無料ブログはココログ

最近読んだ本

« ストーカーに遭う気分? | トップページ | 八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(10) »

2013年10月 7日 (月)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(9)

第5章 古代からの継承と普遍論争

アウグスティヌス

紀元410年、アウグスティヌス(345~430)は、晩年を迎え、キリスト教会の司教として北アフリカにいた。そんな状況の中で永遠の都ローマが攻略されたことを聞き知る。

彼の「神の国」を読むと、彼の哲学に関するすべての仕事は信仰のためであったと納得することができる。例えば、近代哲学の父デカルトに「われ思う、ゆえに、われあり」という人口に膾炙した言葉があるが、この言葉はアウグスティヌスに元があると言われている。実際初期のアウグスティヌスの著作の中に「わたしが疑うがゆえに、わたしがあることは確実である」という言葉がある。あるいは「神の国」でアウグスティヌスは自分のこの考察を思い出して、再度「わたしが欺かれているのなら、わたしは存在する」と述べている。たしかに、両者の言葉は論理的には同一の論であろう。しかし、デカルトの場合、あらゆることを疑ってかかる考えには、翻って自己の存在を確信する思いがあるとしても、少なくともその言葉には、それ以上の意味はない。わたしが考えているのなら、その考えているわたしが少なくとも「ある」ことは確実である、ということだけである。言い換えれば、ただ考えること、哲学することに確かな存在根拠があることを「わたし」を通じて確信するだけのものである。これに対してアウグスティヌスの場合、彼が「疑う」こと、あるいは「欺かれる」ことを取り上げるのは、表向き自己の存在が確実であることを証明する意図があっても、裏に別の意味がある。というのも、疑うことや欺かれることは、自分が「信じる」こと、あるいは自分が「欺かれない」ことと裏腹の事態だからである。つまり「わたしが疑う」という言葉の裏には、「わたしが神を信じている」という言葉が隠れているのであり、「わたしが欺かれる」という言葉の裏には、「神を信じるように勧められたわたしは欺かれていない」という言葉が隠れている。アウグスティヌスが見出そうとしているのは、自分が神を信じる根拠、信仰に欺かれない根拠、すなわち、信仰の根拠としての自己の存在確信である。「疑う」わたしが確実なら、「信じる」わたしも同じくらい確実である。「欺かれている」わたしが確実に存在するなら、そのわたしが「欺かれないでいる」ことも十分にありうる。したがって、わたしが神を信じることには十分な根拠がある─これが彼の言葉の隠れた意図なのである。すなわちアウグスティヌスは、自分の身体的生命の砦となってくれる国家の城砦を失う中で、恐れと不安を懐きつつ神を信じる砦となる自己の存在を確信する哲学を展開したのである。

 

ボエティウス

アウグスティヌスが死んでから50年後に生まれたボエティウス(480~524年)は、哲学史において一般に「最後のローマ人」と言われる。彼はアウグスティヌスと同じくキリスト教徒であるが、アウグスティヌスと違うところは、彼がローマの名家に生まれた王宮の学者であったことである。アウグスティヌスと同様、彼はキリスト教徒であると同時に古典的な教養を十分に身に着けていた。彼は中世に引き継がれていく「音楽論」を書き、アリストテレスの哲学に基づく学問体系論やペルソナ理論を含む「三位一体論」を書いている。しかし彼の計画は処刑という惨たらしい事実によって頓挫してしまった。彼の仕事はアリストテレスの範疇論と命題論をギリシャ語からラテン語に翻訳し、註釈するところまでで、ふいに終わってしまったのである。

言うまでもなく論理学も文法も、言葉の使用に関する研究として、キリスト教哲学における特殊な重要性を持つ。キリストは「ことば」であり、正しい言葉の使用こそ、キリスト教哲学を成立させる枢要な基盤だからである。その問題は、キリスト教が独自に持つ三位一体論の問題の中にも表われる。ここで簡単に問題を示しておこう。論理学は複数の命題(文)によって推論を構成されなければならない。一般的には、命題の中で主語と述語が、主語の概念を述語の概念が包摂する関係にある場合まったく正しい命題になる。例えば、人間は動物であるという場合、述語にあたる「動物」という概念は、主語にあたる「人間」の概念を包み込んでいるので、この命題は正しい。たしかに人間についての正確な描写となる命題は、より狭く「理性的」という限定をつける必要がある。このときには、「人間」と「理性的動物」は同じ広さの概念(外延が同じ)であるという理由で、主語と述語を入れ替えても正しいことになる。つまり人間は理性的動物であると言っても、理性的動物は人間であると言っても正しい。しかし、主語が個人となる時はあっても、述語が個人となる時は限定される。なぜなら、述語は主語と同じ外延を持つか、より広い外延を持たなければならないからである。例えば「ソクラテス」を主語にしたときには、人間であるとか、有名な哲学者であるとか、色々な述語が置けるが、「ソクラテス」を述語に置くときには、ソクラテスそのものを主語にすることに限定される。なぜなら、個人は唯一性を持つからである。これと同じことが、キリスト教の神のペルソナ(位格)についても言える。神におけるペルソナの一つを取り上げて「父は神である」も、「子は神である」も正しいが、両方とも神であるからといって、「父は子である」とは言えない。また、たしかに神も唯一であり、父も唯一であって、その意味では外延が同一になるが、だからといって、単純に「神は父である」は、正しくない。なぜなら、父だけでなく、子も、聖霊も、神だからである。簡単に言うと、ペルソナは絶対的な究極主語であって、述語になり難い存在なのである。したがって、父も、子も、聖霊も、主語的性格が最高度に強い存在である。他方、神の本質も唯一であり、世界に対しては絶対的な主語的性格を持つが、ペルソナに対してはそれらに共通の性格として唯一の正しい述語となる。このような問題は文法的問題であり、論理の基盤の問題として中世哲学では扱われる。「文法的」という言葉は、中世のキリスト教的文脈においては、「神的」という意味に近づく意味を持っている。「ことば」は神的であり、「ことば」は「文法」に従って正しい「文」を作り、正しい文は推論を構成して正しい結論を得ることで、学問、知識が形成される。それゆえ、文法の理解は、言葉や文の理解において、そして知識、学問の理解において、絶対的とも言える位置を持つ。それゆえ、決して蔑ろにできないものである。それ故中世では、一般人にとってラテン語文法を学ぶということは、知識に近づく唯一の道であった。そしてそれは神に近づく道として受け止められていたのである。

« ストーカーに遭う気分? | トップページ | 八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(10) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(9):

« ストーカーに遭う気分? | トップページ | 八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(10) »