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2013年10月24日 (木)

田島正樹「スピノザという暗号」(14)

スピノザは、実体を定義して記している。

実体とは、それ自身において存在し、かつそれ自身によって考えられるもの、言い換えれば、その概念を形成するのに、他のものの概念を必要としないものと解する。

古来、ただ杳として流動する現象の中で自己を保持するもの、同定の対象として変化の基盤に措定される個体、それが実体と呼ばれてきた。色が、ものの色としてものに内蔵してのみ存在するように、これら内属的諸性質はそれ自身において存在しないのに対し、物や人の方は、ひとまず「それ自身において存在する」と見なしうる。その意味で、これらのものはひとまず実体と呼ばれてきたのである。しかしここで、それ自身において存在するものは、それが指示同定される時に、一体いかなるものとして存在しているか、「その何であるか」を示す本質や種概念が重要なものとなってくる。たとえば、流動する水のような対象は同一のものとして存在しているかどうか明確でないから、厳密に「それ自身においてあるもの」とは言い難い。本質概念は、それ自身において存在するもの(実体)の同一性の規準を与えるものとして注目されるのである。普通伝統的な存在論において、個体の指示同定の基礎となる本質概念が、対象自体の本質に属するリアルなものであるか、それとも理論家が語るための枠組みとして便宜的に措定しただけのノミナルなものであるかをめぐって議論が対立する。指示同定しつつ語る言語活動と、現象自体の活動とが切り離され、認識の目的論的理解モデルが立てられる時、理論家の活動の目的とは、対象の真理の認識である。他方、現象の活動の目的とは、人工物であればその完成または使用であり、自然物であれば永続である。認識とその対象の両者における目的論の間で調和が想定されるなら、永続するものの認識が目指されるだろう。最も永続するものは、数学的・イデア的なものである。したがって両者の目的が一致するところは、理論が数学的で対象の本質がイデア的である場合ということになろう。しかるに、これら「それ自身において存在するもの」には固有の難問がつきまとうことも、昔から知られている。それをイデアと呼ぼうと集合と呼ぼうと、それが何らかの包括的全体者であることに困難の種がある。例えば、プラトン自身に自覚されていたイデア論の困難はつまるところ、イデア論を語る上で不可欠のイデアをイデアであると判断するために、さらにイデアのイデアに訴えざるを得ない点にある。それ自身において存在すると想定されているもの(イデア)について考える段になると、その思惟自体が、当の思惟の対象を変容させてしまうという点にその共通の根がある。かくて、「それ自身において存在する」ことを、完結した全体と考えることでは不十分であることが分かる。

カントは、実在性をこのように無限なる閉じた全体と考えることが、不可避にパラドクスを生じさせることを見抜いていた。カントにとっては、実在性は悟性だけで決着できるものではなく、可能的経験に基礎を置かねばならない。可能的経験は、必ず時空的に定位せねばならない。悟性的概念は、感性的適用(検証・反証)場面を持たねばならないのである。つまり、実在性の基礎を与える時空それ自体が完結した実在ではなく、思惟の形式であるということは、カントにおいては実在性が可能的経験という点に求められるということを示している。可能的経験の可能性は、単に我々がそれを考えようが考えまいが存在すると想定される論理的可能性ではない。例えば、角を二等分する直線を引く可能性は、単にどこかに存在しているはずだという論理的可能性ではない。それを作図する方法が知られて初めて、それは我々の可能的経験の中に入って来るのである。証明の可能性も同様である。それゆえ、空間についての幾何学的真理も、実際われわれが証明を手にするまでは、我々の可能的経験内部には存在しない。我々の可能的経験自体が証明によって拡大し、我々の思惟可能性を拡大するのである。また、延長はイデアのように完結した全体ではなく、可能的経験のように、操作によって構成され、また自身構成するもの、操作の反復を自らのなかに繰り込んで、再帰的に増殖して行く力動的なものと見なされねばならない。すると延長自体が、「主観的なもの」と言って悪ければ、思惟によって構成され統合されるものという側面をもっていると言わざるをえない。もちろん延長を勝手に作り出すことなどできるはずはない。思惟は、経験的諸対象の空間関係を、一つの全体へとまとめることができるだけである。空間は、空間的対象に先んじて存在することも思惟することもできない。新たな空間的対象の経験の可能性がつねに開けているとしても、それにすべてが完結した全体として有限か無限とされることはできないのである。ここで問題となっているのは、「それ自身において存在すること」と「それ自身において考えられること」との相即的関係なのである。すなわち「それ自身において存在する」ということが、思惟と独立したイデア的自体存在と考えられないからこそ、実体は同時に「それ自身によって考えられるもの」でもあり、「自らを思惟するもの」として、思惟の属性を含まざるを得ないのである。つまり、実体は延長を属性とするためには、思惟をも属性とせざるを得ないのである。

実体が思惟を含むものと考えると、それが「それ自身において存在する」あり方は、イデア的実在の場合とは打って変わって、一挙に力動的なものとならざるを得ないだろう。延長は、はじめから与えられた全体ではなく、延長から延長へと拡大し増殖する力動性として存在するのであり、そのさい空間を認識する思惟が不可欠である。その思惟(認識)は次の認識の道具を提供し、再帰的・循環的に自己原因的発展を遂げるものである。それゆえ何か一つの目標へと接近して行くというよりも、認識が得られれば得られるほど探求のフロンティアは拡がり、問題や課題も増えていくものなのである。それは、一つの答えをめざすよりは、探求の力能と探求可能な領野を拡大していく運動なのである。力動的なものとして「それ自身において存在する」あり方こそ、再帰的に自己回帰する自己原因ということである。延長は延長へと、認識は認識へと、経験は経験へと統合され回帰する。それらはいずれも、活動力が自己を拡大する運動の契機をなすものといっていい。かくて、自己原因的活動の究極の定式化は、「力能が力能を生む」ということである。ここにおいて力こそが、その拡大の力動性のなかで自らを保持し、「自己自身においてある」実体であることになろう。

いまや神的実体の全体論は、力が力を生む再帰的・循環的活動という相でとらえ返される。各実在は、それぞれ結びあって堅固な実在性を発揮し、それぞれの観念がそれぞれネットワークを形成して、より堅固な真理を構成するように、実体はたんに寄せ集まった全体であるのではなく、みずから維持する全体であり、自己原因的に循環する力動そのものである。

結局、第一、第二の証明は、実際は第三の証明とその説明に依存しているのである。そして、「それ自身においてあり、それ自身によって考えられる」という実体の定義に、実質的内容を与えるものは、結局この「自己原因」をおいて他にない。それなくしては、属性を一つの全体として統合するものも、また複数の属性(延長と思惟)を一つの実体のもとへと統合するものも見当たらないだろう。

スピノザの自己原因は、力能の観念・自己保存力の観念と結び付けられて理解されることによって、実体の他の本性を解明し、基礎づける役割を担っているのである。自己原因は、我々の理解を越えるものであるどころか、我々に分有され、我々自身の生と思惟のなかで、部分的ながら実際に働いているものと見なされるのである。我々のコナトスと神の自己原因は、質的に異なるものではなく、部分と全体の関係、あるいは実在性と完全性の程度の違いでしかないのである。

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