無料ブログはココログ

« 横山大観展─良き師、良き友(4)~二、構図の革新とデフォルメ | トップページ | 実務とのお別れ »

2013年11月26日 (火)

横山大観展─良き師、良き友(5)~三、主題の新たな探求

Yokoyamasen“主題の新たな解釈や探求は、大観が明治期においても常に取り組んできたことではあったが、大正期において、若き画家との交流が活発となって、南画的なおおらかさや、やまと絵研究の上に立ち、さらに探究を深めたと思われる。”と説明されています。と言われていても、新たな主題と新たでない主題の違いがよく分らないので、何とも言えません。私が見る横山の作品の特徴は、現実世界をリアルに写していくことよりも、見たものをデフォルメして図案化し虚構的な世界を作り上げていくのに長けている、というものです。その際に、作品を観る者に虚構的世界に入ってもらわないと、作品を面白いと思ってくれない。そのため、取り上げる題材とかは観る人にとって既知のものするのが手っ取り早いわけです。ただし、それが陳腐に堕すれば、振り向いてもらえない。そこで、興味を引くために陳腐を避けて、ほんの少し観る人の視点をズラすような工夫、つまりは観る人にほんの少しの違和感を覚えさせれる、ちょっとしたサプライズを与える、というようなことが有効です。横山の作品では主題の工夫といっても、そういうことなのではないか。実際、展示されている作品を見渡してもびっくりするようなものを題材としているとは考えられませんでした。むしろ、何を題材とするかではなくて、どのように見せるか、という方が横山という画家の志向するところだったのではないか、という感じがします。この大正期においては、挑戦的であったのかもしれませんが、私は、当時の人間ではないし、当時に遡って作品に触れるという見方をしているわけではありません。

「千ノ與四郎」という作品は、このコーナーで典型例として説明されているもので、與四郎とは千利休の幼名で、武野紹鷗に茶を学ぶために入門する際に、紹鷗は與四郎を試すために、あらかじめ掃き清めておいた庭を掃除するように命じます。與四郎は木をゆすって落ち葉を散らし、庭に風雅を与えることでこれに応え、紹鷗は與四郎の才能を認めた、という逸話に基づくものだそうです。ここでの與四郎は侘び茶の大成者である千利休ではなく、輝かしい未来を信じる青年として描かれているというのが、横山の主題の独自性だということです。

Yokoyamasen2そういうことよりも、俯瞰の構図で配された茶室や庭木の生い茂る様子を描き、バランスを失するほど庭木の生い茂る様子を描き込んでいること。それによって主人公である與四郎が庭木に隠れてしまうほどであること。実際のところ、存在感は與四郎よりも、庭木の方が強いところが、この作品の印象です。画面全体を覆い尽くすように庭木の様々な葉が描かれて、葉っぱがこの作品の主題ではないか、とこれに対して、與四郎が平面的で、生命感がなく、存在感が希薄です。作品を先入観なく見ていれば、ここに人物を置く必要が感じられないほどで、端役に過ぎないと言っても過言ではありません。ここでも、横山という画家の描く人物はつまらない、という特徴が露出していますが、執拗に、また絢爛と描かれた庭木の葉が、この作品の主題ではないかというところが、もしかしたら新たに探求された主題ということなのかもしれません。私には、日本画の伝統とか技法とかいうものにはとんと疎いので分かりませんが、日本画の様々な表現方法とか技法を駆使して、様々な葉っぱが様々に描かれているように見えます。そして、描かれている葉っぱは様式化、パターン化されて、多くの枚数が描かれることで反復され、その繰り返しとズラしがリズムを生み出して、反復の構図が不思議な活き活きとした印象を生み出しています。そのなかに幽霊のような存在感のない與四郎が配されることで、いっそう葉っぱが際立つ効果をあげている、と言えるかもしれません。

この作品では、前回も参考として紹介したアンリ・ルソーの作品と通じているような感じがします。

« 横山大観展─良き師、良き友(4)~二、構図の革新とデフォルメ | トップページ | 実務とのお別れ »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 横山大観展─良き師、良き友(5)~三、主題の新たな探求:

« 横山大観展─良き師、良き友(4)~二、構図の革新とデフォルメ | トップページ | 実務とのお別れ »