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2013年11月 8日 (金)

加納光於│色身─未だ視ぬ波頭よ2013 (5)~Chapter4 波動のさなかで─多色版画

Kanoina2スポーツのゲームを観戦する魅力は、ひとによって様々です。プレイヤー個人のドラマを追体験する人や観客席でプレイそっちのけで応援というパフォーマンスに参加することを楽しむ人など、私の楽しみ方のひとつは、例えばテニスのゲームであれば、ボールが対戦プレーヤーの間で行き来する運動や、ポールの動きに応じてプレイヤーが動く運動性を観たり、その動きのリズムを感じたり、乗りに同調したりという楽しみ方をします。以前、ゴルフのプレイヤーで岡本綾子という人がいましたが、彼女のプレイを見ていると、コースを歩いたり、ボールを打つ前にコースの芝の状況をみたり、クラブを握り、構えて、ボールを打つという一連の動作のリズムの伸び縮みが、とても心地よくて、まるでダンスを見ているような錯角に捉われたことがあります。そのときに、彼女の伝記的な情報とか、重いとか、精神状態とかいうようなこととは切り離して、彼女の身体の動きと、それが刻み出すリズムの心地よさ、彼女のゴルフのプレイの魅力であると感じられたのでした。そこには、スポーツ新聞やスポーツニュースに取り上げられるようなストーリーも意味もないことです。

Kanoina6喩えとしては適切ではないかもしれませんが、音楽の魅力も、同じように意味がないということにもあると思います。私が加納の作品に感じる魅力は、これに近いものです。これまでの展示作品では、多少の意味を引きずっていて、それが邪魔に思えましたが、ここでの展示あたりから、その邪魔だった意味がなくなってきました。

<稲妻捕り>というシリーズは1976年ころから始まった、とのことです。エンコスティック(蜜蝋)という手法は解説で“溶剤で乳化させた蜜蝋に顔料を溶かして独自に開発した、流動性の強い絵の具を床面に置いた用紙の上に注ぎ流し、そこに透明なフィルム板を近づけると、「静電反応」によって絵の具が瞬時揺れ動き、近付けたフィルムにハタハタと吸い上げられる。その発色する瞬間をデカルコマニーの技法を援用して紙に痕跡として転写する”と説明されています。実際の作品をみれば、水を張ったところにインクを流したような不定形の形とインクの色の流れるような感じのイメージが想像できます。筆で描くことは絶対にできない、そのため人為的な作為の跡を見つけにくい、人の手の暖かさを感じさせるものがない、波打つようなグラデーション。これに複数の色を同時に流すことによって、色が混じったり、鮮やかな色が波打ったりしている様は、これはこういうものだと形容することはできません。そこに映されてできたかたちや色合いには、思いとかメッセージを意図的に込めて作り出すということとは無縁です。たとえば、シリーズの中の6個の丸状のかたちがサイコロの6の模様のように配置されている作品を見てみると、黒とグレーと白の3色なのか、それらの色が波打ったり、混ざって中間色になったり、混ざらずに複雑な模様を創り出していたりします。それが偶々丸状の形状になったのが並べられて、それぞれを見比べるように見ることができる。その上に、円形の図形が線で引かれて作為が加えられていますが、それを加えた全体としての作品に対しては、言葉で、これはどうだこうだという言葉で意味づけされた形とかものが描かれているというのではないので、感覚的にどうこうと。つまりは感覚的な好悪に行き着くしかないものにっていると思います。おそらく、加納自身も感覚的な印象に頼んで、映したものを作品に選択したものでしょう。

Kanohado1似たような作られ方をされたものとして考え浮かぶのが、ジャクスン・ポロックによるドリッピング技法を用いたアクション・ペインティングの作品です。ポロックが即興的にキャンバスに絵の具を垂らしたり、流したりした結果が作品となるというものです。しかし、技法や用具の違いによることも大きいのでしょうが、ポロックの作品は人の手の温もりが感じられるし、色遣いや全体の印象からポロックの感情とか精神状態を想像させる余地が残されているような感じがします。以前、ポロックの作品は抽象的であるけれど、それ以前のカンディンスキー等の作品にあった精神性とか意味のようなものがなくて空虚だと印象を述べたことがありましたが、加納に比べればポロックの作品は意味の残滓が残されているような感じがします。

次の《波動説─intanlioをめぐって》は多色銅版画の作品だそうです。ここでは、流れのような不定形の形状や色の波立ちが繰り返されるように、似たような形のものを何個も並べています。それによって反復するリズムを想起させるような効果をあげて、直線を区切りのように書き加えることによって、秩序づけるような一種のコスモスのような全体の印象をもてます。とはいっても、もともとの流れの部分はコスモスに対するカオスを感じさせるので、カオスとコスモスの拮抗、というと意味づけし過ぎかもしれませんが、<稲妻捕り>の奔放さとは一味違った味わいがありますが、このせいかもしれませんが、色の変化、グラデーションの変化が、より鮮やかに感じられるような気がします。

Kanolion2そして《青ライオンあるいは(月・指)》(下図)というシリーズでは、奔放な流れが円形の中に閉じ込められたようなものとなり、運動が閉じられた狭い空間の中に押し込められ、その円の中が密度の高い濃密な空間と化して、色彩の鮮やかさがことさらに際立たせられているように見えます。閉じられたような円の中での対比の目立ち、それらが並べられることで、それぞれの円の違いが際立たせられていました。

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コメント

おはようございます。
デカルコマニーの手法でこんな素敵な作品がつくれるんですね。
偶然にこういう作品をつくるには相当試行錯誤しないとできないでしょうね。
水の流れを作品にする瞬間芸術(?)みたいでおもしろいですね。

poemさん。コメントありがとうございます。この人の作品は、とにかくパッと見てキレイと感じられるものです。その裏で、何度も納得いくまで繰り返して、満足できるものとなったのを作品として残したのでしょう。でも、この人の作品を見ていると、そういうことを考えたくなります。

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