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2013年11月14日 (木)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(4)

3.門を抜けて

若きハイデガーの覚醒。この世が在るということ。生が事実このよう実現しているということ。その変哲もない存在の事実や生の事実の凄さに、まるで雷のように撃たれる。ハイデガーがはじめて、<存在を存在した>時である。「生それ自体のもとに滞留すること」とか、「生それ自体へ至ること」とか、「時を時として生きる」といった言い方で、講義録に散見されるそれが、以後、ハイデガーの原風景となる。それはある意味で、すべで解決し、充たされた時の出現だった。だが、充たされた時だからこそなのか。ふっと幻影のように、何か神のようなものが、かたわらを静かに通り過ぎる衣擦れの感触を覚える。後に言う最後の神さえ幻視するこの体験。それが、真面目な神学生が、最後に行き着いた場所である。その場合、そこへ至る順序がとても大切だ。

しかし、最後の神は最終解答でない。最終解答(存在神秘)か出た後の事後効果。あいは最終解答が放つ輝き。存在が神と見まごうほど神々しい、ということである。存在神秘の体験が、はじめて最後になって、神なんてものも<存在>させるに至るということである。こんな凄い存在を可能にした何かとして、神なるものを想定しても不自然ではないほどの感興に包まれるという意味である。

だから、順序が大切なのだ。(1)神の死⇒(2)存在不安・存在否定⇒(3)擬死の極致⇒(4)存在神秘・存在肯定⇒(5)最後の神

だから問題は、「神の存在」ではない。生き死にするような従来の神とは別の神、つまり「存在《の》神」である。存在が起点になり、存在が織り上げる(存在がその実質をなす)、存在のための神(存在神秘を静かに追想できるような神)、ということである。つまり、存在の後光や光背のようなものだ。ハイデガーは存在に、更に加えてその彼方に神を認識したのではない。それでは彼岸の神に逆戻り。ハイデガーにとって、ニーチェの「神の死」は決定的な問題だ。そこで死ぬ神とは、「最初に置かれた神」や「超越的な究極原理」のことである。その<神の死>を真剣に引き受けて、さまよい、惑い、苦しみ、死ぬほどの破局のはてに、まるで思いもしなかった「別の神」を体験する。それは、最後に神さえ想うほど、深く真正面から、存在の真理(存在神秘)に撃たれたことへの別表現。そしてそれだけのこと。まずは世界の存在への驚きの経験がある。世界が在るなんてことが<在る>ことを奇跡と感じるほどの、それは不可思議さに撃たれる体験。この存在神秘の体験が、そのあまりにもの<説明できなさ>ゆえに、説明の方便を求めて、「神創造のおとぎ話」を生み出したほどだった。世界の存在に驚くそのとき、「私は安らかである。何が起ころうと私を傷つけることはできない」と言えるほどの、深い覚醒の時を生きるだけのことである。

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