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2013年10月13日 (日)

田島正樹「スピノザという暗号」(5)

バーフィットは、神経構造などの全てを含む我々の身体の全細胞状況をある種のスキャナーで読み取り、それを電波情報に変えて伝達し、遠くの場所にもとの身体そっくりの構造を再現する「遠隔輸送機」という想定を提案している。この装置によって火星に運ばれた「私R」と、地上に残された「私L」とに、私「私X」の運命が分岐する場合、この二人の人物は明らかに同一人物ではないのに、この装置に入る前の「私X」とは、どちらの私の同一の人格と見なさねばならないだろうか?私が目覚めていた時に火星にいたとしたら私にとって私は私Rであり、私Lは別人だろうし、私が地球上で目覚めたらその逆だろう。問題は、私Rの主張も私Lの主張も同じように真らしいのに、両立しないように見える点である。しかし、私Rと同一視されている私Xと私Lと同一視されている私Xとは、厳密に言えば同一ではないと考えることができないだろうか?RL二人がそれをそれぞれの過去と見なすことによって、XRとXLは別物と考えることができるのである。

マクタガードは、時間についてのパラドクスを提出している。彼は、過去・現在・未来という時間的様相で表現される時間をA系列、出来事の時間的前後関係で表現される時間をB系列と呼んでいる。時間の特殊性は、明らかにA系列にある。空間的距離の場合にもB系列のようなものはあるからである。出来事Aが出来事Bに先行するのは、Bが現在のときAが過去であり、Aが現在の時Bが未来であったからである。これに対し、空間的距離の場合には、「ここ」と「かしこ」はまったく対称的だろう。A地点が「ここ」であれば、B地点は「かしこ」であり、B地点が「ここ」であれば、A地点が「かしこ」になるからである。問題は、マクタガートによればA系列の表現は互いに両立不可能な述語であるはずなのに、同一の出来事について、次々に「未来」「現在」「過去」を述定出来る以上、それは矛盾とされる。ダメットによれば、マクタガートの議論は、たんに状況依存的指示語の表現相互の対称性ということに基づくものではない。A系列が時間の存在にとって本質的なのであり、それに対応するものが空間的指示にはないと言われるのである。例えば、一見「いま」に対応すると思われる「ここ」は、たしかに空間的展望を描くうえでの原点として必要かもしれないが、空間を描くうえでの原点として必要かもしれないが、空間を描く上では、任意に「ここ」すなわち原点を取ることができる。しかるにダメットによれば、「いま」というものは「ここ」のように、仮を原点として定めることができるようなものではない。現に自分が立っているいまからの展望を抜きにして、A系列の理解はあり得ないのである。現に自分が立っている今からの展望を抜きにして、A系列の理解はありえないのである。

我々は、未来の実在性を否定し、過去や現在との非対称性を明らかにしてきた。その立場に立てば、マクタガートの提出したパラドクスは解消してしまう。過去から今までの歴史に関しては、B系列は成立するが、未来の出来事は実在しないのであるから、そこにB系列を延長させることはできない。また、同一の出来事に「未来」が述語され、かつ「現在」「過去」が述語づけられることもない。ある出来事に「未来」が述語づけられることは、未来の出来事が存在せず、指示同定の対象でない以上、不可能だからである。他方、同一の出来事に対して、「現在」と「過去」という述語づけを付与することは可能であり、また決して矛盾ではない。なぜなら、現在というものを、我々は専ら我々の行為的関心に相関的に様々の幅を持ちうると考えざるを得ないからである。

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