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2013年11月24日 (日)

横山大観展─良き師、良き友(3)~第二章 良き友─紫紅、未醒、芋銭、溪仙:大正期のさらなる挑戦

Yokoyamakumoここからが、この美術展の核心部ということになると思います。解説では“大正期の大観の作風は、鮮やかな色彩が現われた一方で、朦朧体から出発した水墨表現に新たな展開を見せた。また革新的な構図やデフォルメに加えて、主題の新たな探求など、多様な試みで、表現そのものが持つおおらかさを湛えた、伸びやかな画風を切り拓いた。”とこの時期の大観の特徴を説明しています。これに良き友である画家たちが関わったということです。ただし、私は大観すら分らないので、横山と友人の画家との関わりまで追いかけることはできず、横山に絞って、それ以外の画家は切り捨てて観ることにしました。何しろ、彼らの作品は横山以上に難解だったのです。

解説で説明されていたことに沿って、展示は次のように小分けされていました。

一、水墨と色彩

二、構図の革新とデフォルメ

三、主題の新たな探求

そこで、この小分けに従って、最初の水墨と色彩から見ていこうと思います。

Yokoyamayoru大正期の横山の作品を特徴づけるものとして、水墨表現をあげ、「朦朧体」に続いて「片ぼかし」という表現方法で呼ばれるようになったと言います。「片ぼかし」は、“はじめ弧を描くような筆線の内側をやや暈したような描き方を指していたが、水墨の筆力の弱さ特徴ある線自体を指すと言ってもよく、狩野派における濃墨で力強い肥瘦ある筆線と対比的に、穏やかな、柔らかい味わいを出す技法として用いられた。”と説明されています。当時の横山の「片ぼかし」は、“一種の墨の弧線とその濃淡の使用法を以って、飽くまで平面的に描写しようとする大胆な計画で、敢えて技術を稚拙に見せながら、そこに生じる個性の表出や味わいを前面に打ち出す新技法だった。”と言います。う~ん、自分で引用していても、よく分らない。じゃあ、他の日本画家、例えば竹内栖鳳も線を暈した作品を制作していますが、両者の違いは何なのだろう。

「雲去来」(上図)という作品、2隻1曲の屏風ですが、左隻の山容は「片ぼかし」で描かれ、右隻の山容は、墨の面を片側へ暈して立体感を表わし、同時に雲の描写につなげる工夫をしている、といいます。ただ、私には、例えば右隻の手前の木や屋根の描き方があまりにデフォルメされていて、まるでテレビアニメの日本昔話の田舎の古寺で和尚さんが出てくる場面の背景の描き方を彷彿とされられるようなので、笑い出しそうになる程度のものでした。私には、この作品は技法を試している程度のものにしか見えませんでした。

「夜」(右上図)という竹藪の奥にミミズクが目を光らせ、さらにその奥に覘く月の光に照らし出されているという作品。全体が夜の薄明かりというぼんやりとした世界と夏の湿気を含んだ空気の雰囲気を出しているという作品。まるでスプレーで吹きつけたような線や筆跡を感じさせず、暈しのグラデーションによって徹底して描かれているのが効果を放っていると思います。竹藪の竹葉やミミズクは思いっ切り図案化されて、平面的で、それが墨の暈しのグラデーションのなかで、フラットに並べられています。まるで、何かのポスターにでも使えそうな洗練された感じの図柄は、夜の暗さの中で一様に感じられて、結果として平面的に感覚に錯覚される感じが、実感させられるという点で、さっきの「雲去来」という屏風に比べると、遥かに親しみやすい作品だと思います。この墨の濃淡だけのモノクロの画面の中でミミズクの眼と月だけが淡い黄色に着色されていて、光を発するところが微かではあるがとても印象的に目立つ効果が上がっています。この作品では、暈しの技法があまり気にならず、むしろ図案化したデザイン性をうまく引き立てる効果をあげているように見えます。私には、横山という画家は、このような軽いテイストでしゃれた感じのデザインに近いような、いわゆるオシャレなイラストっぽい作品を描くと良い仕事をするように思います。どちらかというか絵画作品を完璧に構築して仕上げるという意志の強さとか根気に欠ける作風のように見えます。その作風にとって、「朦朧体」でも「片ぼかし」でもいいのですが、ハッキリと線を強く主張することから上手に逃げることができ、しかも画面を軽いテイストにするには格好の手法だったのではないかと想像してしまうのです。それがハマッた作品が、この「夜」ではないかと思います。

Yokoyamashushoku一転して「秋色」(左図)という作品は、それまでの水墨画のモノクロの世界から、派手で豪華絢爛ともいえる色彩を駆使した作品です。常緑の杉にからまる蔦の紅葉した葉が画面いっぱいに広がり、杉の緑に対照された蔦の葉の紅葉した赤が強い印象を与える作品です。この画面では配された鹿も色の存在観では蔦の葉に負けてしまい、主役は蔦の葉の成ってしまっているような作品で、その蔦の葉が正面からみられた葉の形で一様に図案化されています。さらに葉の紅葉が暈しの手法で赤や黄が模様のように配されていて印象的です。まるで着物の柄のデザインのような画面の印象です。ただ、こういう日本画の平面的な作品は画像や複製で見る際には問題ないのですが、実物を見てしまうと、ノッペリとして単調に感じられることが多いのです。例えば速水御舟の装飾的な屏風絵を見た時に画集では大胆なデザインと思えたものが、単調で退屈だったのです。しかし、この横山の作品は画面上の多数の蔦の葉が暈しの技法で様々な赤と黄のグラデーションを構成していて単調さに陥るのを防いでいます。多分、横山という人は、派手な色彩を効果に配するセンスが良かったのではないかと思います。だから、水墨画のようなものよりも、派手でカラフルなものの方が合っていたように思えるのです。時代とか、風潮が許さなかったのか、権威になっていたので、重厚なもの追求せざるを得なかったのか、とても残念に思います。

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