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2013年10月23日 (水)

田島正樹「スピノザという暗号」(13)

定理11の第二番目の証明の大筋は次のようなものである。

全てのものについて、その存在・非存在の理由が存在する。それゆえ、存在を妨げる理由がないものは、存在せねばならない。ところで神は、その存在を妨げる理由がないから、神は存在する。というのも、そのようなものは神の外にも内にも、存在しないからである。神の外にあるものは、神となんの共通性も持たず、従って神に(因果的に)作用することはできない。それゆえ、その存在を妨害することはできない。また神のうちにかかるものが存在するとすれば神の本性が矛盾を含むことになる。しかし、神は「絶対に無限で最高完全な実有」であるから、そんなことはありえない。

スピノザの根本的発想の中には、否定はそれ自身、何らかの肯定的な存在の措定を前提としているはずだ、というものがあったと思われる。通常我々は、否定が述語につけられるものとみなしている。すると、「赤」と「非赤」のように、否定を介して、対象が二つの分類させることになる。すると、プラトンが『ソピステス』でやったような、概念の二分類の体系を次々に生み出すことが、否定作用の本質であるかのような見方が生じてくる。しかし否定によってつねに分割が行われるわけではない。例えば、存在と非存在の関係は、このような分類とは考えられないのである。それゆえ、ある概念の否定によって、つねに有意味な類や集合が確定すると考えることには問題がある。分類概念としての否定的述語は、アリストテレスが「反対のものども」と呼ぶものである。アリストテレスによれば、白いものから白くないものへの転化の場合、その転化を通じて、その基に第三のもの、すなわち質料とか基体といったものが、恒存するものとして存在していなければならない。したがって、そのような基になる第三者を想定し得ないようなもの、たとえばアリストテレスの意味での「実体」には、その反対のものが存在しない。存在と無は、このような反対のものどもには属していないのである。この洞察はどのような述語に対しても、必ずしもその否定述語が存在するわけではないことを示している。「人間である」という述語に対して、「非人間である」という述語を人為的につくっても、前者が何か一つのもの(一者に即して語られるもの)を表現していると言えるようには、後者が示しているものは存在しないのである。その意味で、このような述語づけは、無限定判断とか無限判断と呼ばれることがある。否定的述語が何か一者に即した表現と言えるのは、アリストテレスのいう「反対のものども」または「反対のものに対して反対のもの」と言えるような述語の場合だけであり、それは「反対のものども」が共通に帰属し得る基体の存在を前提としているのである。

さて、共通の基体のうえに成立する「反対のものども」においては、一方の成立の理由は同時に他方の不成立の理由であるから、成立と不成立には非対称性はない。しかし、実体的な存在者の場合について、その存在と非存在をこれと同様に扱うことができないのは明らかである。存在するものについては、その原因(理由)について問うことは意味を持つが、存在しないものについて、その非存在の原因について問うことは、いったいそこで問題になっているのが、何かの非存在か明確にならない以上、何の原因が問題かを特定できないのである。「何ものかの非存在」ということは、そのものが存在していない以上、指示しようがないのである。もちろん、丸い四角のように、その観念が矛盾していることを示すことによって、「非存在の理由」を示すことができる場合もある。しかし、それ以外の日存在者については、それを特化することそのものが困難であり、したがって、その原因・理由と同様に問うことがそもそも意味を持たないのである。存在の原因・理由と同様に問うことができるのは、「反対のものども」に対してだけであり、その場合には、どちらに対する理由も、同一の学問・知識の対象となるだろう。結局、「非存在の理由」としては、それ自体の矛盾と他のものとの不整合以外にはありえない。一方は、その観念内部に矛盾が含まれている場合、「丸い四角」など。他方は、他の実在や実在の本性と相容れない場合、「ペガサス」など。しかし、スビノザの実体については、それ以外の存在があり得ないものであるから、他の実在やその本性と相容れないという可能性はない。すると残るところは、自己矛盾が含まれない、したがって存在不可能であるわけではないということしかない。存在可能であるからといって、存在しなければならないのだろうか。存在を妨げるものが、実体内部に存在しているとすれば、それはこの実体の内部に矛盾を抱え込むことになり「そうしたことを絶対に無限で最高完全者である実有について主張することは不条理である」。それやえ、この実体(神)の存在を妨げるものは、その他にも中にも存在しない。従って神は存在する、と言われる。いずれにせよ、この証明はそれだけで自立できるようになってはいない。既に自己原因的な存在者としての神の実在を前提しているからである。

 

以上の証明と比べて格段に興味深いのは第三の証明、およびそれに説明を付け加えている備考である。

存在し得ないことは無能力であり、これに反して存在し得ることは能力である(それ自体で明らかなように)。だからもしいま必然的に存在しているものが有限な実有だけであるとすれば、有限な実有は絶対的に無限な実有〔神〕よりも有能であることになろう。しかしそれは不条理である。

備考(略)存在し得ることが能力である以上は、あるものの本性により多くの実在性が帰するにしたがって、そのものはそれだけ多くの存在する力を自分自身有することになり、従って、絶対に無限な実有すなわち神は、存在する絶対に無限な能力を自分自身に有することになり、こうして神は絶対に存在する。

実在性=力能=完全性というスピノザによるこの等置は、哲学の古い伝統に訴えるだけでは、決して解明されない。昔から神の特性に帰属されてきたこれらについて、スピノザはまったく独自の思考内容を盛り込んでいるからである。『短論文』のアポステリオリな証明に見たところから、我々は実在性を実在の全体論的連関のことと考え、真理をこの全体の観念と考えることができる。実在性に程度があると見なされるのは、実在の全体そのもののことではなく、実在をいろんな角度から表現する観念について言われるものである。なぜなら諸観念は、それが他の諸観念といかなる連関をもっているかに応じて、様々の程度の不完全性・非十全性を有し、したがってまた様々の程度の実在性をもっていると言わざるを得ないからである。そして、神の観念が最高度の完全性を持つのは、このことから必然である。神の観念がそのような実在性を持つということは、とりもなおさず神が存在するということである。もっとも、厳密に言えば、「神の観念」といっても、我々がもつ神の観念と神自身がもつ神の観念とは別である。われわれには、神のいわば抽象的観念が与えられているだけで、その全体が与えられているわけではない。つまり、真理の全体という観念が与えられているだけで、真理の全体が与えられているわけではない。我々の思惟は、神的思惟の部分に過ぎないからである。しかし、全体論的合理性という観念をスピノザが『聖書』解釈を通して獲得した時、彼は、この方法論的概念が、同時に真理の観念の中核であり、すべての真理への展開の胚珠的観念であることに気付いたのである。『エチカ』の存在証明で新たに加わったのは、力能という観点の強調である。この力能と実在性を結ぶ要こそ、「自己原因」である。自己原因とは、自己循環活動性の中に存在する能動的活力を意味している。

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