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2013年10月19日 (土)

田島正樹「スピノザという暗号」(10)

身体(とくに神経網)は、いわばラジオの同調回路のように、外部からの刺激を受け取り、様々の変容を、神経網組織のなかに励起された興奮パタンとして生み出す。それらのパタンは、はじめは暗号だが、やがてそれぞれの感覚的意味を帯びたものとして解読される。この場合、当然シニフィアンとシニフィエは異なるものである。色を表現する神経パタンは、それ自身が色であるわけではない。このような知覚システムは、我々人類が種として進化の結果獲得した、生活環境との関係のあり方を反映しているだろう。それゆえ、ここで感知されるものは、我々が種として規定される限りでの、環境への関心の取り方に制約されている。また、生物体としての自己の身体のあり方に既定される限りで、我々の身体は、類似の刺激を場合に応じて別の意味として表現しもする。明るい所に目が慣れた後と、暗い所に目が慣れた後では、同じ光も、違う意味を帯びたものとして我々の身体には表現されるようなものである。このような観念にとどまる限り、我々は極めて不完全な、非十全的な認識しか持ち得ないだろう。それはそれで、生物として生きる上で有益ではあるものの、外界に対して、絶えず主観的状況に依存した、動揺つねなき認識しか持てないからである。もし我々が、環境世界に適応するだけの生活を送るような存在だったとしたら、その適応の一環として、知覚的認識を持ちながらも、そうした認識を持っているという自覚を持ち得たかどうかあやしいだろう。カエルが、目の前を細かく動くハエを知覚すると同時に、素早くそれを捕えてしまう時、彼に如何なる「認識内容」を帰属すべきか難しいようなものである。状況に即して生きる時、我々の知覚は、次々に迫り来る状況の変化への対応に追われているだけで、そこで我々がやりくりしながら利用している認識について、内容の特定はもちろん、真偽の観念もないまま行動しているのである。我々の知覚に内容が含まれ、真偽が問えるものであるということが自覚されるのは、それを表現する言語を抜きにしてはあり得ない。知覚内容に属するもののすべてが言語的に表現されるわけではないにせよ、我々は、知覚を一つの認識とみなし、外的世界の表現として自覚するためには、その内容を言語表現になぞらえ、志向的意味として対象化しなければならないのである。それゆえ、脳や神経の構造が言語のように明確な論文的構造を持たないとしても、それを何らかの認識として考えるときには、便宜的にそれを言語のように何らかの形で世界を表現するシニフィアンの体系と見立てて、語らざるを得ないことになる。

さて、スピノザは、主観的に動揺する感覚的認識から、いかにして十全な認識への飛躍が得られるのかの手がかりを、「共通概念」と呼ぶものに求めた。なぜ「共通概念」は、そのままで十全であるという大変な特権を享受できるのか?その証明を要約すればこうなる。共通概念とは、「すべてのものに共通であり、部分の中にも全体の中にもあるもの」であるから、もし我々が「共通概念」を持っていれば、それは我々の精神の中においても、他に何れにおいても、共通で等しいものとして存在するのではなくてはならない。我々の認識は神的知性の部分であるから、共通概念は我々の精神の中においても、神的知性においても、共通で等しいものとして存在せねばならない。このことは、我々が所有する共通概念が、そのままで十全なものであることを意味する。しかし、問題はむしろそんな「共通概念」が、実際存在するかということだろう。共通概念を、人間身体と身体を刺戟する外界の事物との共通性と言う、より限定されたものとしてみると。例えば長さ(延長)と言うものがある。これは単に目測した時の長さの印象ではなく、指とか足幅等の特定の身体部分と対象を比較することで測られる。このとき長さは、その身体部分と対象とに「共通するもの」と観念される。かくて、尺度と言うものが、測るものと測られるものとの共通性と言う観念に基づいて成立する。ある尺度によって1mと測定された棒は、今度はそれを使って他のものを測るのに再帰的・反復的に利用され得る。このようにして長さは「部分においても全体においても等しくあるもの」として確立するのである。

 

知覚が志向的内容を持つことはよく知られている。志向的内容は、おおよそ次のようなものである。ある知覚体験が、対象aがfであることの知覚としてあることとは、我々の感覚器官その他の条件が正常である限り、実際対称aがfであることによってアプリオリに説明されるということである。知覚が、実際aがfであることによって説明されるということが、知覚が正常であるということの意味であり、そのような正常性の条件が存在するということが、知覚の本質なのである。

問題は、我々の知覚が単にその志向的内容に尽きるかどうかである。例えば、「遠くのものが小さく見える」と言った場合、実際に遠くのものが小さくあるという事実によってアプリオリに説明できるわけではない。アプリオリに説明できるような正常性条件が存在しない。「遠くのものが小さく見える」という経験は、「小さいものの知覚(実際に対象が小さいということによってアプリオリに説明できるような知覚)」であると、自らを誤認しているわけでは決してない。「遠くの人が小さく見える」という経験は「小さい人を見る」知覚とは全く違う知覚なのである。両者は表示内容が違うのである。

ここで問題になっている大きさの印象の違いは、表示内容の違いではなく、感覚印象・感覚質の違いと言える。だから「どのくらい(何センチ)小さいと感じられるか?」と問われても、うまく答えられない。共通尺度(共通感覚)をあてて大きさを測ることができないからである。もしそれを当てようとしても、尺度自体の見え姿が、違う対象にあてがわれたときに同じ長さに見え続けるという保証がないからである。このことは、表示内容の中に登場し得る大きさ(共通概念としての大きさ)とは別に、感覚印象としての大きさの印象があって、その両方でわれわれの知覚経験は、言わばまだらに特徴づけられていることを示している。

もちろん、このような経験は、風景との関係(文脈)抜きにはありえない。しかし、まさにそうだからこそ、文脈から独立に、ただ表示内容だけに注目して記述する場合に、それらは記述から滑り落ちてしまうのである。表示内容は言語表現可能な内容だが、感覚印象としての大きさなどは、言語的に表現するには無理な場合があるため、それを敢えて言語的に言い表そうとする、矛盾した言い回しになってしまう。遠くのものと近くのものが(表示内容としては)同じ大きさであるように見えながら、(感覚印象としては)違う大きさに見える。我々の経験の中で、このように言語的に適切に表現できるものとそうでないものがあるあるということは、我々の知覚にあずかる神経的機構が、言語のような論文的構造を持たないという事実に対応しているのではないだろうか?

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