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2013年10月18日 (金)

田島正樹「スピノザという暗号」(9)

それでは、真の観念がもつ自分を肯定する力は、どのようにして生じるのだろうか。

真の観念が、スピノザが説明しているような知的道具のようなものであるとすると、(低次の)真の観念から生まれるのであり、得られた認識がさらなる認識の基礎になるのである。しかし、この過程はけっして直線的な進行ではない。ジグソーパズルのピースが互いにうまくはまり合うように、はじめ断片的であった認識が、次第に緊密な連関で組み合わされるように進むのである。観念と観念、認識と認識は互いに支え合い、より緊密で堅固な全体を造り上げる。それゆえ、それ自身多くの認識成果から成り立っていないような探求も探求方法もないし、新たにそれ自身探求方法を提供しない認識も存在しない。このように、真なる知識の体系に組み入れられるということ以外に、真であるということを保証するものは何もないのである。それゆえ、孤立して存在している観念は真ではあり得ないことになる。我々がペガサスを考えても、その実在を肯定しないのは、他の自然の本性の認識や経験と不整合であり、他の自然的事物との十分な連関を欠いていることをよく知っているからである。

ペガサスの観念には、真なる観念特有な多方面の連関が欠けている。かくて、真の観念と偽のそれとの区別は、程度の差と言えるだろう。偽の観念といえども、まったく実在性を欠くわけではない。ただ、実在とのつながり、というよより他の実在的(真の)観念とのつながりが希薄または単線的であり、あるいはこのつながりに対する正しい洞察が欠けているため、せっかくの認識が部分的なまま、断片的なまま、全体への適切な位置続けを見出せず、したがってその認識の真の意味について無理解のままでいるわけである。

真理をただ真なる命題の集合と考えるようなことは、大きな誤解に基づくのである。真理は、それを認識しようと否とにかかわらず、すでに永遠に決定されている命題群などではなく、相互に補強しあい強化し合う緊密な体系的連関として存在する。それは認識の成果が、認識の前提へとフィードバックされて拡大する運動の力と同じである。真理は、ただ静観的にとどまっている事実ではなく、他の真理を証示し、説明し、それを根拠づけながら、自らをも純化し強化する力そのものとして存在するのである。それゆえ、真理は自らを肯定する力を発揮すると同時に、偽との区別を自らに際立てる。「真理は、真理自身と偽との規範である」真と偽がともに参照して判定するための、外的対象のようなものが存在するわけではないのである。

 

もし真と偽が相対的なものであり、真の観念はそれが他の真なる観念と密接な連関をなし、一つの全体を形造っている限りおいて真なのだとすれば、いま知られている真理の全体だけでは、決して十分ではないだろう。それらはたかだか真理のごく一部に過ぎないだろうから、それが未だ発見されていない全真理の中に、いかなる位置を占めるのかが分からない段階では、真理とさえ言えないかもしれない。

この場合、スピノザのように、全体への統合によってしか真理の保証がないのなら、真理の全体を(その部分しか我々に認識されていない)を仮定する必要があろう。ここから、認識されようとされまいと決定されている真理の全体を想定する「実在論的真理観」が出てくる。この真理観は、真理が統合的全体でなければならないこと、それも、実在が統合的全体であることから、その表現たる真理も当然そうならねばならないこと、に基づくだろう。

このような見方は、一見すると極めて自然なものと思われるが、実際にはスピノザの体系内部に大きな内的緊張を導入するものである。それは、スピノザが観念と言うものを客観と一致したりしなかったりする絵や像のようには見ずに、思惟の力そのものと見做し、真理をかかる観念の自己を肯定する力、他の観念と結合しながら更に自らを拡大する力と運動と見なすことと、必ずしも整合的ではないからである。一般にスピノザは、真なる観念を真なる洞察と同一視し、それ自身から自らを肯定しまた他のものを解明する力をもつものと考えている。たまたま事態と一致する信念などではなく、再帰的・自己循環的に拡大していく認識なのである。だからこそ真なる観念は外的実在への参照に頼らずに、それ自身で真であることが知られると考えられるのである。このことは、観念がそれ自身のうちに積極的に虚偽と言えるような要素は何も含んでおらず、それ故虚偽の原因は、それが表現する真理の不完全性、混乱したり部分的・一面的である点にのみ存するとされたことから、当然の帰結とも言える。十全な観念、対象を完全にその全体性において表現する観念であれば、それが虚偽であることはあり得ない。そして、事態を正しく表現する観念であれば、何よりそのものをその他のものとの実在的連関、それゆえその観念のほかの観念との連関を隈なく表現しているはずであるから、それ自身の内で、それが真でなければならないという説得力を備えていなければならないのである。スビノザにおいては、観念が体系的構築物として意味を持ち、固有の明晰さを獲得するのである。

これと同様、科学的諸概念も、相互に連関を持ったものとしてのモデルを造り上げ、そのモデルが適切に適用されることで、現象の説明が与えられる。解明される以前にはただの混沌にしか見えなかった現象群が解明されてみると自らを一つの真理洞察として(すなわち真なる観念として)肯定的に表現していることになる。このことは、幾何光学の語彙と能力によるものだが、その説得力は、現象説明の外に抽象的に存在しているものではなく、解明された一つ一つの現象によって支えられたものである。こうして解明する道具と解明された現象は、一体のものとして働いているのである。それは、ジグソーパズルにおいて、ピースの一つ一つを関連付けておく置き方の認識と、そうして関連付けられて置かれたピースとの関係のようなものである。置き方は、ピースを実際置くことのなかにしか示されない。かくて、真なる観念が完全な認識と考えられるなら、「未だ認識されていない真理」と言う実在論的観念とは対立せざるを得ないはずである。スピノザの形而上学の底には、ともに根元的な実在論と反実在論が、二つながら相拮抗しており、それがいたるところ、解決困難な問題を噴出させる結果となっている。スピノザの難解さの秘密は、この内部対立という点にこそあるだろう。

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