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2013年11月30日 (土)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(2)

2「意味」の解明を試みる

皆さんは、誰か偉い哲学者に、「あなたの存在の意味はこういうことですよ」と教えてもらいたいと思うでしょうか。皆さんの経験で分かるように、そんな押しつけの定義や教訓は役に立たない。むしろ、そんなことを言うその人自身が、自分の存在の意味をどう考えているか、それを語ってくれる方がよほど役に立ちます。「存在の意味」は、その本来のところでは、私たち一人一人の問題です。自分で考えるべき問題なのです。哲学が、この自分の問題でしかない事柄と何の関係があるのでしょうか。

哲学的な考察は、非常に錯綜した対象をいくつもの段階に分解して、その一つ一つを出来るだけ厳密に見ることで、一体何が本当に問題になっているのかを明らかにしようとします。「存在の意味」についても同じです。「存在の意味は自分の問題だ」と言う前に、「自分」がいる。自分の存在がある。そして、意味ということがある。では、「自分」「存在」「意味」という、この三つは、どのような関わり方をするのだろうか。この問題を考えるために、哲学としての存在論があります。そう説明すると、「存在の意味」という切実な現実の問題が、抽象的な理屈にすり替えられてしまうように思われるかもしれません。でも、皆さんがある具体的な生き方について迷っているとき、それが本当に「自分の存在の意味」であるかどうかを確かめるのに、どのような手続きをとればいいのでしょうか。この非常に真剣な選択をするために、まず、「存在とは何か」「自分とは何か」「意味とは何か」を知る必要があります。つまり、哲学的に抽象的に考えてみることが必要になります。

意味とは、ある種の体験であると言うことができます。意味が分かるというのは、「ああ、そうであったのか」という納得の体験であり、この体験を基に生きていけると言うことです。言葉の意味についても、同じことが言えます。ある言葉の意味が分かるということは、それを使ってコミュニケーションできることです。広く捉えれば、その言葉で生活できるということです。従って、言葉の意味は、最初から固定して考えることはできません。コミュニケーションの状況によって、同じ言葉が異なった意味で使われることがあります。つまり、言葉の意味が分かるとは、それを生活の中で体験することだと言えます。意味の体験が深まり拡がるにつれて、私たちの意味についての理解が深まり拡がります。言葉の意味の問題について考えることは、このように、意味の実践について考えることです。

では、「ある」という言葉の意味は、どう理解されているでしょうか。体験されているでしょうか。「ある」とは、物があるないの「ある」ですが、同時、「この車の色は青である」というように主語と述語を結ぶ言葉としても使われます。また、「そうである」というように、あることの正しさを表現する言葉でもあります。このように、「ある」は、様々な意味で使われます。他の動詞が限られた領域の主語と結びつくのに対し、「ある」はすべての主語と結びつくことができます。したがって「ある」という言葉は、意味が固定できないほど、多様な使われ方をします。従って、「ある」という言葉についての体験は、とても概観できないくらい多様であり、ほとんど無限であるように思われます。「ある」ということばの統一的な意味を確認することは、ほとんど不可能のようです。

 

ところで、私たちは、日頃何の苦労もなく、「ある」という言葉を使いこなしています。「ある」の様々な意味合いが、どのように関連しているか明確にならなくても、「ある」という言葉を使うことができます。ハイデガーは、この点に注目するのです。「火事だ」と叫ぶとき、「ある」の意味をそれなりに分っています、では、その「ある」で何を考えているのか、はっきりと答えることはできない。それは、事実確認とにはとどまらず、同時に大変だということの表現であり、「逃げろ」や「助けてくれ」ということの表現でもある。これは「不思議な状況」です。

実は、漠とした「存在」についての理解こそが、存在論を始めるための根本的な基礎です。この漠とした理解には、存在についてのより根本的な理解が眠っているはずである、この根本的な理解が眠っているはずである、この根本的な理解が目覚めるようにしてみようではないか、というわけです。「理解」という問題は、ハイデガーの存在論にとって、とても重要です。単に、私たちが「ある」という言葉を漠然と理解できているというだけではなく、「ある」ということばの理解のあり方からして、「存在の意味」を考えようとするからです。ハイデガーの存在論は、そのまま「理解」についての理論だと言っても言い過ぎではないくらいの中心的な課題です。

私たちは、自分の存在がどのような構造をしているか理解したいと思っている。自分の生きて存在している姿を分っておきたいのです。ですから、存在論が必要になります。存在をよりよく理解したい。自分の存在をどう理解するかは、自分がどう存在していくかと深く関わっているからです。自分のあり方をどう理解してくるかは、自分の生き方そのものを決定してきます。従って、存在することと理解することとは同じことだと言っていいくらい、表裏一体の出来事です。

 

私たちは、「存在」について考え始めようとして、日常的な場面で、私たちは、もう「存在」の理解を前提として語っていることが分かります。つまり、これから考えようということについて、私たちはすでに最初から分かっているらしい。これは循環論法であり、ハイデガーが「円環の道」と呼ぶ議論のあり方です。循環論法は、結論先取り的です。つまり、証明すべきことを最初から前提としている議論です。こうした堂々巡りの循環論法は不毛な議論の典型とされますが、ハイデガーは、反対に、「強み」だといいます。私たちが原理的で本質的な事柄を考えるときは、思考は、必ず、樹幹論法的な構造をしていると言います。大事なのは、この円環を抜け出すことではない。この無駄と思える運動の中に敢えて飛び込んでいき、「この道にとどまり続けること」である。それこそ、「思考の祝祭」だ、と言うのです。実際、ハイデガーの様々な考察は、一見、何の結果ももたらさないような堂々巡りの思考運動の印象があります。その堂々巡りの中で、何かが見えてくるのを待つ、「存在」そのものの姿が表われて来るのをじっと待つような印象があります。こうしたハイデガーの手続きは、私たちの生きる仕方に似ています。人生の難問にぶつかってひたすら問いを発することしかできない時があります。そのような時に、私たちは、機が熟すのを待つようにしかできません。いわば、答えの方が私たちに姿を見せてくれるまで、問の円環の中で待ち続けるわけですが、ちょうどそのように、ハイデガーは、問うことの円環の中にとどまり続けます。

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