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2013年11月 4日 (月)

加納光於│色身─未だ視ぬ波頭よ2013 (3)~Chapter2 版の変容─メタル・プリント

Kanosol1解説の中で次のように述べています。“1964年から始まる一連のメタル・ワークは、亜鉛板をガスバーナーで焼き切り、溶解させながら円形の突起を施したレリーフ状にしたもの。このメタルを版にして刷ったのが、メタル・プリントのシリーズ<SOLDERED BLUE>である。メタル・プリントは、時には紙やプレス機上のフェルトまで切り裂く激しさを伴いながら、紙の表のみならず裏にまで版の深みを映しだす。さらに、それまでのモノクローム調の世界から一転して、鮮烈な青色が現われる。この<SOLDERED BLUE>(右上下図)、すなわち「ハンダで接合された青」では、3色までコバルト・ブルーのインクを不定形なメタルの凸部にローラーでインクを盛ったりして刷る独自な技法が試みられた。”

従来の銅版画では、線を刻んで描き、部分的に腐蝕液を効果的に使うことなどによって銅版の表面に凸凹をつけてプリントするものです。加納は腐蝕液を従来以上に使って版そのものを変容させる。加納は、その様々な技法を試み、それでプリントされたものは、普通に手で描けないような不定形なものとなり、そこに鮮やかな色を施していくことにより、言葉で形容しがたい、最初にも述べたように「美」としか言いようのない作品に結実させます。ここでは、その技法の試みのひとつとして、板に炎をあてて高温に焼けたり溶けたりして、板としての形状が崩れて不定形の凹凸ができたところにインクを流して、紙にプリントさせたものと言えます。

Kanosol2私が好んで見る絵画の対象範囲はそれほど広いものではなくて、(現代)アート?といったコンテンポラリーなものは、ほとんど見ることがなくて、保守的な絵画の枠内に収まっているものばかりです。最近も近代日本画の展覧会に挑戦して悪戦苦闘している最中です。そのような狭い視野しか持ち合わせていない者の意見として聞いていただきたいのですが、加納のこの作品の場合、画家が自らの手で筆を持って描いたというのではなくて、何かの拍子に紙に映ったものを作品として提示しているもので、そこに加納という人の作為があるのかどうか。例えば、作家の主観性を大切に思えば、それは疑わしいことになります。多分、こんな議論は、あったとても何十年も前に解決してしまっている古い議論かもしれません。何故今さら、そんなことを、と訝しく思われる方もいらっしゃるかもしれません。私の場合、これまでも述べてきているように、加納の作品は結果として「美」で、それ以外のものは削ぎ落とされた、きわめて感覚的で表面的なものと思っているからです。それは、極端に突き詰めてしまえば、道端に転がっている石ころに「美」を見出して、それを拾ってきて作品として飾ることと、どう違うのか、ということになりかねません。例えば、そういうことを意識的にやったデュシャンのようなケースもありますが、それはデュシャンのコンテクストの土俵に乗ったうえで従来の芸術への異議申し立てというような意味づけをするという楽屋落ちのような極めて狭い範囲内でのことで、その意味で、デュシャンの作品というのはコンテクストを理解しなければならなす、不純物の多いものだと思います。加納の場合は、できるかぎり、そういうものを削ぎ落とそうとしている、感覚だけで勝負と杳としている、と私には思えます。議論に戻りますが、その点で、この議論を踏まえないと、加納の作品を見て「キレイだ!」と言うことですべてが終わってしまうことになり、ここで感想を細かく述べることもなくなってしまうことになります。

Kanopen図の<SOLDERED BLUE>の1点を見てみましょう。画面の無数の泡のような形状は、金属板が腐蝕液やバーナーによる高温によって泡状の凸凹ができたところにインクを流して、それを紙に写し取ったものと考えられます。そこには、人が筆を使って、絵の具を塗って描いた場合に特有の人の手の温もりのようなものは一切感じられません。その代わりにキレの良さが、怜悧さも伴って感じられます。それは、人の手で描いた場合には、思い切りの良さとでも言われるような印象で、画面にある形状は不定形であるくせに形が、輪郭が明確なのです。それがソリッドに印象を与える。輪郭が明確で形はハッキリしているのですが、その形の意味が分からない。その形状は現実に、私たちが生活で使用したり、身近に感覚しているものとは、何も通じていません。だからどういうものかとか、何かを象徴しているかとか、その意味を詮索する糸口さえないわけです。これは、カンディンスキーの抽象的な形状が具体物を変形させたり、何かをシンボライズしたものであった場合は、まったく別の世界です。

それだけに、画面に塗られた青が無意味に鮮烈に映るのです。ここに青色の必要性とか意味が、まったくない。だから逆に、その青が際立つ。私は、そこに象徴とか作者のメッセージとか不純なものを詮索する必要なく、ただ青が鮮やかだと単純に見る。結果的に、そのように青を見るように、この画面ができている、ということなのでしょう。多分、同種のものを数多試みた後で、加納によって選別されたものが作品として、私の前にあるのでしょう。

PENINSULAR半島状の!》№8 という作品(左図)では、<SOLDERED BLUE>の青一色から赤系統の色も加わり、キイホルダーか靴べらか何かのような形態と<SOLDERED BLUE>で使われたと同じような不定形な形状とが組み合わされたものとなっています。このとき、キイホルターらしき形態は本来の意味から別のところで単なるかたちとして、画面に在るように、私には見えます。

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