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2013年11月18日 (月)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(8)

2.ダブルなわたし

世界内存在を演じて生きているぼくたち自身のこと、つまり「自己」に、スポットライトを当ててみよう。とても奇妙な姿が見えてくるはずだ。奇妙な姿とは、他でもない。ぼくたちが、役者同様の二重分裂構造と自己焼却構造を生きている、ということである。役者は、ある時は王様を、ある時は老人を、あるいは善良な市民や犯罪者をえんじよ。それと同様ぼくたちもみな、特定のスケーネー(生活場面・状況)とドラーマ(活動様式・言動・任務)に応じて配定される、様々なペルソナ(役柄・仮面)を演じている。その際、演じている役柄上の自分と、それを演じている生身の役者なる自分自身とは、別々の自分だということは、説明するまでもないだろう。例えば、あなたが老婆役を演じる若い役者だとする。その場合、老婆という役割上の自分(配役・仮面自己)と、それを演じている若い生身のあなた自身(自己存在)とは、別々のもののはずだ。だが舞台上では、<舞台上の役柄としての自分><生身の役者としての自分>との二重分裂構造を、ごく当たり前のように生きてしまう。ごく当たり前のように生きてしまうとは、①まずはそんな分裂構造など全く意識しない状態で生きているということ、②さらに言えば、生身の自分は消し、そんな自分のことも忘れ、役柄上の自分になり切って、はてはそれが自分だと思い込んでいる、ということである。

通常ぼくたちは、あまりにも懸命に、与えられた役柄や立場を生きてしまう。生身の自分など忘れ、ひたすら役柄になり切っている。没頭して生きている。「世界」に夢中なのだ。そのうち、演じている自分自身のことなど、忘れてしまう。むしろ自己忘却こそ、毎日を活き活きとスムーズに生きるための前提。会社勤めに精勤すればするほど、ぼくたちは自分自身から離れ、自己疎外に陥るのだが同時に、活き活きと生きることもできる。そしていつの間にか、「世界の側から自分を理解する」ことが当たり前になる。これは役柄を、自分自身と取り違えるということである。懸命にこの世を生き、だからこの世に没頭し、だから自分をこの世での役柄と同一視してしまう。これが耽落ということである。だから耽落とは、世界劇へ深々と入り込み、熱演している証拠。決して劣悪な生き様ではない。だから耽落は、生き甲斐に充ち、活気ある人生をおくるために、ぜひ不可欠な要素である。だが、だからこそハイデガーも強調するように、「生の原パラドックス」なのだ。生に勤しみ、まさに生の渦中を生きれば生きるほど、生それ自体は視界から消えてしまう。間近に生きなければ、生それ自体が分からなくなる。だからこそ、生への「深き」眠りなのである。

役柄上の自分と、生身の役者としての自分自身の決定的な区別。それを考慮しハイデガーは、生身の役者のレベルの自己を本来的自己とか自己自身と名付け、役柄上の自分(正確に言えば「役柄を自分だと思い込んでいる自分」)を、ダス・マン自己とか非本来的自己と呼んだ。ダス・マンとは「一般的なひと」のこと。まるで誰でも被れる仮面のように、誰もがその位置につける「一般性のレベルでの人」、という意味である。

ハイデガーが、世界内に存在している者は誰かと問うて、まずは「ダス・マン」と答えるのは、以上のような理屈からである。ぼくたちはこの世(舞台)のなかで、自分であって自分ではない。たしかに常にどこででも自分(生身の役者自身)なのだが、しかしたえず、自分ではない。たしかに常にどこででも自分(生身の役者自身)なのだが、しかしたえず、自分ではない「他人の顔」(役柄自己)へ変換されるという仕方で、自分である。かといって、自己自身が、この世の舞台に登場していない、というのではない。身振りや声の裏付けとなって、あきらかにこの世の舞台に「内在」している。そんな中で「忙しすぎて自分自身を失いそうだ」などいう焦燥感にかられたことは、どなたにもたびたびあるはずだ。そんな時ぼくたちはふと、自己の二重性の隙間に、足を踏み入れているわけだ。誰にも覚えのあるとてもリアルな話のはずだ。

不安の正体とは、まさにこの自己分裂構造である。この世に生きていること。それは二重性の中で生きることだから、構造的に不安定だ。だから静かに不安だ。ズレを生きるのだから、いやでもそうなる。自分ではない自分(ダス・マン)と自分自身とが統合され、均衡を保っているうちはいい。だが限度はある。ズレも大きくなると、クレバスになってしまう。まさに自己分裂症に陥るわけだ。そんな危機に至るまでもなく、いつも軋みがあり、ズレて生きている。その軋みが、現存在の基調音となっている。不安は日常的情緒なのだ。非意識的生ゆえ、ことさら気づかぬが。不安ということを、ハイデガーが根本気分というのは、そんな意味である。この地底に響く根本気分(不安)が、突然噴き出すことがある。NG。スムーズに流れていた舞台劇が停滞したり、破綻した時である。そのとき役柄上の自分から亀裂した生身の自分がニョッきり顔を出す。慣れ親しんでいた自明な世界舞台全体が、なんだか嘘っぽく、じつに居心地悪い場所と化す。

そんな不安はやはり辛い。だが言うまでもなく、夢(眠り)から覚めただけだ。舞台上で虚像の役柄(他人の顔)を演じていた自分のありさまを、画然と理解してしまっただけである。「現実の社会生活」なるものが、大掛かりな仕掛けの巨大なショーだったことに、気づいただけのことである。本当は故知らずこの世という舞台に投げ込まれ、実はコレッと言い切れるだけの根拠も理由もないままに、とりあえずありつき、与えられたこの世の役柄に己を託しながら、何とか当座を凌いでいた。そんな「自分の負の正体」が、白日の下に晒されただけのことだ。不安を覚えるとはその意味で、舞台上で悦にいっている自分(ダス・マン)に対し、本来の自分(生身の役者自身)が、「それは私ではない」という自己疎外の声を、静かに上げていることの、別表現である。この自己疎外の静かな声。「それは私ではない」というズレの軋みの音。それが、有名な良心の無言の声に他ならない。通常その軋み音は小さい。だがいつになく増幅されて響き渡るときがある。それがさきに述べた不安の突出である。それもこれもすべて、自己の二重性というぼくたち自身のこの世でのあり方に起因する。自己分裂の解消なしには、不安は生涯つきまとう友だ。

もっとも、否定的なものを肯定形に変えるのが、ぼくたちのオントロギー。不安は辛い。がしかしそれは同時に、自由の取戻しである。それまで、懸命に生きてきた熱演舞台への没頭状態(耽落)から、フーッと覚めるのである。この世の役柄や弁別からもともと離免され、身分なき身分として生きている「自由な自己」に目覚めるのである。その意味で不安は、自己自身を取り戻す絶好のチャンスなわけだ。深きねむりから深きめざめへの<>において、なぜ不安分析が重要なファクターになっているのかも、以上からしられよう。不安を抱かせないよう、不安がらないようにと、近代という文明の箱庭は苦心してきた。学校も家庭も社会環境も、おおむねその方向で営まれる。だが、それは結果的にぼくたちの自由を奪い、ぼくたち自身を喪失させる、たくまざるトリックだったと言えるかもしれない。そんな不安が明確に訪れるのは、やはり死を痛感する時だろう。

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