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2013年10月17日 (木)

コーポレートガバナンスって企業だけの責任?

コーポレートガバナンスについての議論はここでも、何度か取り上げてきました。私の癖なのでしょうか、大抵の場合は、そもそも論、どうしてこういうことが議論されているのか、っていうことに遡ることが多いです。で、コーポレートガバナンスについて、何でこのことが議論されて、上場会社が色々と考えなければならないようになったのか。これは私の独断と偏見で、教科書的な議論とは食い違っているかもしれませんが。企業の不祥事などは昔からあって、最近に始まったことではなく、むしろ粉飾決算とか役員の不正などは散々、検察に摘発されたり、新聞にすっぱ抜かれたりされてきたことです。そのことから、コーポレートガバナンスということが議論されていたかというとそんなことはなかったと思います。

では、きっかけは何だったかと考えると、日本の株式市場が低迷から脱し切れていないということです。実際、日経平均はバブル経済の最盛期であった1990年代の最高値に未だに届かないという前代未聞の世界唯一の低迷市場だということです。だから投資家は手を引いていくのは当然で、だからといって各企業が業績を伸ばす可能性は絶望的というと、それ以外で投資家が投資を躊躇するリスク要因を排除していこうということからと考えます。かなり偏った考えでしょうが、経済成長が著しい新興国への投資はリスクがあっても投資が殺到していることから、それは間接的に証明できると思います。とはいっても、日本企業の多くが抱えている株主を向いた経営が為されていない、資本コストを考慮した経営の効率性が悪い、というのは以前からずっとあったことだったのが、各企業の成長が鈍ったことで、相対的に問題が大きくなってきたということだと思います。それまでは、投資している株主へのリターンが、各企業が成長し、株式市場が成長することにより、全体がパイを拡大させていくとで、そのリターンがそれに乗って増えていて、投資した株主は相対的に満足感を得ることができていた。しかし、パイが拡大はおろか縮小していったことで、潜在的だった問題が顕在化した。その時に、企業が成長できないのは経営に問題があるのではないか、ということや大きな成長ができないのなら経営の効率化を進めて株主を向いた経営を、投資している株主の立場としては最低限やってほしいのに、見向きもしない。それは、投資している立場から見れば、怠惰に見える、そんな経営を放置していていいのか、ということではないかと思います。そこで、株主の立場にたった人を経営陣に組み入れることで、投資している株主を向いた経営をさせようというのが、社外取締役という制度の趣旨ではないか、と思います。

というような考えに立てば、株式市場の低迷はたしかに企業が低迷しているのが大きな原因ではあります。それは当然のことで、企業の責任は大きいことは言うまでもありません。とはいえ、企業だけの責任なのでしょうか。株式市場の参加者は投資される企業だけではありません。投資する投資家もそうです。その投資家に代わって手続きをする証券会社や市場の運営者、東証とかですね。こういう人たちにも責任の一端はあるのではないか、と私は思います。別に責任転嫁するつもりはありません。例えば、投資している人は企業の所有者であるということで、その権利を持っているのですから、その権利を行使しなければ、権利の上に胡坐をかくこと、つまりは権利の放棄と同じことになるはずです。一時期、アクティビスト投資家として海外のファンドがやり玉にあがりましたが、そこまで強引なことをしなくても、時には経営者に煙たがられるようなことがあっても、企業が成長しなければ投資した意味がないわけですから、そこで厳しいことを言ったりするということがあってもいいはずです。そういう議論が日々行われていたとしたら、社外取締役などという制度は必要ないはずです。

この場合、コーポレートガバナンスというのではなくて、株式市場全体のガバナンスとして考えるのが本来の意味ではないのでしょうか。それがあって初めて、株式市場の自由競争に市場原理によって“神の見えざる手”が働いて適切でない企業が淘汰されるということがあるのではないか。そういうことがあるから、企業は自身のガバナンスに努めなければならなくなる。つまり、株式市場のガバナンス、投資する人たちのガバナンス、証券会社が市場に参加するガバナンス、市場を運営する証券取引所のガバナンスというガバナンスの輪の中のひとつとして企業のコーポレートガバナンスがあって、はじめて実質的な機能を果たせるのではないか、と思うのです。

これは、一企業の内部のものの一面的で偏狭な見方かもしれませんが、制度として株主が発言できる場、意思決定をする場である株主総会の投票に、自分自身で考えることなく、議決権行使助言会社という権利もない部外者の形式的な意見を、金を払って購って、その無責任な意見によって投票するというようなことをしている、というのは投資をしてその権利を守るというタテマエから大きく逸脱している。わたしには、このような権利放棄を棚上げして、企業に一方的に法律の強制などでガバナンスを求めるということは、一方的な気がします。何よりも、そういう議論の中に株式市場に対するリスペクトが、私にはまったく感じ取れないでいます。

先日、あるコーポレートガバナンスに関するセミナーで、投資家の人もまじえたパネルディスカッションがあったのを見てきました。その中で、日本企業のコーポレートガバナンスは以前より進んできたと思うが、ROEが依然として低いなど、実質が伴っていない、というようなことを他人事のように発言するアナリストがいました。その発言している当人に、そうなった責任の一端は、少しだけかもしれないが、自分もあるという当事者意識が全く感じられませんでした。もし、当事者としての意識があるのなら、例えば、発言も、そのことを経営者に話しているが意識は変わっていない、とかそういうものになってくるはずです。多分、そういう行動はとっていなくて部外者の評論家のようになっているのだと思います。すべてのアナリストがこうだとは言いませんが、概してそういう人が多いのではないか。そんな議論で、ガバナンスという議論は本気で取り組もうと思えるのか。私には、外形的で弁解の証拠作りとして実施されているように見えて仕方がないのです

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