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2013年10月 1日 (火)

八木雄二「天使はなぜ堕落するのか─中世哲学の興亡」(5)

第3章 中世1000年

中世哲学の世界を理解するためには、それを「一つの独立した世界」「完結した世界」として受け止めていく必要があることを必要があることを簡略に述べてきた。中世を、古代から近代や現代につながる過程の「中間的過去」として考えると、むしろ間違った受け取り方をしてしまいやすい。

キリスト教信仰は、中世の人々が生きていく上で、なくてはならないものであった。つまり中世の知性を指導する原理であった。哲学が無関心を決め込むことなど明らかに不可能である。したがって中世の哲学世界は完結した世界であるが、その理由は、中世哲学がキリスト教信仰が濃厚にかかわっていた時代の哲学だからである。

 

中世哲学はキリスト教信仰が濃厚にかかわった時代のヨーロッパ哲学である。このことを考える場合、最初に押さえておかなければならないのは、その地域の広がりがどこであったかである。というのも古代ローマ時代の末にローマ帝国は東西二つに分裂した。このとき西はラテン語圏、東はギリシャ語圏であった。そして西のローマ帝国はゲルマン民族の荒波に襲われて五世紀に滅亡する。こうして西の地域は古典時代からの哲学・科学の文化を書物の形で持つことを失った。以後、それを持っていたのは東ローマであって、西の地域ではなかった。東ローマ帝国は15世紀になってオスマン・トルコの勢力によって滅亡する。それまで東ローマ帝国は継続するので、東ローマ帝国は古代からの伝統が切れずにいた。したがって東の地域では古代が続いており、キリスト教が国教であったことは確かであるにしても、明確に「中世」といえる世界が見えない。それに対して西ローマ帝国が滅んだ地域は、民族移動の荒波を受け、そのため一度は暗い時代をかいくぐるが、10世紀も終わり近くになって、ようやく持続的な明かりを見つけ始める。そして、11世紀、12世紀、13世紀に、哲学の隆盛を見ることになる。その大部分がかつて西ローマ帝国に支配されたことのある地域、すなわち西ローマ帝国の境界を少し広げた程度の地域である。

この地域は西ローマ帝国が滅んだ頃、ケルトの世界であった。ローマの将軍ユリウス・カエサルが紀元前50年頃に「ガリア戦記」のうちに描き残した世界である。森や沼沢を残した未開の世界に細々と人々が住み、統制のとれない戦士が集まってローマ軍に抵抗していたのである。カエサルによる制圧から400年後制圧していた西ローマ帝国の方が敗れ去る。しかし、キリスト教勢力は聖なる力として東ローマのうちに残った。それは古典ギリシャ以来の知識を携えていた。この東ローマがキリスト教勢力が西へと向かう最初の基盤を提供した。

 

つまり、中世世界とは、西ヨーロッパの「文明開化」の時代とみることができる。日本の文明開化が日本の「欧米化」の時代であるとすれば、西ヨーロッパの中世はドルイド教ケルトの「キリスト教化」であり、同時に漸次的な「ギリシャ・ローマ化」であった。

 

ケルトの文化はけして低いものだったわけではない。それはキリスト教会がケルトを教化するに際して、クリスマスなど多くの儀式を取り込まなければ叶わなかったことからも推察することができる。従って多くの知識がドルイドの祭司階級に伝えられていたと考えなければならない。それはちょうどキリスト教会がひとを司祭に叙任するに際して、ときに長い期間の修練を課していたことと似ている。繰り返しになるが、西ヨーロッパのキリスト教化は、そこにあったドルイド教の祭司を、キリスト教の祭司に取り替えていくことであったと理解することができる。このとき、ケルトとゲルマンのローマ化が同時に起きた。最初のローマ化は、古代においてユリウス・カエサルの制圧に始まり、ゲルマン民族の移動で終わった。中世では、キリスト教の力を背景としたローマ化があった。キリスト教会が教化のために建設した修道院を通じて、森は切り開かれ、見通しのきく世界が作られていった。ローマが、「すべての道はローマに通じる」と豪語した街道を作って支配の基盤を盤石にしたように、キリスト教会による西ヨーロッパの文明開化は、森を切り開いて畑を作っていくことだった。

  

ところで、時間的にはヨーロッパの中世はいつ頃からいつ頃までか。本当に大雑把に言えば、古代1000年、中世1000年、近現代600年、というのが西洋哲学の歴史である。古代は紀元前600年に始まり、紀元後の400年に終わると見られ、そこから中世が始まって1400年までの間が中世だとすれば、それ以降の600年あまりが近現代だと覚えておけば、大きな狂いはない。とにかく意外に長い期間である。古代も中世も、近現代のほぼ倍あるのだから、相当の長期間と言わねばならない。逆に言えば、デカルト以来の哲学の歴史など、まだ中世の歴史時間の半分にも満たないわけである。

 

これだけの長期間であるから、紀元400年を起点としても、紀元1000年あたりで切る方が事実を理解しやすい。日本でも紀元1000年以降、農業の生産性が上がってくるが、ヨーロッパでも同じ傾向がある。ヨーロッパではその頃、各地の交易も盛んになり、栄えた都市には若い人たちが知識を学びに集まって、大学も生まれている。ヨーロッパでは古代ローマ文明の続きとして中世があるという側面もあるが、西ヨーロッパについては、いったん民族移動の嵐などで文化が途絶えた後、再び古代末期の状態に回復するのに数百年を要し、結局、紀元1000年頃までかかっている。つまり、古代のローマ帝国が東の隅で存続していた以外は、西ヨーロッパは古代の状態から、いくつかの民族移動の波に洗われつつ、次第に固有の意味での中世の時代へとゆっくり移っていた。したがって、中世全体を紀元1000年を境にして、二分割し、前期を古代的中世、後期を固有の意味での中世を理解した方がよいと思われる。そして、もし後期をさらに分割するなら、1350年から後を中世末期、あるいは近代前期とすべきだろう。

 

 

 

誰もが知るように人間の世界には波がある。中世哲学の時代を1000年と見ても、その間ずっと同じ調子で哲学の活動があったのではない。キリスト教哲学の場合は、古代の終わりにアウグスティヌスの大波があって、それを受けて最初の波が紀元1100年を前にアンセルムスの名で起こり、アベラールがその波をつなぎ、1200年代の後半から1300年前後にトマスやスコトゥスの大波が来た。こうした波が生じるにあたって見ておかなければならないのは、ヨーロッパの外からの影響である。イスラム圏に起きた哲学の波は、1100年代の半ば以降になって最初はゆっくり、次第に早く、ヨーロッパ側に翻訳されて伝わった。この波と、ヨーロッパのうちで起きたアンセルムス以来の波が合わさって、1200年代後半からの中世スコラ哲学の大波を形成した。

 

中世哲学の一部の研究者を除き、世間一般には無価値な哲学として長い間打ち捨てられてきた。その原因はなんだったのか、それを詳らかにしておく必要があるだろう。近代哲学の主流は、中世哲学の主流に取って替わるとき、エネルギーのすべてを中世哲学を否定することに費やしたかの趣がある。近代哲学独自の事柄を見出すことに急いで集中するあまり、中世哲学を過去の遺産として横に取り置きする余裕もなく、むしろ悪しざまに貶すか、殆どなかったかのごとく無視する態度を取った。中世哲学が嫌われた理由は、それが極端に過去の権威だったからである。近代ヨーロッパなは新生ヨーロッパであった。この新生ヨーロッパは科学技術で新生しようとしていた。それゆえ、過去が極端に煩わしいものとなった。そのために近代当初の哲学者たち、例えばフランシス・ベーコンやデカルトは、自分たちは中世哲学を学んでいながら、中世哲学は学ぶに値しない無価値な哲学であると喧伝し、哲学も新しくしなければならないと主張した。しかも、たまたま近代哲学が尊重する実験科学の精神が、中世の論理学ないし弁論術よりも、デモクリトスなどの古代の自然哲学に親近なものを見つけた。すなわち古代原子論である。さらに新時代は、中世を支配した教会の権威とぶつかることが多かった。教会が想定していなかった宇宙が見つかり、それまで教会が教えてきた知的世界の秩序が失われ始めた。近代の哲学者たちは皆、教会を敢えて刺激しないようにしながら、理性が自由に振る舞える場所づくりに専念せざるを得なかった。そのためにも、キリスト教会との親和性を求める中世哲学は、そもそもなかったことにしたかった。中世哲学に倣おうとすれば、新しい時代に即応することができなくなるからである。また近代に入ると、実質的に人々の生活が、信仰に必ずしも依存しない生活に変化していた。言い方を俗っぽく変えれば、近代は近くの隣人(中世哲学)とは趣味が合わず、遠く(古代哲学)に魅力的な友人を見つけて、隣人との間を疎遠にしてしまった、ということである。

 

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