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2013年11月17日 (日)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(7)

第3章 世界劇場

1.世界に夢中

そもそも、<>とは自己変容トレーニングマシン。そんなトレーニングマシンについて分厚い説明書を読んだところで、実際に道を歩いたことにはならない。ここでは、近道を試みる。その近道を「世界劇場論」という。

この世この生を、一幕の舞台劇と見立てる世界観。それが世界劇場論。世界と生のリアリティ(真実在)を透視する、西洋古来の解釈装置。それは、それまで夢中で熱演し没頭していた現世の悲喜劇を、観客席のような場外に立って突き放して見る工夫。つまり「深いねむり」からさめ、自分自身(オープンマインド)を取り戻し、真実の存在(存在神秘)に撃たれることですべて吹っ切れ、ふたたび人生劇に復帰し、今度は、しかと目覚めながら生き直す道である。

開演のベルが鳴り、舞台の上に役者たちが登場すると、役者の立ち居振る舞いを触媒に、「何にもない空間」に突然、演劇世界が浮かび上がってくる。まるで「無からの創造」。役者の立ち居振る舞いを、日頃のぼくたちの生の営みと見立て、舞台上に刻一刻紡ぎ出される演劇世界を、ぼくたちが普段生きている日常世界と置き換えれば、世界劇場論の舞台設定も整ったことになる。まず言えることは、生と世界との緊密な結びつきである。役者が登場し演技が始まると同時に、演劇世界が創出される。役者が消えれば、一幕の舞台世界も消失する。舞台世界の出現と、役者の演技活動とは、同じ一つの出来事。分離などできない。それと同様、ぼくたち人間が生きる生の現場には必ず、ぼくたちの生の営みの辺り一面(周囲)に、まるで大気のようにひそかに深く広く、時々の場面に応じた、重層的で可動的で濃密な、意味と情動のネットワークとしての「世界」が分泌されてくる。つまり、生(現存在)と世界(周囲世界)とは、分離不可能な仕方で錯合しあっている、ということである。世界は生に依拠し、生との深い相関関係の中で初めて成立する。そういってもいい。そのことを、初期ハイデガーは、「世界が世開する」し表記し、ひどく強調した。それは、ぼくたちの生それ自体が世界制作的だ、ということに他ならない。世界鳴るモノがまずあって、その後に人間の生が入り込んでくるのではない。世界を生み出すのは、ぼくたち人間の生(現存在)。

だが、生が世界制作的であるとしても、しかしそれは、世界をぼくたち各人が好き勝手に作り出しているのだと、独我論的方向で誤解してはならない。ぼくたち人間の生は、それが分泌してくる世界に逆説的に包まれ、すっかりその統制下に置かれているからだ。それは役者が、自ら紡ぎ出しているはずの演劇世界にすっぽり包まれ、そこに没入し、さらにその世界に逆に規定されてはじめて生きた舞台が進行するのと、同じことだ。生は、自ら分泌する世界に逆規定され、世界依存的であることで、生たりうる。だから、世界あって事後的に生(現存在)があるのではないし、また生が<主体的>に成果を制作するのでもない。生あるところ必ずそこに世界が分泌されるとしても、しかし同時に、そうして分泌される世界に折り返すように決定されながら、実際の個々人のリアルな生がみのる。生と世界との相関関係とは、正確にはそういうことである。生と世界とのそんな一体二重的な相関性を念頭に置けば、ハイデガー哲学においてなぜ、現存在が同時に、世界内生とか、世界内存在と言い換えられたか、もうお分かりだろう。そしてまた、演劇世界が何か物質的な事柄ではなく重層的に織り上げられた不可視の意味と情動の空間であることを考えれば、「世界」の本質的な性格(世界性)が、意義連関のネットワークとされた理由も、ご理解いただけよう。

世界は、個人の生と密接に結びついて成立する。しかしだからといって、その世界が、個人的な世界だというわけではない。個人が紡ぎ出す世界は、同時にすでに最初から、共同世界的な成り立ちをしているからだ。例えばサラリーマン劇を演じるあなたの会社世界。たとえそれがどんなにあなた個人の創意と工夫を凝らした世界だとしても、と同時に最初から、他の同僚との共演舞台でもあるはずだ。そこにはさらに芝居同様、他者経由で共同的に与えられた既定のシナリオや、大道具・小道具が、いやでも入り込んでいる。そうした、誰が元々企画し決定したのか特定できない、まさに共同作業の産物によって、幾重にも幾重にも制約され、そこに巻き込まれるようにして、あなたの会社劇は営まれているはずだ。それらすべては、あなたなる個人のあずかり知らない、共同世界的産物である。逆に言えば、「世界」とはある意味でその程度のものだということである。だから、あなたご自身の存在それ自体(自己自身)を体現した次元ではないということだ。もっと言えば、自己自身など消すことで初めて世界は成り立つ。

さて、世界制作的(=世界内存在的)にして、しかも共同世界を生きる人間のあり方を強調する『存在と時間』。そこから、従来の人間論とはまったく異なった、次のような人間理解も、浮き彫りになってきたはずだ。かつて、近代の主体主義が優勢を極めた時代には、《人間は、自分の生や行為を明晰に認識できかつコントロールできる者》、と想定されてきた。自己反省能力を備える明晰な主体性(コギト/理性)を、すべての起点に置くことができたからである。だが、世界制作的であるぼくたちは、目前のものをたんに眺めやるだけの、そんな無世界的で静態的で<観照>的な生活をしていない。役者さながらに、周囲世界に気を配り、共演者を気遣い、観客に配慮しながらそのうえで、時々のものごとの交渉に明け暮れる。しかもすでに最初から、共同世界的な制度やシナリオに染色された公共圏を生きる。実に動的で<実践的>な行動圏を、しかも暗黙裡に生きてしまっている。このような実践的で動的で暗黙裡の生存様式を、ハイデガーは気遣いと総称する。まずはとても自足的で理知的な主体がいる。それが外の世界と関係する。することで、様々な認識や行為が事後に形成。かつてなら、そんな明示的で静態的な主観-客観の二元論が─観念的であれ唯物論的であれ理屈としては─、成り立つこともできた。だが、ご自分が舞台役者になったつもりでお考えいただきたい。役者は実に不分明で揺れ動く闇の海原(非意識的生の次元)を漂うかのようだ。観客からあらわに読み取ることができる舞台世界の全貌など、知る由もない。稽古場で長い間修練し、その身に叩き込んで来たはずのスキルについても、明示できない暗黙裡の知の中で、舞台に立つ。共演者たちの息遣いとのあやういやり取りの中で、かろうじて刻一刻の舞台世界が構成されてもいく。しかも実に自動的に速やかに。まるでぼくは、僕を超えた生を生きているかのようだ。主体の明晰な意識などはるかに超えた非意識的な生(=現存在)として、ぼくたちの具体的な生はあり得ている、ということである。非意識的な生などというと怪訝に思われるかもしれないが、よく考えたら、当たり前のことだろう。現存在のそんな非意識性を踏まえてはじめて、よく知られた被投性や企投性や耽落といった、現存在の基本性格も、すっきり理解できるようになるはずだ。

舞台上の役者は、演じている場面のコンテキストがどうなっているか。舞台上の諸々のモノ(大道具・小道具)がなんなのか。顕現的に分節すれば、おそらく無尽蔵に語ることができるほど膨大な情報を、一挙に即座に但し本人さえ不分明な揺れ動く暗黙裡の知という認識論的資格で、察知して行くはずだ。この側面が企投である。しかし、そんな企投が可能となるのは、そもそもすでに常に彼が、時々の舞台世界(明示不可能で非意識的な意味・情動のネットワーク)に投げ込まれているからだ。さらに言えば、その投げ込まれた世界に、すっかりはまりこんでいるからである。そして、場面、場面でどう演じたらいいのか、その役者の一挙手一投足(企投)が可能になるのは、当たり前のことであるが、まずはすでにある特定の舞台劇に出演してしまっているからであり、その場に出来上がっている筋立てや雰囲気に暗黙裡に入り込み、一体化できているからだ。つまり、演劇内世界にすっかり没頭し「はまって」いるからである。お芝居だという覚醒を抑えるだけの<眠り>が必要だ、ということである。このようにして、コギトや意志と関わりなく、既定の舞台世界に投げ込まれ演技してしまっていく側面が被投性であり、そこにピタッとはまり込んで没頭し<眠る>側面が耽落である。

もっとも、そんな現存在の成り立ちや、成り行きについて、どうして現存在自身にそれを知る由があろう。いつの間にか人生舞台に投げ込まれ、熱演の時間が過ぎもそして終わる。非意識的生(現存在)と、そこに展開する世界との間は、あまりに密接すぎ、主体と客体とか、人間と世界といった割り切りのいい二元論では読み解けない不分明さがつきまとう。つきまとうその影のような舞台世界に、つまりぼくを超えた非意識的な生の海原に、ぼうぼうと浮き沈む自分なるものがあるだけである。世界劇場をぼうぼうと漂う、そんな現存在(非意識的生命性)を追跡するうちに、しかしすでに、ぼくたち現存在が、コギト(意識主体)などとは異なり、とてもダイナミックな運動現象だということも、明らかになってきた。

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