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2013年10月30日 (水)

田島正樹「スピノザという暗号」(20)

スピノザは公理3において「愛、欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され、望まれるなどするものの観念が存在しなくては存在しない。これに反して、観念は、他の思惟の様態が存在しなくても存在することができる」と言っている。実際には、快・苦・欲望などの諸感情こそ、生物体としての我々においていやしくも精神的なもの(思惟の属性に属す様態)であるためには、それらは少なくとも何らかの観念(事物の表現)を含んでいなければならない。これが「本性上」ということの意味である。つまり公理3は、感情が生体内部のたんなる機械的運動でなく、なんらかの意味で思惟の様態に属するものと言えるための、アプリオリな制約を述べるものなのである。

スピノザによれば、個々の内容(観念)を我々が信じるか否かは、その内容自身の持つ説得力によるのであり、とりわけそれが他の様々の我々の信念と取り結んでいる(または取り結びあう)関係によるのである。これまでに知られた、またはそう信じられていることとうまくかみ合い、互いに補い合いながら、さらに堅固に支え合うようなものであれば、我々は進んで受け入れようとするだろう。そうでなければ、否定するか、更なる知識が得られるまで判断を保留するわけである。それゆえ、思考と思考内容(観念)を切り離すことは出来ず、思考とは観念そのもののことだと見なされなければならないのである。ある観念の説得力(それを信じさせる力)は、観念そのものにあり、我々の自由になるものではない。以上のことを考え合わせれば、感情を交えずにただ意味内容を理解するだけで肯定も否定もしない中性的な観想的思惟の能力などをスピノザが認めていたとは考えにくい。スピノザは、痛みのような感覚や、何を標示するとも思えない漠然たる感情のようなものでさえ、最低限、おそらくは非言語的に何らかを表示しているのであり、そうでなければ、それらは思惟の属性に属し得ないのである。

そもそも認識が可能であるとしたら、それは、あらゆる真理を統合した全体(神的知性)の部分としてだけ存在するだろう。なぜなら、およそ認識たる限り、他のすべての認識と互いに支え合い調和するものでなければならず、かくて、その全体は、世界の隅々の真理を、あるがままに表現するものであるはずだからである。ところで、人間精神も認識である。いかにして、神的知性の部分でありうるか?明らかに、何らシニフィアン(意味表現)として、と言うしかない。人間の本性には、言語その他の手段を使って、思惟すること、すなわち神的全体を不完全にかつ断片的に表現することが、属するのである。こうして表現された観念こそ、人間精神そのものなのである。しかし、それは誰にとって表現されるのだろうか?おそらく無限な神的知性にとってなら、どんな微小な部分にでも、全宇宙の表現をくまなく読み取ることができるのだろう。万有のどの部分にも、万有の痕跡が、いかに微細とは言え、残されているだろうからである。ライプニッツ的に言えば、どんなものでもそれ独自の仕方で全宇宙を表現しているだろう。しかし、人間精神が神的真理の部分であるのは、こうした一般的な意味ではない。石ころも神にとっては真理の表現であるかもしれないが、我々にとってそうではない。身体の変状によって、部分的に表現される神的真理、それはまさに人間精神が思惟する諸観念を表現するのである。いかにして人間精神の諸観念は、人間の思惟するものとなりうるか?おそらく神なら、シニフィアンに頼ることなく認識するかもしれない。あるいは、彼にとっては全存在が、宇宙というテクストを構成するシニフィアンだろう。しかし、我々にとって諸観念は、有限の意味表現によって表現された意味として初めて成立する諸観念なのである。シニフィアンがシニフィアンとして成立するのは、その全体がシニフィアンの全体に対応付けられると見られる場合である。神的知性と神的実在の対応(平行論)が成立しているだけでは十分ではない。人間精神においても、これと類比的な関係が成立しているべきだろう。神的知性が全宇宙の真理を統合しているように、人間精神も自己の観念を何らかの意味で統合していなければならない。これには、人間精神の内だけ見ると支離滅裂に見えたものが、神的知性の中では真理の一部になるということがあるかもしれず、その場合には神的知性の部分でありながら、まったく思惟の属性を含まないことも可能だろうからである。合理的なものの部分が、必ず合理的であるという保証はないからである。これでは、人間精神は不完全にでも思惟する、部分的にでも世界を表現する、とさえ言えなくなろう。人間的精神は、いかに部分的認識であれ認識と言えるためには、それ自身において、すでに神的知性が世界を表現する関係と類比的な関係が、成立していなくてはならない。これは、人間精神の単一性が、すでに一つの全体(シニフィアンの全体)として、与えられていなければならないということである。

しかしこのことは、決してスピノザが考えていただろうようには自明のことではあるまい。神的知性においては、一切の事実に対応して全認識の秩序が存在しているとして、その部分である人間精神とその対象(身体)との間に、そっくりこのような平行関係が保存されている必然性があるだろうか?また人間精神を構成する諸観念が、人間自身にとって一つの全体をなすことが、いかにして知られるのだろうか?総じて、人間精神の自己知は、いかにして可能なのだろうか?

もしわれわれが、非十全な観念しか持たなかったとしたら、我々はどうしてそれを非十全だと知り得るだろうか?我々は、自分もつ観念が、自分の本質と外的事物の本質の両方から説明されなければならないことを、自分の非十全な観念だけからは知り得ない。その場合、おそらく精神は自己の本性について知らないことになろうから、何が自己の本性だけから説明される観念なのかも分らないわけである。それゆえ、最小限度の自己知は、それ自身自己の本性だけに基づいて展開し、かつ知られる、十全な観念でなければならない。その自己知に含まれるのが、精神の単一性であり、言い換えれば、いかなる観念の多様も、自己の変状として全体としての自己のうちに含まれる、という認識なのである。この自己知は、十全な認識とはいえ、もちろんはじめから明確な理論的認識であるはずはない。それは、とりあえずはコナトスとして、生きた活動のなかにおのずから示されている意味として在るだろう。自己を維持する活動と努力である以上、コナトスは「自己」を単一のものとして、しかもある一定の維持すべき本質において在るものとして、認識せざるを得ないからである。この「認識」は、その段階では命題知ではないものの、ある種の行動能力のように一種の知であることに関わりはない。スピノザは、程度の差こそあれ、全ての個体にコナトスを認める限り、「全ての個体は程度の差こそあれ、精神を有している」とされる。肝心なことは、この自己知こそが、ほかの諸変状を精神の変状、すなわち思惟の諸様態にするうえで、不可欠の前提であるということである。このことによってはじめて、もろもろの変状が精神的意味を帯びることができるのである。ということは、それらの間に体系的意味連関を読み取ることが可能になるということである。精神の変状は、はじめから明確な意味を持った観念として、心の傷に写しだされるのではない。それはさしあたり意味を欠いた身体の変状にすぎないものとして出現する。しかるに、それらがコナトスの活動の中に取り入れられ、いわば配列されることによって、一種の暗号(シニフィアン)と見なされるのである。観念とは、この暗号の解読された意味にほかならない。しかし重要なことは、この暗号解読の前提として、それらがまとめられるテクストの全体が想定されていなければならないということである。はじめから理解される意味のつまった観念の体系が与えられるわけではない。しかし一つ一つのシニフィアンがそこにおいてシニフィアンとなるなんらの全体が、解読の前提として先取りされていなければならない。精神の諸様態が精神のそれとして捉えられるのは、精神が一つ先取りされた全体として与えられる自己知をもとにしている。そして、この自己知は身体のコナトスとして与えられるから、ここから精神が身体の観念である定理13が導かれる。

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