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2013年11月29日 (金)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(1)

はじめに

こんなことでは自分がやっていけない、自分の存在がやりない、ひと生きていて、そう思うことが少なからずあります。その状況に押しつぶされそうになっているのだけれど、今さらどうにもできない。問題の具体的な解決や状況の変化を考える前に、自分の「存在」が行き詰ってしまった、自分の「存在」が壊れてしまうという気がしてきます。そんなとき、通常は専門家に相談して、知恵を借りることができます。ですから、「存在すること」についての専門家がいていいはずです。存在しているということは、自分にとって一番大切な事柄です。このことについてトータルなかたちで教えてくれる理論があっていいはずです。生きて存在していることの一般的な構造について教えてくれ、自分の存在に対する分析的で客観的な取り組み方を教えてくれる理論です。そうした理論を助けにすれば、自分の存在を取り戻すことができるかもしれません。

ハイデガーは、存在の哲学者でした。私たちが生きて存在しているという事実に哲学者として取り組み、存在の様々な側面を綿密に分析し、そして、存在することの普遍的な構造を取り出そうとしています。そうした試みを、「基礎存在論」あるいは「現存在分析」という名前で呼んでいます。彼の存在論の出発点は、「現存在分析」です。つまり、私たちが「自分が存在している」という端的な事実についてより深く考え、それを通して、「存在すること」の意味について新しい洞察を獲得することです。「自分が存在している」のは、明白な事実です。この明白で疑いようのない事実の中で、私たちは、「自分」という謎に出会わなければならないのです。それが存在論の出発点です。

 

.存在にどう取り組むか─方法の問題

1「存在そのもの」について考える

存在論を考える場合、ハイデガーの言葉にあるように、重要な事柄があります。存在論は、「存在そのもの」について考える思考だということです。「存在そのもの」について考えろと言われて、当然ですが、どうすればよいのだろうかという疑問が生じます。「存在そのもの」が目前にあるわけではありません。「存在そのもの」などというものは、哲学者の考え出した化け物のように思われます。けれども、実は、「存在そのもの」はあらゆることに関係しています。すべての人や物が存在しており、この世に「存在」と関わっていないものなどないからです。存在論が最初に遭遇する困難は、「存在」ということがあまりに抽象的でありながら、同時にあまりに具体的であるということです。「存在」は、一番身近でありながら、一番分かりにくい事柄と言えます。

「存在とは何か」─この問いが切実な問題となる二つの場面が考えられます。哲学と人性論です。「存在そのもの」は長く哲学研究の対象でした。実体、つまり、真に存在するものは何か。などの問題が様々な形で考えられ、様々な可能性が議論されました。哲学とは別にもうひとつ、「存在そのもの」が、非常に具体的で切実な問題となる場面があります。それは、自分自身の存在や、自分にとってかけがえのない存在が失われようとするときです。そのような時は、ハイデガーが言うように、どう存在しているか、どの存在か等の問題は意味を持ちません。端的に「存在そのもの」が問題となるのです。端的に「いるかいないか」が大事なのです。哲学では、私たちが遭遇するギリギリの状況を「限界状況」と呼びますが、そうした状況にあってこそ、存在論、つまり「存在とは何か」という問いは真の意味を持つように思われます。

このように存在論については、哲学理論と人性論という二つの側面があります。哲学理論は抽象的で、論理的手続きや概念分析を土台とします。それに対し、人生論は具体的で、どう生きていくかの問題、つまり行動や決断と深く関わっています。存在論とはそのどちらでもある、つり、哲学と人性論という二つの側面を必然的なかたちで結びつけたところに、存在論の意味があるのです。私たちがギリギリの状況に立たされたときに、高度に抽象的な思想が生きてくる、そのようなかたちで存在論は考えられなくてはなりません。それをよく示しているのが、ハイデガーの存在論であり、彼の主著『存在と時間』です。

ハイデガーにとっても、哲学と人性論を結ぶ存在論の糸がはじめからあったわけではありません。そのハイデガーが出した結論が存在論でした。哲学か、それとも、世界観や人生論か、といった表面的な区別で考えるのではなく、学問としての哲学は、「個人的であろうが非個人的であろうが、根源的に突き動かされた存在」から出てくる働きでなくてはならないという強い確信がありました。抽象的な理論であっても、生きている現実の根本と重なり合うはずだという確信です。ですから、「存在とは何か」という問いは、哲学的な問意でありながら、同時に、自分自身を見つめる探求でなくてはならないのです。

 

では、ハイデガーの考える哲学とは、どのようなものでしょうか。それは、「現に存在しているなかで自分自身に出会う」という表現に示されています。哲学の理論考察とは、そのための手続きなのです。しかも、この自分自身との出会いは目覚めることを意味します。自分を変えることでも、別の自分になることでもない。その目覚めとは、眠りから目を覚ますことです。眠り、つまり、半ば不在であると同時に半ば現実にいるもの、それだけが目を覚ますことができます。逆に言うと、目を覚ますためには、自分が眠っている状態、つまり曖昧な宙吊りの状態にあることを知らなくてはなりません。哲学は、つまり、目覚めは、ここから始まります。

このような宙吊りの状態から考え始めることで、隠れているものが見えてくるようになる、見えていることは隠れていることであるのを知る。このように、哲学は宙吊り状態の持つ力を思考の力とします。宙吊りを発見することで、そこに働いている様々な力を感じ取るようになるのです。

実はハイデガーが立てる「存在そのもの」という問題も、哲学史において目覚めなければなりませんでした。この問題は「存在忘却」というかたちで、忘れ去られた問いとして古代ギリシャから現代にいたる長い時間を眠っていたのです。つまり、ハイデガーがこれから考えていこうとする存在の問題は、すでにプラトンが立てていた問題でした。しかし、2500年にわたる長い哲学の歴史の中で、この問題は眠り込んでしまったのです。「プラトンの問いを反復すること」。反復というのは、「存在の問い」ら即して哲学史全体をみなおしてみるということです。古代によって現代を照らし、古代によって現代の目を覚ます作業とでも言いましょうか、問題が最初に立ち現われたところから、つまり「根源」に引き戻すことで、現代における問題の真のありかたを獲得しようというのです。だから、「存在の問い」を反復するためには、まず、今の哲学のあり方を「破砕」することが必要になります。「破砕」は、今まで当たり前とされてきたことを破壊するだけでなく、「根源」を見えるようにする、とハイデガーは言います。「破砕」によって「存在についての原初的な定義」が見えてくるはずだ、と。とことん突き詰めて考えている時、決定的なアイディアがひらめくことがあります。そうしたアイディアは、それを思いつけば解答がわかるというのではなく、「こう考えてみたらどうだろうか」という示唆のようなものです。「根源」は、ハイデガーにとってそのようなアイディアだったのではないかと思います。根源とは、あることの由来となる源であり、あることを支える基盤でもあります。従って、根源は、時間的な意味でも存在的な意味でも考えられます。哲学は、古代ギリシャという存在論の時間的な根源に立ち返ることで現代の問題を発見し、人生論は、私たちの存在を支える「根源的な経験」という存在的な根源に立ち返ることで、今の自分の状況を見つめ直します。「根源」を見据えるという点では、哲学と人生論とは見事に重なっているのです。

 

哲学史の中で「存在の問い」が目覚めてくる。このことは、存在論にとって、決定的な手がかりとなります。つまり、「眠っている─目覚める」という一連の流れを追跡することで、私たちのありようと世界のありようを追求する道が開かれるのです。

そこで、存在論の第一歩として、私たちのありようを眠っている状態として捉える作業が必要になります。何かが目覚める瞬間を捉えることで、私たちの存在が「不在でありながら現にいる」というかたちで与えられていることをはっきりさせる作業です。

ハイデガーは、「存在の問い」のことを「存在の意味についての問い」とも呼びます。「存在の意味」は、二重のことを指しています。ひとつは、「ある」という言葉の意味です。「ある」ということは一体何を意味しているのか、それをはっきりさせようとするのが哲学としての存在論です。他方で存在の意味とは、現実に私たちが生きる意味でもあります。他方で、存在の意味とは、現実に私たちが生きる意味でもあります。ここで意味というのは、生きていくことが生み出す成果や結果のことだと言えます。「存在の意味」を解明することが、存在論の究極目標なのです。ただ、ここで疑問があります。存在論の究極目標といっても、どちらの意味の解明なのでしょうか。言葉の意味でしょうか、それとも私たちの生きる意味の方でしょうか。しかし、ハイデガーはこの両方の意味を区別せずに、「存在の意味」とだけ言います。言葉の意味と生きていく意味が同じものになる。

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コメント

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を読んだときのことを思い出しました。

OKACHANさん、コメントありがとうございました。そうですか、今度、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を探してみましょう。

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