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2013年10月11日 (金)

田島正樹「スピノザという暗号」(3)

3.惑溺の政治

スピノザが38歳の時、『神学・政治論』が出版された1670年代のオランダはオレンジ公家を中心とする勢力と、新興の都市ブルジョワの支持基盤を置くヤン・デ・ウィットの勢力との対立・抗争の時代として、大きく特徴づけられる。前者は熱狂的なカルヴァン派プロテスタントに支持基盤を持ち、後者は宗教的寛容と宗教・良心の自由(政治的権威からの独立)を主張する都市市民の支持を受けるというように、政治対立と宗教対立がほぼ対応していた。それゆえ、この時代での宗教的発言が、すぐれて政治的意味を持たざるを得なかったことを理解しておく必要がある。

そんな中でスピノザの『神学・政治論』が、ヤン・デ・ウィットの立場に共鳴し、カルヴァン派に対して対抗するために書かれていることは明らかである。オレンジ公勢力がカルヴァン派の僧侶を使って民衆の迷信につけ込み、来世の脅しを使って政治的煽動を使用としていることに対して、スピノザはその宗教的権威が聖書の正確な理解に基づくものでないことを示すことによって、そのイデオロギー的基礎を掘り崩そうとしたのである。スピノザには、そのために動員できる十分な知識があった。

スビノザは24歳の時に、ユダヤ社会から呪いとともに永久追放されることになるのだが、それまでにかなり徹底的に聖書を研究し、その研究を通じて、やがてユダヤ教の正統権威に疑問を抱き始めたのに違いない。そして、己の精神の自立の根拠をただ聖書自体に求めて、この正統権威に対して己の心の内深く秘かに闘った時期があったに違いない。なぜならそんな時、正統権威とは違ったところによりどころを求めようとしても、そのようなものをはじめから認めない正統権威は、びくともしないからである。正統権威にとって脅威となるのは、同じ権威に基づきながら、それを内側から突き崩す解釈と理解のみである。スビノザは、自分自身の聖書解釈によって正統権威を徹底的に批判し得るようになったことが、他の様々な新思潮へと目覚めさせることになったのである。

権威あるテクストの片言隻語を文脈から切り離して理解し、大げさで感情的な象徴的価値をそこに付与してそれに固執するような傾向、「惑溺」と呼ぶべき心性を、スピノザは見抜いていた。スピノザは、ユダヤ教正統指導者たち宗教への批判を深めていくうちに、しだいに宗教一般の権威が、かかる精神の惑溺と不可分であり、宗教的権威は、巧みにシンボルへの惑溺を助長することによって、信者からの自律的理解力・判断力を奪い、みずからの信徒への支配と呪縛を強化するのだ、ということに気付いて行ったのである。

信仰という関わり方の中には、本質的には不安定なものがあらねばならず、信仰内容が一定のまま、それを後生大事に維持していればいいといったものではない。一方では、隠れた神に対してつねに「うめきつつ求め」つづけ、自らの乏しい信仰内容をたえず豊かにしていくことが求められると同時に、他方では、自分が信じたつもりになっている信仰が、実際には他人の信仰を模倣した形ばかりのものではないかどうか、たえず自己吟味し、解体をくり返すべきものであというように、信仰は絶え間なき動揺のなかにありながら常に更新されるものとして、かろうじて存在し得るだろう。ところが、シンボルへの惑溺や律法主義的ファンダメンタリズムは、固定的な信仰箇条のひとつひとつに自己目的的に固執し、それによって、己の信仰を一つの確固たる所有物に代えてしまう。それというのも、その「信仰」が、己の権力をふるうための権威づけの口実にされてしまうからである。そうなると、超越的なものとの関わりに本来存在する生き生きとした動揺─解体と再生をくりかえしつつ、われわれの思惟と吟味を刺戟することで更新される関係─が阻止され、うってかわって硬直した形式が、それ自体信仰そのものであるかのように、そして善悪の基準そのものであるかのように象徴化され、わけのわからない物神に祭り上げられていくのである。

それ故、それに対して内在的に理解しようとするアプローチは、その「信仰」に対して、解体的作用を及ぼさざるを得ないのである。なぜなら、内在的に理解されるべきなにものもそこに存在しないことが、イロニカルに暴露されてしまうからである。聖書を聖書自身から理解するという徹底した「内在主義」は、同時に、聖書の言葉を聖書全体から理解するという「全体論的解釈」へと導くだろう。聖書解釈を通じてスピノザが若くして確立したこの二つの態度こそ、われわれがのちに見るように、生涯を通じて彼の哲学の根底を形成した、最も重要な要素をなしているのである。

スピノザは、預言者たちへの神の啓示について、「預言者たちは、神の啓示を表象力の助けを借りてのみ把握したのだ、換言すれば、言葉あるいは像─それらが真実なものであるとたんに表象的なものであるとを問わず─の媒介によってのみ把握したのだ」と記している。掲示が預言者に理解可能なものとして示されるためには、これ以外にありえないのである。なにか超人的な手段に神が訴えることができたとしても、われわれ人間にとってそれが理解できないものであれば、何にもならないだろう。むしろ、預言者のそれぞれが持っている気質や考え方の違いに応じて、それぞれに理解できるやり方や表象されるイメージにも違いが出てこざるをえない。

啓示は、いったいどこからそれが啓示と知られるだろうか?モーゼに啓示された掟を、どうしてモーゼは神からの啓示と知ることができたのであろうか?神の言葉に、一声聞いただけでそれと分かるような特徴(音声)が備わっているわけではない。もしそんな特徴があったとしても、それが神の声の特徴であるということが、どうしてわれわれに知ることができるのかと問うならば、結局同じことになるだろう。われわれにそれが神の声だと判断できる根拠がなければなんにもならないように、神の声の特徴にも、それを判断する基準を手に入れるために、われわれは、神の発言だということをすでに別の根拠から知っている、様々な発話資料を手にしているのでなければならない。掲示の内容が立派であるとか正当であるということからしか、それが啓示であるとは知られ得ないはずなのである。少なくとも不合理で支離滅裂であったり、矛盾を含んでいては、それらは理解できる内容を持たないだろう。しかし、啓示の内容を立派で正当であると我々が判断し得るためには、そう我々が判断する基準自体は、我々の常識的価値による他はなく、それ自体を啓示によって与えられることはできない。

デカルトは、我々の道徳律は神の命令であるからという以上に理由はなく、神の意志を我々の道徳的価値で忖度することはできない、と言う立場をとった。しかしその場合、なにゆえ神の命令に従うことが道徳的価値を持つのか、全く理解できないことになろう。たとえ神が万能の権能をもつからといって、我々には服従すべき倫理的義務が生じるわけではない。倫理気価値は、現実に営まれている社会と別に存在するものではなく、それらの営みへの自らのコミットによって生じるものであり、我々に唯一可能な倫理学は、かかるコミットの細部の価値直観から出発し、できるかぎりその直感的判断を生かしうるように、それらの間に整合的で首尾一貫した判断を結果するような価値原理を探求する倫理学だろう。たとえ我々が整合的で体系的な倫理学を持ったとしても、少なくともその大部分が我々の倫理的直観に裏付けられたものであり、またそれを理論的な正当化するものでない限り、我々の倫理の理論とは言えないだろう。かくて、倫理的価値の源泉は、日々の社会的営みのなかにあり、外からそのようなものを啓示する必要はない。掲示ということがなされるにしても、それはすでに我々が知っていながら十分には意識していないようなことに新たに気付かせるようなものとしてしか、なされえないのである。そうだとしても、それが全く新しいものをもたらさないことにはならない。

しかし、ユダヤ教やカルヴァン派の僧侶が啓示に見るのは、このような倫理的新機軸ではない。むしろ、日々の倫理的関心と切り離されたところに、それらを超越する権威を作り出し、その権威を笠に着て、ひそかに人々を支配しようとするためにこそ、片言隻語への象徴的惑溺が利用されるのである。人々の倫理的創意工夫を解放するどころか、それを封殺し、すべてを、僧侶によって組織的に煽動された盲目の党派性に動員することが問題なのである。

スピノザの哲学は、その出発点からして、かかる頽落した宗教的精神による惑溺と、ルサンチマンによる大衆の煽動を直接の標的としていたが、宗教的権威筋のほうでも、そのことをはじめから過たずに察知していたのである。若いころの、ユダヤ教内部での闘いを通じてスピノザが身につけていった基本戦略が、いかに根本的に彼のその後の形而上学を特徴づけているか。

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