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2013年10月 8日 (火)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(10)

普遍論争

まず普遍論争は、普遍についての論争というより、「ことば」が持つ「意味作用」についての論争であった。しかし注意すべきは、第一に、言葉は「声」となって発生するということである。つまり物質的には、言葉は「文字」であるより先に「声」である。実際、言葉による論争は口角泡を飛ばして行われる。論争で声が小さければ、それだけで負けてしまいかねない。言うまでものないことであるが、言葉は単なる声ではない。

さて、「ことば」は何らかの意味を持っている。「花」といえば、私たちはその意味を心に思うことができる。しかし、この意味が指し示しているものは、一体どこにあるのか、これを見定めなければならない。例えば、「人間」という言葉がある。この言葉が指し示しているもの、つまり人間自体は、ソクラテスやプラトンの中にあるのか、それとも外にあるのか。もしも人間がソクラテスの外にあるとすれば、どうして「ソクラテスは人間である」と言えるのか、全く分からなくなる。なぜなら、外にあるなら、人間とソクラテスは、それぞれ別の異なるものでなければならないからである。つまり、「ソクラテス」は「人間ではない」と言わなければならない。反対に内にあるとすれば、「人間」は、ソクラテスはプラトンの部分なのだろうか。ならば、ソクラテスやプラトンの中には、「人間」の部分以外に、「人間でない」部分があることになる。つまりソクラテスは「人間」と「非人間」の合成物である、と言わなければならないことになる。だとすれば、「ソクラテスは人間である」と述べることは間違いであって、「ソクラテスのある部分が人間である」と言わなければならない。逆に言えば、「ソクラテスの他の部分は人間ではない」と言わなければならない。では、「ソクラテスの理性は人間である」として、その一方で「ソクラテスの顔は人間ではない」ということだろうか。言うまでもなく、これは明らかに事実ではない。

この問題は、実質的に言えば、プラトンがイデア論でぶつかった問題の再発見である。ソクラテスが「人間」のイデアを分有して人間であるというなら、そのときイデアはソクラテスやプラトンの上から覆いかぶさるように、イデアの全体が分かたれずに両者にあるのか、それともソクラテスやプラトンが人間にイデアの一部を食い千切って持つように、異なる一部をそれぞれが分け持つ仕方であるのか、というのである。まず、ソクラテスにしてもプラトンにしても、各々その全体が人間であると考えてみよう。しかしそうだとすると、両者の「違い」の部分は人間ではないということなければならない。なぜなら人間である限り「同じ」であるからである。しかし疑いようもなく、ソクラテスの顔とプラトンの顔は違う。では顔の違いは「人間」の違いではないのだろうか。まさかソクラテスの顔はロバの顔で、プラトンの顔はキリンの顔だ、ということはないだろう。したがって、「人間」はソクラテスやプラトンの全体ではない、という結論になる。では、「人間」はソクラテスやプラトンの部分なのだろうか。しかしこの場合でも「違い」は「人間」である部分とは違う部分になければならない。したがって、ソクラテスとプラトンの違いは、やはり人間の違いではなく、ロバとキリンの違いである、と言わねばならない。言うまでもなく、これも事実とは異なる。あるいは、「人間」のうちには理性と身体がある、と一般に言われる。ところで、ソクラテスとプラトンは、「人間」のうちでは同じである。言い換えると、人間としては、ソクラテスとプラトンに上下の違いはない。したがって両者の違いは、「人間」の部分である理性の違いでもないに違いない。しかし、理性においても身体においても両者が同じなら、両者は同じ人間でなければならない。しかし、ソクラテスとプラトンは別々の人間であって、同じ人間ではない。こうして「人間」をソクラテスとプラトンの部分として見ることもできないことが分かる。このように見てくると、例えば「人間」という「普遍」を選んでみても、言葉が意味するものは心の外に広がる存在の地平でどのようにあるか、全く分からなくなる。

アベラールは、この事実に気づいていたのだろう。彼が出した結論は、何らかの普遍を意味する「ことば」は、存在とは関わらない、つまり「普遍を示す言葉は存在にコミットしない」というものであった。彼はその証拠として、「ここにバラはない」と言う時、この言葉は一切のバラがない状態を指していながら、にもかかわらず、意味あるものになっていることを挙げる。つまり「ことば」としては有意味で、その対象は無である。したがって「ことば」は本質的に不在にコミットしない。これが唯名論の基本的なスタンスである。「ことば」をあくまでも言葉の世界にとどめて、存在にコミットさせないのが唯名論である。そして、言葉を用いる論争において、存在にコミットするものたち=実在論者に対しては、その矛盾を突いて攻撃するのである。しかしながら、このような唯名論の立場に立つなら、いかなる命題であれ、その真偽は存在において決定されるのではなく、あくまでも論理の内側で決定されるのではなければならない。だとすれば「神の存在」という「ことば」も真に存在にコミットできないということでなければならない。けれども、もしそうだとすれば、神の存在を信じることで成り立つキリスト教信仰はどうなるのか。神の存在を語ることは「ことば遊び」に過ぎないことにならないだろうか。信仰はことば遊びなのか、これは大問題である。このように考えれば、著名な神学者たちが、<実在論>の側に立って、<唯名論>に反対した理由は明らかである。「ことば」が存在以上にコミットできないのであれば、神の存在について論じる神学は、決して成り立たない。

実在論者側の答えは、「ことば」が存在にコミットできるという保証をしているのは、まさしく「神」に他ならない、というものである。すなわち、「ことばは神である」。これを信じるのがキリスト教徒である。この世界の存在もわたしの存在も、その「神」が作ったのであるから、「ことば」は存在にコミットできるし、そうでなければならない。それゆえ、実在論者らよれば、あなたが信仰を持つなら、言葉の真偽は存在において規定される、と考えなければならない。逆に言えば、唯名論は不信仰の徒である。

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