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2013年10月27日 (日)

田島正樹「スピノザという暗号」(17)

第4章 心─身問題

デカルトが、意識としての精神をきわめて純化した形で捉え、身体的なものから鋭く区別した時から、近代の哲学に呪いのように取り付いた問題が、心と体の関係をどう理解するべきかという問題であった。例えば、精神の働きと見なされる知覚は、同時に外界からの刺激によって成立するのだから、何らかの物理的因果作用の結果とも考えられる。物理的対象から感覚器官を経て、脳神経に至る物理的因果が容易に想定できようが、それらの作用の果てに、ついに知覚表象というなんらかの意識的なものが成立するとなると、途端に不可解になるのである。この心身の間に因果法則を想定しなければならないが、このような法則を他の厳密諸科学、とりわけ物理学と調和させ共存させることは難しい。というのは神的なものが物理的場所づけをもたない以上、物理学と接点を持ちようがないからである。心身の因果関係は、意志が動作に影響帆及ぼすというような方向でも想定されよう。日常生活ではなんの不思議もなく了解されているこのような因果関係も、デカルト以後はとりわけ大きな難問と見なされるようになった。意志という全く心的なものが、いかにして物理的世界、とくに身体に因果作用を及ぼしうるのか、なんとも不可解に思われるためである。

これらは散々論じられてきた難問であるが、スピノザはそれに対してきわめて独創的であると同時に、ほとんど決定的とも思える解決を与えた。スピノザの議論の核心は単純である。心的なものと、身体または脳のある状態の関係は、いずれの方向でも因果関係ではなく、シニフィエ(意味内容)とシニフィアン(記号表現)の関係である。つまり、身体の状態は、心的なものを表現するシニフィアンの役割を果たしているのである。因果関係は、外的世界の出来事と身体の状態の変化の間に存在しているだけである。心的なものはシニフィエであるから、特定の心的状態(ないしは意味)が、はじめから身体の特定の状態(シニフィアン)によって、一義的に決まっているようなものではなく、他のシニフィアン全体との関係の中で全体論的に解読されねばならない。感官に対する物理的刺激及びそれによって励起された神経興奮は、それ自身単独で一つの意識生み出すわけではないのである。

 

およそ認識一般についての制約について語る規範的理論(いわば「超越論的」議論)と、理想的な認識としての神的知性についての理論が一つの理論になっているのは、スピノザにおいて、あらゆる認識が神的知性の部分と考えられるからである。これは超越論的議論と経験的議論との、きわめて独自な綜合の仕方だろう。なぜなら、どのような経験科学的な知識も、心的認識の正真正銘の部分である限り、超越論的な認識とそのままつながっているからである。両者は部分と全体の関係であり、基礎づけられるものと基礎づけられるものの関係として、異なる議論の水準に置かれるのではないのである。

・定理7 観念の秩序及び連結は、ものの秩序及び連結と同一である。

系 この帰結として、神の思惟する能力は、神の行動する現実的能力に等しいことになる。言い換えれば、神の無限な本章から形相的に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神の内に想念的(すなわち観念として)に起こるのである。

ここで観念と言われているのは、必ずしも我々人間の精神が考える観念のことではない。むしろあらゆる観念が、観念である限り備えていなければならない一般的制約が問題なのである。そしてそれは我々の場合にはしばしば損なわれていて、不十分にしか満たされていないから、ここで述べられている観念の条件は、理想的には神の思惟においてはじめて完全に満たされるだろう。

いかなる観念も、それが観念である限り、その秩序と連結によって、物の秩序と連結を表現していなければならない。スピノザは、誤った観念の場合でも、ものの秩序と連結はそのまま表現するかは、問題ならないという。実際には、いかなる観念にも、端的に誤った部分は存在しない。スピノザによれば、個々の認識や観念が一見したところ誤っているように見えるのは、それが真なる認識のごく一部であるのに、それで満足してしまうから、あるいはそれ全体であるかのように混同してしまうからにすぎない。部分的認識が切り離されて固定されたり、部分を以って普遍化したりすることが誤謬なのである。従って、どの観念も、完全な全体認識の中に位置づけられることによって、真なる認識の不可欠の部分であることが立証されるはずなのである。我々の有限な思惟がその部分である無限な神的知性という想定は、全ての観念に観念という価値を保証するものである。たとえ我々の場合にはしばしばそうなっていなくても、神的知性においては、その観念の秩序と連結が、実在の秩序そのものを表現していなければならないのである。

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