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2013年11月20日 (水)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(10)

4.時の秘密

ハイデガーは「もともと現存在自体が時なのだ」という。ここで「時」とは一瞬の運動生起。先に見た①と②が交差する一瞬刹那のできごとである。だからいわゆる「時─間」ではない。さきに見た動画面。それはまさに一瞬で始まり、と同時に一瞬で終わる。その「生と死との間に伸張する」一瞬刹那の動的生起を、時というわけだ。だから、現存在が生きている<>があるとしたら、それは一瞬だけであり、それで「現存在の全体」は尽きているということになる。そんな現存在のありさまを、だからハイデガーは刻一刻性とも形容する。はかない刹那の刻一刻の<>が、現存在(生)の全貌というわけだ。

上映中の画面。それは①「終わりへの存在」と②「始まりへの存在」との同時同一現象だった。つまり、生と死、消失と現出、非在化と在化との「反対項の一致」現象だった。①はまさに「自らに先立つ」動性。いまこの瞬間の自己から、将に来たらんとする<外部>へ抜け出ていくことである。その意味で将来的な性格を持つ。だが、この①の動性を振りだすそのことが同時に、②の新たな画面を創出する動性へ兌換される。いまこの瞬時の自己を①によって失うのだが、しかし同時にそのことにより、再び「自らへ立ち戻る」わけだ。だから②は、自己(画面)を刻一刻「再び取戻し」既往してくれる動性。<先立つ>①に対しては、<後づく>動性とでも言ったらいいだろうか。①ゆえ、もうこれでお終い、もはや無い筈の生なのに、①ゆえ発源する②のために、いわば生き戻ってしまう。失うことで取り戻す。その意味で②は、「既往性」ともいわれる過去的時制の性格を持つ。この将来的動性(死への存在)と既往的動性(生誕への存在)とが同時進行するその、もはや一瞬の間隙すらない<>に、今ここの現在の時が、刻一刻実っていく。

この三つの時制(将来性・既往性・現在性)が切り結ぶ、まさにはかない一瞬の時を刻んで生きるぼくたちの現存在のありかた。それがいうところの刻時性(時間性)である。あくまで<>を刻一刻に刻んで生きる、ぼくたち人間存在の在り方や態度を、ハイデガーは刻時性と呼ぶのである。時なるものが、人間の生と無関係に先ず出来上がっていて、それを後から刻むということではない。生きるということがそのまま、時を紡ぎ出すことに他ならないということだ。だから、刻時性と時とは、別々の出来事ではない。そんな刻時性においてはじめて、時が刻一刻に実現することを、時の実現という。時はぼくたち現存在が刻んで実らせている、というほどの意味。そんな時の実現の仕方も、時の刻み方(刻時性)も、ひとえに<時を生きる人間の生き方>に相関的である。ぼくたちの在り方に応じ、時の刻まれ方は異なるし、時の実現形態も変わってくる。とは言っても一瞬の時以外にリアルな時はあり得ない。「もともとの生のありさま」そのままに生きること。それをハイデガーは「本来性」と名付けた。時の場合も同様。リアルな時(一瞬刹那)を刻んで生きているもともとのありさま(刻時性)そのままに生きることが、本来的刻時性ということになる。だがそうは言っても、そんな一瞬刹那の<>などしらず時を刻み、時を過ごすあり方も可能だ。時を刻んで生きていることも知らずに時を過ごす刻み方も、刻み方の一つに違いない。それが非本来的刻時性である。

こんな時(生)が、刻一刻に生滅する瞬間の生起である。この生起ということから必然的に、歴史論が導き出される。というより時の具体化が歴史である。歴史は、人間の存在の<全体>を、つまり生誕し死亡するまでの生涯をどう考えたらよいのか、という議論の中にまず登場する。時は刻一刻の刹那だけである。そしてその<>が、一方で「死への動性」、他方で「生誕への動性」を内填し、その両動性の相互包含的な<>として、ぼくたち現存在が生起する。その意味で、一瞬一瞬の刹那的存在それだけですでに、「死と生との間の伸び拡がり」としての生涯概念の内包を満たしている。つまり、一瞬刹那の存在が、「現存在の全体」(随所)である。直線的時間論からすれば儚く見えるどの一瞬もが、全生涯であり、<生誕から死までの全幅>を尽くしていることになる。つまり、現存在は、その外部に誕生や死をもたない。実存それ自体がもとから、初めと終わりとを同時に含んで展出し、自らを繰り出し繰り広げ終滅させていく、「自己完結的な自己伸張運動」なのである。実存の、この自己内発的な刻一刻の生滅性に着目して選ばれた概念が、そもそも「生起」である。

今ここのこの一瞬の生起は、「二度とない、永劫に唯一回きり」である。時は今ここで終わってしまうのだから、そういうしかない。この「唯一一回性」ということが、「歴史的」という形容詞の基本義である。そんな唯一一回的な今ここの生起を、刻一刻、誰しもが過ごしている有り様。それを歴史性という。刻時性と同様に、歴史性もまた、あくまでぼくたち現存在のあり方のことである。一瞬の生起を見過ごすことだって、立派に<過ごし方>には違いない。それが非本来的歴史性である。これに対し、刻一刻の生起のその唯一一回性を自覚し、覚醒的な態度で過ごすあり方が、本来的歴史性である。もう少し補って言えばこうだ。常に過ぎ去りゆく一瞬が、生。その一瞬の生をしかと目撃し、ことさら引き受け、そこへ開けきっていこうとする態度。それが、本来的歴史性ということである。だからとくに宿命とも呼ぶ。もしそうであれば、ハイデガーのいう運命も、通念から大きく離れて考えなければなるまい。運命とはおおむね、《今ここに登場する物や人と、永劫に唯一一回きりの出逢いの時を果たしていることば》ほどの意味。一期一会的な、ささやかだが気づけば清冽きわまりない、ぼくたちのリアルな有り様だ。相手も場所も時も選ばない。すべてのものに、いつどこででも無条件に樹立されてゆく、存在論的共同性つまり「共存性」の実現のことである。

以上のことから、歴史とは、《一度きりの今ここにとかない生起》のことであることは、論を俟たない。「生起」はそもそも一度きり、二度ない現象だが、生起(存在)の唯一一回性を強調した概念が、歴史だと言っていいだろう。だからもっと平たく言えば、この世に生きているどの瞬間もすべて唯一一回きりゆえ、どの瞬間も取り替えようもなく独自で、稀有な驚愕現象だ、と言うほどの意味である。以上から歴史後群はすべて、時(存在)の「唯一比類なき一回性」という根本特徴をベースとする概念群であることがしられよう。そしてどうして歴史の問題が、『存在と時間』の最終部分に置かれたかという理由もすでになんとなく、お分かりのはずだ。『存在と時間』が最終的に<言おうとしたこと>が、この歴史性ということなのだ。死や時の分析は、そのための伏線にすぎぬとすら、ぼくは解釈している。

さて振り返ってみれば、この『存在と時間』は、ある一筋のプロットに貫かれているように思う。それは硬直したぼくたちを軋ませ、揺り動かし、すべてを、流動する運動態へ還元しようとする発想である。何につけ、ぼくたちはすぐ固定した舞台にすがってしまう。確固とした実体あるモノを想定し、その総和や事後関係として出来上がる安定した絵柄の中で、ものを考えてしまう癖がある。時間といえば、川の流れのような直線状の持続的過程を考えてしまう。自己も、歴史も同様。すべてが、じつに静態的で固定した構図のもとで、考えられてしまうのである。その硬化した思考舞台を溶解し、まずは「気づかい」という生の動態性へ還元し、次に刻一刻に変異する時へ、はては唯一一回的な生起(歴史)へと連行して行くこと。しかも、ぼくたち読者自身のかじかんだ実存自体を流動化し、<時を時として刻む>よう仕立て直すことを通じて。それが、『存在と時間』という<>が実現しようとしているトレーニング。そういっていいだろう。なかでも、なにより根深い固定観念がある。それが従来の存在観。それは存在を、「目前に在ること」と見てしまう存在観である。「目前に在ること」とは、内的な生動性を欠落させた、まるで延べ板のようにダラーッと現前し存続しているとする存在観。ふつう存在といえば、そんな<恒常的現前性>を考えるのがつねだ。この思考習慣こそ、『存在と時間』の最大の標的である。その存在イメージの前提には、ある特定の時間観念が固着している。時を、川の流れのような直線時間とみる、あの根深い偏見がそれだ。つまり、存在の理解の仕方が、時の見方に規定されている。時をどう刻むかというその時の刻み方(刻時性)が、存在をどう理解するかの前提アプリケーションになっているということである。(そのことに注目して、刻時性をテンポラリテートともいう)だから、存在の味を問うことを最終課題とする『存在と時間』は、ぼくたち人間存在の刻時性という基本構造を、ひいては唯一一回性なる歴史を開明しようとしたのである。とすれば、ハイデガーが言いたいことの要点は、<時を時として生きる姿勢>を、つまりは本来的時刻性を、ひいては本来的歴史性を、取り戻そうということに、尽きる。

「ほんとうに生きているひとには、いつも時がある」

 

このあと、第4章、第5章はハイデガーの政治との関わりやハイデガーから離れて行って著者がハイデガーを出しにして自身の考えを展開しているようなので、深追いを避けることにします。

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