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2013年11月13日 (水)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(3)

2.この世の旅人─なぜハイデガーは宗教から離れたか

「この世に馴染めなかった人」ハイデガーのことを思うと、まずはこんなセリフが出てきてしまう。ハイデガーがまず取り掛かった本格的な仕事は、「生の事実性」の考察である。生の事実性とは文字通り。ぼくたちがこの世を生きているという、実に簡素な事実のことである。ごく日常の変哲もないこの世の光景、そして人の世の営み。それをまるで宇宙人がはじめて眺めるかのように見つめることで、ハイデガーはその哲学生活をスタートした。実に異様だと言わなければならない。

その言葉づかいも変わっていた。当人はただ、なるたけ手垢のついていない言葉で、読者や受講者自身の施策を喚起しようとしただけだが、採択された単語を見ても、その文章のながれを見ても、分かるようでよく分らない。「形式的指標」法で語ったことが、大きな原因ではあったろう。形式的指標法とは、読者に事柄を伝えたり説明する書き方ではなく、読み手がわの思考改変を迫り、読者自身がじかに事柄に接触するよう仕向ける喚起叙法である。事柄を直接叙述しない。何を思考し、どのように考えなければならないかは指し示す。が、後は自分で考えろ、答えは自分で出せ式の叙述スタイルである。当然、読み手側の思考負担が大きいだけに、にわかに分かりづらい。

どうしてそんな人になったのか。ハイデガーだって最初からエイリアンではなかったはずだ。はじめに、世界への素朴な信頼があった。南ドイツの質素な生活。だが、世界は満ち足りていた。将来の神父職を夢見る俊英だった。だが、世界とののどかな信頼と調和の関係は脆くも崩れ去る。病気と戦争が引き金になる。まず、1909年、最初の心臓発作。死が濃厚に影を落とす。よくあることだが、若干二十歳で将来の夢を断たれた。死の床を突きつけられ、生老病死の不安問題が以後まさに肉体に刺さった<>となる。謹厳実直な神学徒であり続けたが、そのまなざしはいつも「彼岸的な生の価値」に向けられていた。肉体はこの世に在りながら、魂はどこか背後の向こうの世界に渡ってでもいるかのようなのだ。身はこの世に在りながら、思いは遥か彼方の永遠の生ばかりに向けられている。ひたすら月を目指す宇宙飛行士のようなもの。だがその後のことである。1911年と1914年。そして翌年。続けざまに心臓発作に襲われる。悪阻今度は、死すれすれの生生きているよう心地だったろう。そして、それに追い打ちをかけたのが第一次世界大成である。西洋の自主性と理知性の威厳は失墜。全世界に、「西洋の没落」を印象付けるにたる事件だった。当然であるが、青年ハイデガーも、そんな時代の混迷と不安の渦の中に、投げ込まれる。存在不安や、ニヒリズムの想いが襲来。素晴らしき世界。そう思われていたキリスト教信仰体系という名の月世界。それは良く見れば、クレーターだらけの不毛な土地。「生きた精神」が凍結する、まさに死の世界にすぎぬと痛感する。神学的眠りは破られた。彼岸に向けられた視線は、しっかりと、残骸だらけのこの生の大地に向けられる。むろん、不安と戦乱の渦巻く、この現世の大地にである。だが、その極限の不安と、ほとんど同時ではなかったかと思う。故郷メスキルヒ郊外の修道院にて本格的な深い瞑想生活。死を極限まで思う瞑想生活の中で、ハイデガーは、最終最期のある何かをしっかり掴む。度重なる発病。そのほとんど生を揮発されたような神学徒生活の中で、しかも戦争で残虐の野原と化した焦土の中で、むしろだからこそかえって、それまで見失われ、忘却されていたものが炙り出されてきた。それが「生の事実性」である。「この生が存在するということ」。生の事実性。だから死んでいるのではなく、あくまで現にこの世に生きて在ることそのこと。そんな生や世界の存在に、はじめてありありと出くわす。そしてあらためて驚く。「驚異中の驚異、つまり存在者が《在ることそのこと》を経験する」。何事も、失って初めてありありと分かるものだ。死が失うものは生、そしてこの世の存在。戦争が奪うのもまた同じ。そんな死や戦争を媒介にしてはじめて、生が生として実感され、この世存在の地肌に触れることもできるという道理である。存在忘却の根本体験と後に言われるそれ。

ぼくはこの頃あたりに、彼の至高体験(存在神秘体験)が起こり、現実世界(生の事実性)へ帰還したと解釈している。現実世界への帰還とは、来世や永遠の生といった伝統的な神学システムの「神学素」をきれいさっぱり捨てたということだ。その上で、此岸に確認した神聖空間や至高性を語り得るとしたら、それはどのようにしてか。これがハイデガーの次の課題となる。そこで、神学に替わって登場したのが哲学である。別の至高を目撃するぼくたち人間のあり方。<存在を存在する>という仕方で存在理解の能作をフルに起動させるあり方。つまり「生が生自身を持つこと」、あるいは「現存在(生)が自己自身に対して目覚めていること」。それをこの時期、精神的な生とか実存と名付けている。

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