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2013年10月26日 (土)

田島正樹「スピノザという暗号」(16)

3.「完全性」の観念

『エチカ』第4部序言には、「完全性」の観念についてのスピノザによる再定義が説かれている。それによれば、もともと「完全」という言葉は、作品を制作する時、制作者の思い通りに成し遂げられているというほどのことを意味していた。それから、個々の制作者の意図を離れて、一般的観念に一致していることをもって完全と呼ぶようになり、さらに自然物についても、人々がそのものについてもつ一般的観念に合致する時、人工物と類比的に、完全・不完全を語るようになったものである。しかし「自然は目的のために働くものではない」から、目的論的な概念を適用することは、本当はできない。それゆえ「完全・不完全はたんに思惟の様態に過ぎない、すなわち我々が同じ類に属する個体を相互に比較することによって作り出すのを常とする概念に過ぎない。」つまり、一般的な型を抽象して、それに合致する、しないを言うだけのものに過ぎない。

我々が一般に想像する神=制作者という観点のもとに考えられる「完全性」「不完全性」は虚妄であり、自然にそのような目的との一致・不一致を考えることは意味をなさない自然には如何なる目的もないからである。そこでスピノザは、その言葉にまったく新たな意味を与えようとする。いわば換骨奪胎の手法である。それが新たな意味で「不完全」を「実在性」と等置することである。「実在性」という言葉と連関する問題群や概念装置と、「完全性」というそれとは違っている。即ち一方は、存在論的、他方は倫理的な問題とつながっている。この実在性と完全性という二つの概念が属している領域を媒介するものが、活動力(増大したり減少したりする力能)である。スピノザによれば、自然の中に、それ自身で不完全なものは何もない。しかし実在性という点では、そこに程度が存在する。実在性という点では、目的などない。ただ、活動力の強弱があるだけである。あるいは、より正確に言えば、この力の強さは、増大・減少からだけ理解されるのである。

重要なことは、我々が近づくべき「人間本来の型」など、実際には存在しないということである。これは、我々が事態をつい目的論的に眺めてしまうことから生じる錯覚なのである。実際に存在するのは、ますます活動力を増すことであり、その意味でますます実在的・完全になったりならなかったりするという過程だけである。実在性の究極の理想など存在しない(神は、目指されるべき理想や目的などではなく、ただ完全な実在性そのものである。)例えば、我々が鉄棒で逆上がりの練習をするとしよう。何のためかと言われれば、逆上がりを上手にするためだろう。すなわち逆上がりという我々の活動力は、自己を発揮することによって自己実現し、自己を維持するだろう。ここに自己原因、自己維持することによって自己実現し、自己を維持するだろう。ここに自己原因、自己維持する循環的活動としての実在というモデルがある。

 

4.実在性の階層

スピノザによる実在性と完全性と力能との等置は、たしかに思惟の秩序においては理解できるものだろう。全体論的合理性のもとで理解される認識としての観念は、再帰的・循環的に、すなわち自己原因的に活動する運動として存在するからである。しかし、スピノザは、このような思惟の秩序と平行して、物体的自然秩序(延長という属性)における因果的作用をも考えている。観念間の力動や連関(すなわち、作用や産出の関係)と、自然的事物間の因果作用とが同一視されているのである。因果作用や力能の発揮について詳細に見るならば、スピノザが二種類の因果関係を区別していることが分かる。神的本質から全個物の導出と個体間での因果関係である。前者を「垂直的因果関係」、後者を「水平的因果関係」と呼ぶ。これに対して個物の存在も二様に考えられる。個物の個体本質は、永遠なるものとして神の中にあり、その現実存在(時空的出現、時空の中での持続)とは別に、神的思惟のなかに、いわば永遠の可能的存在のように存在している。この時の神は本質必然に従って行動する。従って、この世界に未だ出現していない個体も、神の中にすでに現実に永遠の存在を享受しており、それはいずれ現実に出現するだろうものとして、たんなる可能存在ではない。要するに、神の本性に従って、定理の証明のように生成する垂直的因果に対応する、永遠の相のもとに見られる現実的本質と、持続の相のもとに見られた個物とは区別されるのである。

我々は、創発という現象を考えることによって、この二つの因果の意味をよりよく理解できるだろう。個別的因果関係が複合して、たまたまある安定的構造が成立するとしよう。たとえば、原生生物の発生、あるいは有意味なゲームとか証明とか芸術作品の発生などを考えてみればいい。これにいずれも複雑な要素がたまたまうまく重なり合う稀有で絶妙な偶然によって成立したものであるが、いったん成立すると、それ自体を再生産し、反復し維持していく構造体なのである。このような構造体は、生物個体のように、環境との複雑な相互関係を継続的に取り交わしており、それぞれの作用は、いずれも自然の因果法則に適ったものであるにしても、それらがたまたま組み合わさって自己を維持しつつ更新し、かつまた増殖するものとして一定の安定したシステムに生成したこと自体は、偶然なのである。このように様々の作用が組み合わさって、あらたに高次の自己維持する秩序が生成することを、一般に「創発」という。公理が組み合わさって定理の証明が生成したり、犯行現場に残された様々の事実や証拠をうまく積み重ねて真犯人を洞察したりすることも、アミノ酸がうまく結合して、そこに原始的生物と言えるようなシステムを出現させることも、いくつかの良く知られた単語を繋ぎ合わせて、まったく新しい素晴らしい詩句を生み出すことも、すべて創発である。

スピノザが最も単純な個物(延長の様態)と考えていたのは物体であるが、そのようなものでさえ、最低限度の自己維持力を備えている。物体とは、ひとまとまりで運動したり静止したりするものであるから、まとまりを保持しているわけだし、最低限度の自己維持力を持っているのである。かくて自然の世界は、最単純な物体(原子や分子)から、複合的物体、細胞、生物体、そのコロニーや社会…などを経て全自然にいたる自己維持システムの階層をなし、それら各階層がそれぞれに、より単純な秩序が創発的に組み合わさって、次第に高次秩序を構成するように、結びついているのである。スピノザが神の本質から生じるという因果性は、このようなより高次の自己維持的存在を産出する働きと考えていい。これをスピノザはまったく新たな創発とは考えず、すでに永遠の神的知性の中に描き込まれた本質観念と考えるのである。いったん存在することになった創発的存在は、自己原因的・自己維持的活動を始める。それゆえ、その存在は、自己の存在に固執する力と不可分である。

 

 

 

田島正樹「スピノザという暗号」(16)

5.第三種認識

スピノザは『エチカ』第二部定理40の備考2で、認識を三種四通りに分類している。第一種認識というものは、感覚的経験から得られるか、他人の意見を聞いたり読んだりすることから得られるものであり、何ら確実性を持たない。第二種認識は、理性による認識で、共通概念あるいは十全な観念に基づいた唯物論的認識である。第三種認識とは、直接知と呼ばれるもので、「神の若干の属性の形相的本質の十全な観念から事物の本質の十全な認識へと進むもの」とされている。第三種認識は、神の属性の十全な観念から事物の十全な認識へと進むものとされている。これはまさに観念における垂直的因果性による高次秩序の生成にあたるものだろう。垂直的生成において見ることが、永遠の相のもとで考えるということなのである。我々は感覚的経験と論理的推論で、すべての認識を尽くせるわけではない。なぜなら、いくら論理的推論をわきまえていたとしても、数学の定理の証明を発見できるわけではないからである。たしかに、証明が示されれば、我々は推論の力をもつ限り、その証明の各ステップを順々に追いながら、その妥当性を確認することはできよう。しかし論理的能力だけで、発見や洞察が得られるというわけではない。このような発見は、創発的なものであり、垂直的因果の領域である。第三種認識は、たんに論証の基礎として要請される創発的認識(存在の階層を一段ずつ上昇させる認識)というだけにとどまらず、神の垂直的因果性を表現する認識であるが故に、同時に永遠の相での認識として、水平的因果性に基づく持続の相のもとでの認識と対比されることになる。

一方、定理29の証明の末尾で、「ものを永遠の相のもとに考えるこの能力は、精神が身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ精神に属する」と言っている。スピノザは、「ものを永遠の相のもとに考える」ことと「身体の本質を永遠の相のもとに考える」ことが精神の本性に属し、「それ以外何ものも精神の本性に属さないのであるから」、この両者を同等のものあるいは密接不可分のものと見なしていい、と言う。

この「身体の本質」を現実的本質すなわちコナトスと考えてはどうか?コナトスは、神の自己原因性と同型性を保っている。従って垂直的因果と同型性を保っている。従って、垂直的因果に従って、成立する自然の生物進化的秩序は、「神の本性の必然から生ずる」秩序であり、それを考えることが永遠の相のもとに考えることとされるのである。しかしこのような見方は、自然物一般を眺めることから自然に出て来るものではない。それはむしろ、ある特権的個体すなわち自己の身体の本質(すなわち現実的本質すなわちコナトス)を(あるいは自己の身体の本質が)思考することによって導かれねばならない。なぜか。我々が眺めやる自然的存在者を神の本質の必然的帰結と見るためには、およそ合理的秩序─自己原因性という原理に基づいて統一的秩序が想定されねばならないからである。さもなければ、自然物はただの混沌たる現象にとどまるだろう。現象は一定のまとまりを保ち、自己保存力とか自己原因といった観念を学ぶのだろうか。それこそ自己の身体から以外ではありえない。その意味では、自己のコナトスこそ、全ての合理性の基礎であり、出発点である。それなしには、たとえ自然が自己原因的な神的秩序に従っていたとしても、かかるものとして知られることはできなかっただろう。自己保存の努力(コナトス)は、認識と密接に関係している。一方で、認識自体が、認識に発し認識を生み出す自己循環的活動であると同時に、より低次の観念秩序からより高次の統合秩序を生成する垂直的因果性である。他方、生命の自己保存自体が、当の生物体がはっきりと自覚しているかどうかはともかく、欲望とか忌避などと解釈可能な活動的意味を担って活動しており、観念の下図を描きつつ生きている。つまり、一方で全自然界はさまざまのコナトスを発揮する階層秩序をなすと同時に、それぞれのコナトスがそれぞれの階層における意味の秩序をなし、その程度に応じた判明さをもつ観念(認識)の秩序をなすとも言えるのである。そして、コナトスがたんに自己を維持するだけに満足せず、より能動的になろうとするとき、より十全な認識を目指さねばならない。十全な認識のみが、能動性の源泉であるからである。それは必然的に垂直的因果による上昇、より判明的な意味的統合への生成を伴うだろう。そして、その認識が能動的なものとしての活力に結び付けられる限り、コナトスの自己知、あるいはコナトスはもともと最小限度の自己知なくしてあり得ない以上は、ますます判明な自己知を目指さざるを得ない。かくて第三種認識とは、本質的にコナトスの自己知であることになろう。それゆえ、この自己知は、神の認識を含まざるを得ない。なぜなら、我々のコナトスは、神の自己原因的力能の似姿であり、その部分だろうからである。

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