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2013年11月19日 (火)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(9)

3.舞台はめぐる

ハイデガーはこう言っている。「ぼくが、ぼくの現存在(生)の<最期>にそうであるだろう存在。それは、実はぼくがどの瞬間にもそうでありうる存在なのだ」。この「最期」とは生の末端の死去の時。そのとき、ぼくたちが死に切迫され、まさに死に至る瞬間にあること。このことを、誰も否定しないだろう。ここで、ハイデガーの死の思想の独特なところは、そんな最期のありさま(「死への存在」)が、実はどの瞬間にも当てはまる様式だと見ぬくところにある。刻一刻、毎瞬が死に切迫され、死へ至る存在構造をしている。それが「もともとの生のありさま」(本来性)。そうハイデガーは言うのである。だから有名な「死への存在」とは、ぼくたちのいわば日常性というわけだ。

映画のフィルムで考えてみよう。フィルムは末端が、終わり(死)に至る1コマである。その最期の1コマをスクリーン上に映写すれば、最期となる。最期の1コマは終わり(死)に臨む動性(臨終性)を持っている。それは、次の画面に移行しようとする動性であり、別段最期の画面だけに固有の動性ではない。動画である限り、どの画面も満たさなければならない前提構造だ。最期の画面の場合、たまたま次の画面に連接して行かないだけ。それ以前の画面の場合、消失するこの動性ゆえ、再び画面が戻ってくれる。つまり、終わり(死)に臨む動性は、どの画面にもあり、それが同時に新たな画面を生み出す動性となっているということだ。

動画である上映中の画面は、映し出された端から消失し①、消失しながら同時に現出しているはずだ②。現出しながら消えているというべきか、消えながら現出しているというべきか。死が生で、その生が死となり、その死において生が始まる…。そんな生(初発)と死(終滅)との奇妙なパラドックス構造、あるいは同時進行。だからもはや、終わりと初め、死と生といった思い慣れた二分法では割り切れない、両項の奇妙な回互運動の中で刻一刻、画面が生起していることが、お分かりだろう。言うまでもなく、この動画現象を生現象になぞらえることは、許されよう。線損の各瞬間もまた、スクリーン上の一瞬の映像同様のなりたちをしているはずだ。今あなたの今この瞬間の生。毎瞬毎瞬が終わっていく動性①と、毎瞬毎瞬が始まってくる動性②.その普通なら互いに矛盾し合う二項の同時進行現象として生起することを、うっすら感じ取ることができるのではないか。一方で終えていく動性。他方で始まっていく動性。この二つの動性が相より、凌ぎ合う、張りつめた一点に、刻一刻の生の瞬間が成立しているはずだ。

つまり、ハイデガーが言っているのは、「死は生の現象である」ということに尽きる。「死は、現存在が存在するやいなや引き受けている生の在り方なのである」。生きていることは、いつも同時に、死に臨んでいること(臨終していること)。生は死と、まさに背中合わせということである。しかしいつも臨終状態であるためには、いつも「臨終」していなければならない。つまりどの瞬間も、同時に「生誕への存在」でもあるということだ。こここそ、ハイデガー哲学の要所なのだ。

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