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2013年11月10日 (日)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(1)

プロローグ─この世と出会い直すために

どれだけの時間、ぼくたちは今日、この世の光景を見つめたろう。この宇宙が生起する現場に、どれだけリアルに立ち会ったか。とても少ない。そういわなければならない。この世の存在に目を閉ざすこと。死んでいるのではなく、この世に今こうして生きている自分の存在に、思いを馳せないこと。存在の事実など忘れ、それと触れ合わないこと。そんな暗黙の禁制システムが、今日も自動的に作動し、ぼくたちの一日を造り上げているように思われてならない。その理由は、近代(モデルネ)という禁制システムと、深く関わるはずである。

それにしても、なぜか。なぜあえて、存在を味わおうとするのか。いきなり言ってしまうが、途方もなく旨いからだ。至高の味がする。極度にあり得ないことが、なのにあり得ていること(稀有)。この世ならぬものが、にもかかわらずこの世に実現していること(奇蹟)。それを、「神秘的」と形容することは許されよう。ならば、存在は神秘の味がする。

こうして生きて在ることの、どうしようもない不安や哀しみにかられたことは、どなたにもあるだろう。在ることの無意味さ、はかなさ、よりどころのなさを、呪った記憶さえおありかもしれない。途方にくれ、最後に出てくる科白は決まっている。「この世は無意味。存在は無。生は虚しい。生きていてもツマラナイ」だが、生きて在ることのそんな否定的な味(無根拠・無目的・無常)自体が、実はそのまま、こうして生まれ、いま生きて在り、いずれ消え去る僕たちの存在の事実を、最大限に肯定する理由でもあるとしたら、どうだろう。存在の否定性(無根拠・無目的・無常性)とは、存在の途方もない肯定性(充溢・輝き・祝祭性)の別名だとしたら、どうだろう。もしそうだとしたら、人生なんて無意味と言い切ってクサっていること自体、もっと先にある悦びへ至る道を、塞いでいることにならないか。

「どんな暗雲も、銀の裏地を持っている(Every cloud has a silver lining)」

さしあたり暗い存在の否定的な表面とは、存在の途方もなく明るい肯定性(存在神秘)の裏面なのだ。だから、存在不安に襲われる体験とは、気づけば、存在神秘に襲われる体験の徴候にほかならない。

《存在は虚無だからこそ神秘》

そんなこの本を書くにあたり、何より導きの糸になったのは、ハイデガーである。ハイデガーに言及することを縦糸や推進力にして、この本は編まれている。だが、それにしてもなぜことさら、ハイデガーなのか。理由は実に簡単。こんな存在の味(意味)について、まともに考え、ちゃんと応接してくれる哲学者は、彼一人しかいないからだ。僕もあなたも死ぬ。その死の時、こうして生まれ、この世に存在し、そして死ぬことの意味を得心して死にたいと思う。哲学。それはまさに、そんな得心のための思考の営みのはずである。とりわけ存在論とはそんな、人間のみならず万物が<在る>ことへの、誰もが思い抱く疑念をはらす営みだったはずである。「在ることへの問いかけ」。それが哲学であり、とりわけ存在論であったはずである。

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