の観念は、半円をその直径を軸にして回転させることによって球を産出できるということにある。つまり、球の観念をその産出原因から構成して見せることができるとき、つまりたまの観念をその原因の観念から構成された結果として示された場合、真の観念なのである。このスピノザの考えをよりのみ込みやすくするためには、定理と証明の関係を考えてみればいいだろう。定理は証明構成の最後に出てくる結果である。証明がその結果を産出する「原因」とみることができよう。

しかし、これでは平行論は賭けない。もののあり方に対して、複数の観念が対応すると考えられるからである。半円の回転が球の原因である考えることもできるが、別の仕方で球を構成すること、球を産出する別の観念を考えることも容易だろう。たとえば、古典的な求積法に使われたような無数の円柱から構成するなど。ある現実の真理を確立する複数の「証明」「検証」「説明」を考えればいい。異なる検証法帆は、それぞれの真理に対するアプローチの方法を表わす。検証方法は、事実の認識(観念)を生み出す力をもつと言ってもいい。これは、事実の因果的生成に対応(平行)するものではないが、事実の観念(認識)の因果的生成の筋道と言える。つまり、事実の因果的生成と、その認識(説明)の生成とは、必ずしも一致しない。前者は、ただ現実に生じたひと通りしかないが、その認識の生成は、現実の生成の秩序に従う必要はなく、複数の検証ルートを持つのである。かくて、認識論的に「原因の認識」の必要を認めたとしても、数学においては、複数の原因が同一の結果を産出することを認めざるを得ないし、自然学においては、複数の原因が同一の結果を産出することを認めざるを得ないし、自然学においては、複数の認識原因(認識根拠)が同一の認識結果に導くことを認めざるを得ない。

スピノザは、観念の秩序を因果的なものと見なし、そこから観念の秩序と連関がものの秩序と連関と同じ因果関係であると認めた。しかし、たとえそこから「神の思惟する力は、神の行動する現実的能力に等し」く因果的作用であると認めることができたとしても、それらが平行しているということにならない。思惟の因果性は、単一の事実に対しても、無数に存在し得るからである。すでに述べたように、これが事実の実在性の核心をなしているのである。実際平行が言えるのは、認識結果としての真の観念に対してだけである。

スピノザは定理9の証明の中で定理7に言及しているが、「観念の秩序及び連結は、ものの秩序及び連結と同一である」とはせず、「原因の秩序及び連結と同一である」と書いている。これは、観念の秩序と連結が、とりもなおさず因果的かんけいであるからこそ、「各個の観念は他の観念原因とする」と言えるのである。すると、定理9の証明の中での定理7が果たしている役割は、現実の個物を説明する観念が、それ自体、ものの秩序連結と同じような因果的連関に従って、原因の観念から構成されていること、ないし原因の説明に依存して、かつそれを含むような形で構成されていなければならないということである。おそらくスピノザ自身は、この説明の因果連鎖で、現実に存在し、生成した物理的因果連鎖(水平的因果関係)に平行するものはひと通りしか存在しないと見なすことはできない。ある結果事象の検証の因果、あるいは現象を解明する説明構成の因果とか、状況証拠から推論を積み重ねて犯人を断定する探偵の推理のようなものを、ここから排除する理由はないのである。真理を、そう判断する検証や説明の構成の秩序から考えるなら、説明される結果として確立される真理へ至る説明の因果経路が考えられるのであり、その因果を導く力こそ、結果としての真理が自らを肯定すべく要求する力そのものなのである。このように一つの真理へと導く因果的構成は、複数存在してもかまわないないし、むしろ原理上は無数に存在しなければならないと言うべきだろう。真理は、多くの事実から双方向的に支えられた、アーチのような建造物と見なされ得るからである。ここにおいては「平行論」は意味を失うのである。

 

スピノザは、『エチカ』に先立って、『短論文』で心身問題に触れている。悲しみ(あるいは苦しみ)という感情は、当然「悪が生じているという認識」に先んじて起こるのだが、日野鑑賞の意味を解き明かすことによって、我々は「身体に何か悪いことが起きている」という意味をそこに読み取ることができるのである。快と苦という感情は、そのような意味を帯びて立ち現われ、そのことによって我々の身体についてなにごとかを認識させてくれるのである。感情の真の原因がしばしば知られていないということこそ、スピノザの出発点から変わらない問題意識であった。「人間は自己の行動及び衝動を感じるよう決定する原因はしらない」ということ、その真の原因を洞察することによって、我々の感情を否定的なものから能動的なものに変える、一種の「感情の治療学」が、スピノザの感情論、倫理学の中心を成している。

我々の思惟が無限なる神的知性の一様態であるとされるのみならず「他のすべての思惟の様態、たとえば愛・欲望・喜びなどは、その起源をこの最初の直接的様態から得る。これから明らかに帰結されるのは、各物の中にあって、自己の身体の維持に力めるところの自然的愛も、そうした身体についての神的思惟の属性の中に存するところの観念以外のいかなる起源をも有し得ないということである」とされる。生物の有する自己保存への努力は、(自己原因としての)神に由来するものもので、「自然的愛」は、おそらく思惟の最も原始的な形として、思惟のなかに登録されるのだろう。さしあたり、初期から後に至るまで不変なまま一貫している考えは、①外的対象の知覚(認識)が、身体の変状を介してのみ得られること、②精神は専ら身体の変状の観念から影響を受けること、これがさしあたり感情である。③能動性の拡大に快、善を見、その減退に悲しみや苦しみを見ることである。ここにはっきりと、人間精神が身体を起源とし、身体の変化に応じて変化するという「唯物論的」見方が示されている。スピノザの「平行論」は、はじめからはっきりと唯物論的な方向を自明なものとしていたのである。

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