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2013年11月 1日 (金)

田島正樹「スピノザという暗号」(21)

・定理13 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。

我々が身体を刺戟されるのを感じることができるのはいかにしてか?またいかなる意味でか?それは、身体の刺激、すなわち変状が、観念を表現する、すなわち意味をもつということであり、それが精神という身体の自己知によって与えられたものの中に含まれるものということである。しかるに、「変状が意味を持つ」ということと、それが精神の部分であるということの関係が問題である。身体の変状が意味を持つのは、それが「精神の中にある」からである。身体の変状が意味を持つ(観念を表現する)から、それが精神の中に含まれるのではない。しかも、変状の意味が精神の部分であることは、精神の単一の全体と言う観念が、身体の十全な自己知として与えられることを前提にしているとすれば、精神の単一性が、身体のコナトスのなかの自己を前提としていることになる。

ここで定理9の系に光を当てることができる。(延長において)個物の中に起こることの観念は、個物の観念の中にあるとされる。ここで「個物の観念」と言われているものは、たんに個物の外からそれを観察して得られる表象ではない。個物自身が示す意味でなければならない。この証明では暗黙の前提とされていた個物の本性は、個物のコナトスの中に統合されている。なぜならコナトスは、自己の存在のみならず本性を維持しなければならないからである。それが個物をその個物たらしめ、個物を個物として維持するからこそ、その個物の変状を個物の変状たらしめるのであり、個物の変状を当の個物にとっての意味たらしめるのである。スピノザにおいて、一般に神の思惟として存在する観念と、我々精神にとっての認識とを媒介する要の位置にあるものこそ、コナトスに他ならない。なぜなら、それは個物の現実的本質として、神にとって存在すると同時に、我々人間にとって、直接知られたものだからである。それは、自己原因という神の本質を、有限な我々なりのやり方で模倣したものと言ってよいだろう。自己を維持する関心にとって、快と苦が最初に重要性を持つのは当然だろう。身体のいかなる変状も、さしあたりそれが快と苦とのいかなる関連を持つかに応じて、意味を持つだろう。欲求は、快への欲求、苦から逃れる欲求として意味を持ち、それぞれの行動力が、この欲求の実現との関係で次第に分節化され、洗練され、習得されるだろう。そして、行動能力と相関的に、知覚能力が空間的意味を獲得していくだろう。すなわち、快への「接近」とか、苦からの「退避」の知覚として、同時に、対象は、快苦の「原因」として、「性質」を付与されることになるだろう。「おいしいもの」「おそろしいもの」などとして。これら諸性質は、われわれの身体的関心の言わば投影であるから、これらの知覚は「対象の本性より、身体の本性をより多く示すもの」と言える。いまや定理12の真意が理解される。

・定理12 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいは、そのものについて、精神の中に必然的に観念があるであろう。言い換えれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるなら、それによって知覚されないような<あるいは、それについてある観念が精神の中にないような>いかなることも、起こりえないであろう。

ここで「人間精神を構成する観念の対象」とは、思考される内容のことではなく、観念を表現する対象のこと、すなわち身体の中で意味を表現するシニフィアンのことである。これらシニフィアンは、統合されて一つテクストを、われわれの身体を舞台に編んでいる、と言えるだろう。しかし、身体の全ての部分がこのテクストに関与しているわけではない。「その中に起こる全てのことが、人間精神によって知覚されねばならない」とは、精神が精神として成立するさいに、これら全てのシニフィアンが考慮されねばならないということである。このようなシニフィアンは、我々の思惟(観念)を表現する身体変状の全体のことであるから、具体的にはわれわれの神経組織を舞台に繰り広げられる。興奮パタンのことを考えることができる。しかし、何らかの意味を帯びたシニフィアンとしての役割を果たす限り、我々の普通の行動や身振りなども、排除する理由はないだろう。そればかりか、身体を取り巻く環境の中にも、我々の行動の一部として、意味表現の部分でもあるものもあろう。例えば、編み物をする人にとっての編み棒とか、このような全てがシニフィアンとして織りなす意味が、我々の精神を構成すると言ってもいいだろう。従って、そこに織り込まれている環境世界の一部も、我々の身体やその行動を通じて、精神の中に浸透しているのである。

かくて、定理13の系「人間精神は、我々がそれを感ずるとおりに存在する」ということの意味も明らかになる。我々の身体とは、客観的にその同一性の規準が与えられているようなものではなく、我々の活動の能動性に応じて与えられるものである。我々は、自らの思惟の総体として精神を持つが、それは身体の変状の総体によって表現されるものであった。我々が自らの身体を知るのは、このようなシニフィアンとしての身体の変状の総体としてなのである。我々自身の身体の同一性を与えるのは、我々自身の能動性・活動性それ自身であり、それを自ら感じるままに、我々は存在するのである。従って我々が完全に受動的な場合、我々は存在しないと言ってもいい。完全に受動的であれば、何も感じることはあり得ないからである。

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