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2013年10月10日 (木)

田島正樹「スピノザという暗号」(2)

2.感情の治療学

『エチカ』第五部の序論で「感情の治療学」としての論理学を展開している。

我々は、様々な感情や欲望(衝動)を持つが、その真の原因を知らない。とりわけ問題なのは、我々の中にわき起こり強い力でわれわれを支配してしまう否定的感情である。憎悪、絶望、卑下、恐怖、憐憫…これら苦しみ(悲しみ)を伴う感情を、スピノザは非十全的な認識によるものと見なし、それゆえその原因の十全な認識を与えることによって癒すことができると考えたのである。

スピノザは友人のファン・ローンという人物が重い鬱状態に陥った時、そのきっかけと思われたレンブラントの死に正対させるため、レンブラントの思い出を綴ることを勧めることを通して、ローン自らの感情を再認識するきっかけを与えた。それはさながらフロイトの精神分析学を想わせる手法であった。そこで実際にスピノザが施している「治療学」はファン・ローン自陣の言葉の中に、本人自身が気づいていはいない感情の地下水脈を探り当て、それを本人自身が気づくように促す体のものであった。いったいどこから、スピノザはこのような知恵と技術を自分のものとしたのだろうか?『エチカ』第三部に見る感情論では、心理学を生物学に還元し、感情を生物体としての健康の指標としか見ていない。そんな粗雑な心理学で、どうしてファン・ローンの病気を治療するような繊細な心理的洞察が得られたのだろうか?

スピノザはそもそもどのような問題意識から、その感情論や心理分析に手を付けたのだろうか。その手がかりを、われわれは倫理と密接に結び付いた諸感情についてスピノザが語っている言葉に求めることができる。「憐憫」「謙遜」「後悔」「自己卑下」等の感情は、伝統的にキリスト教的道徳と密接に結びつけられているのである。己の高慢が゛運命の試練の前に罰せられ、後悔と悔恨の中で悔い改め、従順な神の僕へと立ち返る。そこから己を低くし、謙遜を学び、隣人の弱さに対しても憐憫を抱くにいたる。こういう魂の悔い改めのドラマが考えられているのである。ところが、スピノザは、これらの諸感情に対して悉く低い評価しか与えていない。

「高慢」が自己に対する真の認識に基づかぬ、思い上がった盲目を含んでいるのはいいとしよう。しかし「謙遜」についても全く同様に考える。すなわち、「みずからの至らざるところを率直に直視すること」は、なんら「率直に直視」することではない。このような「謙遜」はけっして自らの中立的・客観的認識などではなくたんに「自己の無能力を観想することから生ずる哀しみ」にすぎない。「自己の無能力を観想する」とあるのも、「自己の無能力」という客観的事実に対する認識という意味ではない。もし、本当に自己の客観的事実に対して十全な認識を持ち得たとしたら、そこから必ず理性に基づく能動的活動が湧出するはすであるのに、ここではただ非十全な自己認識に伴う悲しみしか存在しない。ここには悲しみという受動的感情に支配されることによって生じた無力があり、その無力から生まれる悲しみがある。そこには非十全な認識の兆候があり、理性と能動性の欠如の証拠がある。ということは、自己の非を認めて「自己批判」するということは、どこか外部から押し付けられた理想とか、価値尺度を盲目的に受け入れ、そのもとで自己の中に欠けているものを述べているだけである。ここには、何故その理想や価値尺度を自分が受け入れたのかという理由の吟味もなければ、何ゆえかつての自分がそれとは違う理想や生き方をしていたのかの総括もない。理想はいわば口実に過ぎず、だからこそ、厳密な吟味もないままにやすやすと乗り換えることができてしまう。つまり、己の内的な統合を欠いた権威主義的な心性を示すものでしかない。結果的に、自己卑下は、自己の無力さの認識ではなく、無力さそれ自体の兆候に過ぎず、重要なことは、過去や現在の自己を否定することではなく、それを肯定する筋道を見出すことである。

安直な反省は自己欺瞞でしかない。行為や情念や信念の統合である自己自身は、何らかの合理性や内的一貫性を要求するだろうから、そのような自己にとって、何らかの自己認識は、そもそも自己として存在するうえで不可欠だろう。しかし他方、行為が自己認識を契機として含まねばならないのと同様、自己認識もまた、自らの中に行為の契機を含まねばならず、それを単なる静観と見なすわけにはいかないのである。つまり自己認識は、自らの能動的・積極的な本質に注目して、それを未来に向けて解放し、完成へと導くものでなければならないのである。

一方、「悪」を否定したり、「欠点」を反省したり、「悪徳」を非難する道徳に対して、スピノザが語る言葉は辛辣な調子を帯びている。まるでニーチェのルサンチマン道徳への批判のようである。自らの内部に充実した活力を感じない人々は、生き生きとした活動を発揮しつつある人々に対する嫉妬と怨恨にかられる。しかし、彼らの自己認識は曇っているために、みずからの無力に比べて他者の活力を、しばしば自分が所有しえない名誉とが富とか、その他に類する偶然的なもののせいにしてしまう。これは、みずからこれらの欠如としてとらえる錯覚を含んでいる。その上で、これら偶然的な所有物の価値を見下し、そのように見下すことのできる自己を高める倒錯した価値尺度を偽造するのである。超越的な価値尺度を掲げる人々は、それに照らして人々の様々な欠点を指弾するのだが、次第にこの尺度を達成困難なものに吊り上げることによって、万人を罪人にしてしまう。こうなると、はじめに、たとえば律法が持っていたような、価値尺度としての実質的役割はなくなってしまう。いまや問題は、律法を守るかどうかではなく、自分の「罪」を自覚するか否か、ということになる。己の罪と弱さをすすんで認めることが、唯一の価値としてでっちあげられるのである。

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