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2013年10月12日 (土)

田島正樹「スピノザという暗号」(4)

第2章 実在性

1.形而上学的予備考察

実在するとは、どのようなものだろうか?過度に哲学的にひねくれていないセンスで実在性ということを考えるとき、架空の存在─たとえば、桃太郎とか鬼が島は実在しない。無限という数は実在しないが、素数は無数に存在する。頭の中にだけあるような夢や理想の国は実在しないが、見えない次の裏側は実在する。結論から言えば、われわれが実在性にコミットするということは、その対象にアプローチする異なるルートが、同一の対象へいたるということを認めるということである。実在の対象とは、異なるルートを通じて到達することができるねりと言えよう。例えば、我々が使っている茶碗は、手で触れることもでき、目で眺めることもできるが、それによってともに同じ対象へ知覚的に接近しているのである。つまり、手で触れた茶碗と眼で眺めた茶碗は、同一の茶碗であることを我々は了解している。この同一性の了解は、それ自身知覚されているのではなく、むしろ、両知覚の基礎に、その近くの意味了解の前提として、理解されている内容なのである。

 

ルートによって構成される「距離」が、最小単位というものを持つかどうかは、それぞれの空間の性質による微妙な問題だろうが、実在的場所を実在的ルートのうえに指定できるなら、任意の実在的場所同士は、また実在的ルートで結びあい、全体としてネットワークを形成するだろう。こうしてあらゆる実在的場所は互いに実在的ルートで縦横無尽に結び合わされるから、このネットワークはただ一つだけ存在しうるはずである。

実在性というのは、それを持っていれば実在していると言えるような何か特定の性質ではなく、また何か単一のもの(例えば、イデアとか神とか)との関係でもない。したがって場所の実在性の認識は、ある場所(ある特定の存在者)を単独で考察することからは得られず、また超越的根拠の考察からも得られず、それが他の実座的場所と取り結んでいる無数の関連の考察によって得られるのである。しかも、それがいったん実在的場所に加えられるや、今度は再帰的にその場所から到達し得る場所は、また実在的と見なされるだろう。言い換えれば実在性とは、このネットワーク全体に関わることとしてのみ与えられるのでうる。

 

これらの考えを、時間の問題に適用すればどうなるのだろうか?我々は、特定の出来事に対して、異なる複数のアプローチを考えることができるだろう。少なくとも我々は、そのようなことが可能なものとして、この出来事に歴史学的にアプローチしようとするだろう。それは、この出来事を我々が実在的な存在者と見なしているということを意味している。

また、歴史上任意の二つの出来事は、たとえどんなに隔たっていたとしても、なんらかの実在的連関を考えることができるはずのもの、と見なされているだろう。それゆえ、あらゆる歴史上の出来事が、何らかの世界史的連関をもって、一つの全体のなかに含まれるのである。

たしかに過去の出来事は「過ぎ去った」ものではある。しかしそれは、現在われわれが直接作用したり介入することが、もはやできないものであるということにすぎず、われわれの実在性の規準に欠けるところは何もない。ちなみに、ある出来事を「過ぎ去った」ものと見るが否かは、我々の関心に相関的である。この意味で、現在を(過去から区別して)現在たらしめているのは、実在性ではなく、活動性である。

未来の出来事はこれらと同断に論ずことは出来ない。それぞれの未来の出来事は、もっぱらそれぞれの発話と相関的に一定の出来事と規定されているだけで、これらの発話を離れて独立して存在する個体ではない。だから、それぞれのルートを離れて対象は存在しているとは言えず、それゆえ、それぞれのルート(発話)が同一の対象に到達したと見なすことに、意味を与えることはできないのである。

このような時間についての見方は、ちょうど汽車の最後尾の展望車から、後ろに過ぎ去っていく風景を眺めるようなものだと言えよう。前方(未来)は見えず、ただ現在と、次第に遠ざかりいく過去の風景が見えるだけである。時間の経過とともに、ますます多くの個体が実在の仲間入りをすることになる。どんどん新たに人が生まれるだけでなく、多くの出来事が起こるからである。これらの出来事は、どんどん作用の及ばない過去のものとなっていくが、そのことで実在性を失うわけではなく、我々の指示可能な対象であり続けるのである。それに対して、未来の出来事や個体は、厳密には指示の対象ではない。そこに使用されている指示表現は単称名辞ではなく、隠された存在量化表現でしかないだろう。未来の指示は、表面的な文法上は指示表現であっても、指示の論理形式を持っていないのである。時間に対するかかる見方が大きな意味を持つのは、我々の合理性の変更ないし拡張の場面について考察する時である。可能的経験が拡大する時、われわれは、その拡大をあらかじめ予想できない。しかも、拡大した成果は、はっきりそれと知られるのである。重要なのは、たんに予想できないということではなく、可能的経験の拡大という可能性は、当の可能的経験の中にないということである。未来を非実在的なものと見なすということは、そこに超越性の余地を残すということなのである。

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