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2013年11月27日 (水)

横山大観展─良き師、良き友(6)~第三章 円熟期に至る

Yokoyamanonohana_2核心部の展示が済んだところで、オマケです。その後の横山の作品ということでしょう。それと、関連作品と資料ということで、彼のコレクションした陶器や手紙の類、それと現代画家の山口晃の描いた横山大観その他が展示されていました。関連資料は明らかに蛇足、もって言えば邪魔でした。うるさいだけでした。

さて、“大正の時代の空気とともに、絵画の思想性を訴えようとする明治期に見られた頑なな使命感から放たれたかのように、大観の制作は、個性的な画家たちとの交流を背景に、充実した展開を見せたが、それは昭和期にかけていよいよ円熟味をましていった。”と説明されています。まあ、後拾遺集という感じでした。全体として、印象に残る作品が少ない美術展でありましたか、このコーナーでは強いて取り上げたいと思う作品がありませんでした。竹内栖鳳のときもそうでしたが、老境に入り円熟したという作品では、私の見る限り日本画の画家は作品に力がなくなり、緊張感が失われ弛緩した作品になってしまう印象を受けます。例えば「野の花」という作品と「千ノ與四郎」を比べてみれば、植物を描く執拗さが薄れている感は否めません。老境に達しても描かれる人物に生気がないことは相変わらずで、しかも植物の繁茂しようとする生き生きとしたところも失われてしまっては、画面に迫力がなくなって、大画面でも退屈を感じました。あまり、悪口を長々と綴ってもしょうがないので、このへんでやめにします。

Yokoyamahigasiyamaこの展覧会でまとまって作品を観たかぎりでの横山大観の作品のイメージは、近代日本画の大家とか岡倉天心などと共に近代日本画を成立させたとかいう大層なイメージではなくて、手先が器用で目端しがきくという長所から、商業的成功に結びつくような通俗性(大衆性)を上手にオブラートに包みながら、適当に手抜きして作品を量産できる手際も持っていたという、今で言えば人気イラストレーターというようなイメージです。だからこそ、様式性とかパターン化というのは横山の作品の重要な要素であって、題材として多く取り上げた富士山というのは様式化しやすいものであったからこそ、横山も数多く描くことができたのではないか、と思えるのです。これは、べつに横山を悪く言っているのではなく、それは彼の作品がこれほどまでに親しまれている魅力のひとつではないか、ということです。しかし、私が、今後、横山大観の展覧会があったときに進んで観に行くか、と問われれば、今回で十分ということになるのではないか、と思います。

ただ、前回にも触れましたが、横山とアンリ・ルソーのような人との近似性は考えてもよいのではないかと思います。

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