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2013年10月21日 (月)

田島正樹「スピノザという暗号」(11)

ここで我々は一般に「感覚質」と呼ばれる問題圏の分析に進むことができる。サングラスをかけていて眼の中に入る光の波長が一様に青い方向へシフトしても、それに基づく色の感覚質は、やがてもとのように白く感じられてくる。このことは感覚質が、対象の客観的性質をそのまま忠実に反映する「表示内容」ではないことを示唆している。しかしだからといって、感覚質が単に「主観的」で、何ら対象の思考的性質を「反映」していないとは言えないだろう。ここに我々は、身体の変状の観念を説明するためには、刺激を与える対象の本性のみならず、刺激を受ける身体の本性によって説明されねばならないとしたスピノザの考えによって説明するのが適切なものがあると思えるのである。スピノザの「身体の変状の観念」は、もともと感情のようなものを含んでいた。それと同様、我々は感覚質を、知覚内容としてのみならず、感情のようなものとして考えることができよう。感覚質は、それを実際に経験することによってしかそれに対する知識を持ち得ない点で、感情と似ている。それらはスピノザの「身体の変状の観念」のように、対象の本性のみならず我々の身体の状態を表現しているものである。従って、異なる身体の本性をもつものにはアクセスできない。

我々の知識には、命題知として表現できる内容(志向的内容、表示内容)の他に、ある種の運動能力のような知がある。これは、もともとその能力を持たない動物には、習得できないものである。感覚質が、物体の完全に客観的性質として科学によって取り扱うことができないのは、それが対象化しうる命題知ではない部分を持つからである。それを経験するものには、その経験についての客観的条件などを命題知として表現することもできようが、経験知のすべてをそれに還元することはできない。感情や感覚質も、分節化と洗練によって次第に習得されるべきものである点では体操の技術のようなものである。しかし、どんなに訓練を積んでもコウモリの感覚質や感情は知り得ないだろう。例えば、一連の色相の印象は、我々が我々の種特有の身体をもって世界に棲みつく能力の一つなのである。しかしサングラスの例で見たように、世界のどの性質に対して、我々のクオリアを対応させるかは、固定されているわけではない。それは環境への適応(習得)の結果なのである。

それでは、感覚は外的対象の客観的性質を全く表示しないのか?感覚質には志向的内容は含まれないのか?明らかにそうではない。我々の身体は、自らの生まれつきの能力をもって、環境世界に適応する際、できるだけ世界を有利なやり方で分別しようとするだろう。関心の向け方は、種特有という意味で「主観的」であるかもしれないが、その関心のもとで対象を「客観的に」弁別することが、生きる上で有利であるのは明らかである。従って、この関心が一定である場合なら、我々の身体が示す感覚質は、志向的内容を標示すると見なしうる、あるいは総利用することができる。しかるに、身体がいかなる関心のもとに対象を標示するものであるかは、実際上多様である。なぜなら生物体としての我々は、様々な文脈で経験し知覚しているから、そのすべての文脈で、感覚質が表示内容を標示するとは限らないからである。そこで、たとえばサングラスをかけているコンテクストで我々の色印象が提示するものと、裸眼の場合に我々の同じ色印象が呈示するものとが、物理的には異なる性質(波長)であることが生じる。

結局、我々の身体は、感覚質といういわば手持ちのシニフィアンを利用して、何らかの志向的内容の表現にすることはできるが、それは、知覚的環境適応(環境への習熟と同時に感覚質利用への習熟)を通してなされる。しかし、この知覚的適応は、言語が志向的内容を標示するのとは違って、いかなる対象に対しても普遍的に同一のものとして開かれているわけではない。知覚者としての我々は、(言語使用者としての場合と違って)種として、これまでの進化の結果割り当てられてしまった生活圏域(可視光線域など)をもち、またそれゆえ生活関心を度外視した態度や関心を持つことはできない。

感覚質は、行為や感情と同じようにそれを習得せねばならず、それを習得する能力を全く欠いている場合には、それにアクセスすることができないものである。我々がコウモリの感覚質を習得できないのは、感覚質一般が純内面的・私秘的なものだからではない。単に、コウモリの持つ感覚─運動能力を欠いているためである。つまり、彼らのように飛行できないように、我々は、彼ら利用に知覚できないにすぎない。これらの習得される能力としての知識(感覚質の知識)は、命題内容として表現される知識とは違って、少なくとも完全には情報として伝達することはできず、単に身をもって模倣され、完全又は不完全に体得するほかないものである。また、真偽や正誤の評価の対象とならず、せいぜいまったく不完全にしか言語的に表現できない。伝統的知識論において、(真なる)信念との対比で語られてきた知識は、専ら命題知であって、このような感覚質や行動の知は含まれない。このように非常に性格の異なる知識を、なおも「一者」として「知識」にまとめているものは、一体なんだろう?

「知識」として共通する原理は、何れにおいても、それに続く行為や探求のための前提として使用され、それ自身は当面批判の対象とはされないという、用語論的な、役割ないし主体の態度にあるのである。この点「信念」とは違う。信念とは、それがいかに堅固な根拠で主張されている場合でも、当面それが真偽・正誤の可能的批判の対象とされるべきものという役割にあることが、示唆されているのである。信念と知識の違いは、その確実さの程度とは何の関係もない。言語的営みの中での、それらの持つ用語論的役割の違いなのである。この意味では、命題知も能力知も、引き続く行動に対する、自らは問われる事なき前提という役割を与えられている点で共通しているのである。

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