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2013年11月 2日 (土)

加納光於│色身─未だ視ぬ波頭よ2013 (1)

Kanoupos仕事の関係で近くまで出かけたので、折角の折なので足を伸ばしてみた。名にしおう観光地。古都とか色々言われているようですが、どこにでもあるような普通の観光地でした。途中に有名な鶴岡八幡宮がありましたが、何の変哲もない普通の観光地でした。たぶん、その普通さ、凡庸さが有名な観光地たる所以なのだろうと感心した次第です。そのため、周辺に住む人にとっては、いかにも住みにくそうな感じで、絶対にこんなところには住みたくないなと強く思いました。いずれにしろ、街としては退屈さとか、無意味さのオーラが強く放たれている印象でした。そういう、居ると落ち込んでしまいそうな街並みを抜けて、鶴岡八幡宮の裏手に一昔前のモダンなデザインの手入れがされていないような寂びれた感じのコンクリートの建物が神奈川県近代美術館でした。当時としては凝ったデザインだったのでしょうか、入口がよくわからないところで入場券を買い、暇そうな受付を通って、会場に入りました。

加納光於という人について、主催者のあいさつの中では次のように紹介しています。“加納光於は1933年東京に生まれ、80歳を迎えた今日もなお以前にまして旺盛な制作を続けています。加納が版画家として登場した1950年代は、敗戦の影響もあり経済的には困難でしたが、文化全体が活気に溢れた時代でした。そうしたなか、加納は目先の新しさや前衛性に与することなく、自身の目指す「孤絶している精神の明朗さ」を手放さず、ひたすら自らの鉱脈を探り続け、豊かなイメージを追求してきた特異な独行の作家です。1955年、銅版画の作品集<植物>を自費出版し、瀧口修造等に、その幻想的な作風を高く評価されました。初期のモノクロームの銅版画は、その後、「版」を起点に、多様に変容していきます。1960年代後半の亜鉛板によるメタル・ワークと色彩版画の誕生、1970年代からはリトグラフ、エンコスティックなど次々と技法を広げ、1980年前後からは油彩を本格的に開始します。加納の多様な表現を通して、平面と立体、言葉と造形の間を往還していくその独創的なイメージの変容を確認するとともに、本展のタイトル「色身」という加納の制作の根幹に隠された色彩への問いが、わたしたちにとって未見の経験の鍵をひらくきっかけになることを願わずにはいられません。”と、少しアレンジして引用しました。メッセージを籠めた、ひとつの視点でまとめられた紹介になっていると思います。おおよそのことは、これで十分ではないかと思います。

展覧会チラシの図像の真ん中の水玉の図柄などは、今、世界的にメジャーになっている草間彌生の作品とも通じるようなところもあるし、色合いのインパクトとかグラデーションの意外性が印象に残る。あるいは、抽象的な作風、カンディンスキーとかモンドリアンとかロスコとかいうような有名な抽象画家の抽象を見ていると、そこに画家の想いとか精神性とか無形の何かが反映しているような印象があって、そういうものが具象的な写生では表わしきれなくて、形の束縛を取り払った試みの果てに抽象にたどり着いたというところがあります。ところが、加納の抽象には、そういう精神的なもの、あるいは意味というものが全く感じられないという感じです。端的に言うと空っぽ。表面的、あるいは表層だけの世界。そういう加納の作品の印象は、というとシンプルに「美」という他は言うことができないものです。

例えば、ギリシャ神話にアドニスという美少年の話があります。ヨーロッパではアドニスといえば美少年の代名詞となっているものですが、両親と死別し、少年のこととて、自力では生きられえない彼を、容姿の美しさ、愛らしさゆえに女神ヴィーナスたちが手厚く手許において庇護します。そして、大人の男として一人前になるために、ヴィーナスにすすめられて狩りに行き、猪の牙にかかって死んでしまうわけです。俗な言葉で“色男、金も力もかなりけり”です。美しいというだけでは、個体として生存していくためには、何の力にもならない。つまり価値がない。後年、芸術という概念が市民社会で生起して、だからこそ美は純粋で、崇高なものだという意味が再定義されていくわけですが。加納の作品には、そんな近代の垢にまみれない、古代のギリシャのアドニスのような無意味な「美」なるものが追求されているように、私には見えます。表面的とか、感覚的とか、刹那的とか、いい意味でも悪い意味でも、です。私は肯定的に受け取っていますが。

「美」ということもそうですが、純粋に抽象化された概念というのは机上で思考を積み上げていくときには便利なものですが、実際の生活の中で生きていくという際には、「美」ということは様々なことと複雑に絡み合ったり、関わったりして在るというのが、一般的です。例えば、動物で私たちから見て美しい姿をしていると感じられているケースは異性を惹きつけ、自らの子孫を残すために必要なもの(と傍らで観察する人間は理屈をつけますが)と考えられるものです。絵画においても、タテマエとして「美」を追求しているかもしれませんが、その裏の目的は画家が生活費を得るためであるとか、それを注文する者の富や権力を誇示する必要があったとか、何らかのメッセージを伝える必要があったりとか。さきほど少し述べましたが、美を崇高とみる考えにしてもそれ自体純粋ではないわけです。そのため、抽象絵画というものを見てみれば、その名の通り抽象化したというのではなくて、海外の在り方は純粋ではないわけで、画家の手段として抽象的に見えるかのような外観を呈するようにして従来の画家と、自分は違うという、マーケティングで言えば差別化を図って売り込みを狙ったとも言えなくもないのです。(私は、それを決して悪いこととは思いません。)しかし、加納の作品を見ていると、その純粋への志向があるように見えるのです。じっくり構想していれば、考えているうちに余計なことが紛れ込んでくる。それを可能な限り排除するためには、一瞬の感覚を大切にして、とっさに美しいと感じたことを瞬間的に定着させることに努める。意味とか考えとかは、その一瞬に対して後付けのものです。インクが融けて流れる一瞬に美があると感じたら、それをそのまま定着させてしまえばいい。それは行き当たりばったりで、よく言えば即興的です。そしてまた、それを美として定着しようとする選択にある意思が働いているかもしれない。追及すればいくらでも反証は可能でしょうが、そこを敢えてやってみる。そこに加納の作品があるように見えます。私が、加納の作品を見ていて、初期の作品は別にして、作家の個性とかそういうものを感じることが、ほとんどない(ちゃんとした人が見れば、そんなことはないのでしょうけれど)のです。そのことが、今ここで述べたことの証ではないか、と私は思っています。

美術展の主催者あいさつとは異なるとは思いますが、このような視点で具体的に作品を見ていきたいと思います。

 

Chapter 強い水─銅版画

Chapter 版の変容─メタル・プリント

Chapter 箱の宇宙─リーヴル・オブジェ

Chapter 波動のさなかで─多色版画

Chapter 色身を求めて─油彩

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