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2013年10月16日 (水)

田島正樹「スピノザという暗号」(8)

2.全体論的合理性

デカルトは、一見真らしく思われているだけの信念をあえて疑う「方法的懐疑」を実行する。目の前の事物や自分の身体の実在まで疑おうとしても、ふつうにしていれば、それらは疑いようもない事実として現われて来て、疑いきることは困難である。それでも無理に疑うためには、デカルトがしたようなかなり人為的な想定をして、「悪しき霊によって我々の精神が、そう思い込むように操作されているかもしれない」等と考えてみなければならないだろう。実際に、この会議を遂行する意志の力が、悪しき霊の悪意を想定する事で高められたところで、一転して意志自体の自己明証という形で「我思う、ゆえに我あり」が確実な認識として最初に確保されるのである。

「我思う」が最初の絶対確実性として確保されるためには、逆説的にも、懐疑の意志が明確でなければならないのである。しかしそれなら逆に、かなり明確な懐疑の意志をもったり、深い懐疑を実際に遂行したりためには、それを遂行するのに十分なくらい確かな知を前提するということにもなるだろう。夢と現実の区別を持っていなければ、「全ては夢かもしれない」という懐疑は意味を持たないし、欺こうという意志が意志として想定されるためには、真理の概念が当然前提されていなければならないのである。それゆえ、デカルトが装うような普遍的懐疑という想定には、はじめから自己撞着が含まれているのである。

実際に我々は多くの事実に基づいて夢と現実を区別できている。夢と現実を区別する事実の一つ一つを見れば、決定的な区別ではないかもしれないが、それらの事実一つ一つが独立しているわけではなく、現実の中で密接に関連し合っている。そのような関係自体が、現実を形づくっている。これらの関係一つ一つも、単独で切り離す場合には、それを疑うこともできるのだが、諸現実がなんらかの形で密接に関連し合って形づくっている総体を疑うことはできない。疑うことにそもそも意味がないのである。

デカルトの懐疑が、あらゆる観念や思想内容の外に立って判断しようとするものであることは明らかだが、スピノザによれば、このような外在的な立場はそもそも可能ではない。デカルトならば、言明を、命題内容(志向的内容)の部分と、それに対する(命題的)態度とに分析し、内容を理性によって理解することと、それに対する肯定・否定の態度をとる意志とは別だと見なすだろう。実際、(有限の)理性による理解と、(無限定の)意志による判断のギャップによってこそ、誤謬が可能とされるのである。スピノザによれば、理解された同じ内容に対して、肯定したり否定したり、はたまた疑ったりなどの、異なる態度を自由に為しうる意志という想定は幻想である。

スピノザによれば、観念それ自体の内に、肯定・否定を促す力がある。例えば、三角形の内角の和が二直角に等しいという思考内容(観念)は、それ自体の内に真であることを肯定させる力がある。もっとも、そのためには、この観念がただその命題の形で提出されているだけでは十分ではないだろう。命題だけをにらんでいても、その正しさは分からない。しかし、適切な証明構成の結果としてこの命題が定理として示されれば、もはや我々はその真理性を疑うことはできないだろう。観念とは、そこに我々がその意味を読み取ることによって、おのずからある判断に導かれる理解内容であるとしか言いようはない。つまり、言明や照明構成の中に読み取ることによって、おのずからある判断に導かれる理解内容であるとしか言いようはない。したがって観念は、ある規範的な発現の形をもつ力であると言うこともできる。このように考えると、三角形とか二直角と言う概念がある力を持ち、適切な証明構成が与えられたとき、おのずからそこから証明を導き出し、かつその肯定を発現することが分かる。我々は、平行線と交わる直線によって生み出された二角に適切に注目することによって、それが錯角として等しいことをおのずから肯定する。二組の錯角と残された角が合わせて直線を構成していることから、それら三つの角の和が二直角に等しいことを肯定する力がおのずから生じる。これは、それぞれのステップが、観念の力によっておのずから運ばれることによる。我々の観念は、このように適切な文脈が与えられれば、そこからあるある規範性を伴って一定の判断を生み出すべき力を持つものとして習得されているのである。

概念または観念を、このようにおのずから適切な文脈で一定の規範的形をもった発現の力をもつものと考えることは、それを言語習得の場面から考える以上、不可避のことである。観念の理解は、それがいかに行動や判断に発揮されるかということを離れては、規定しようがないからである。たとえば、将棋のゲームや算術の計算を教える時、実際に駒を動かしたり、いくつかの練習問題をやらせたりするはずである。将棋の駒の動かし方や算術の加法の観念は、適切な状況において適切な行動や判断をできることとしてしか教えようがないからである。ここには観念をめぐるいかなる神秘もありえない。

そこで、観念は、適切な状況で、あるいは他の適切な観念との組み合わせによって、しかるべき判断へ、またはさらに別の観念へと出力すべきものとして力をもつのである。このようにスピノザにおいては、判断とは観念自体の発揮する力と別物ではない。それゆえ、観念を外から肯定したり否定したりする一般的能力としての意志と言う観念も、たんなる抽象でしかない。

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