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2013年11月16日 (土)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(6)

3.深きねむりから深きめざめへ

以上のことからすでに、ハイデガー哲学の基本的な意図や戦略も、透かし彫りになって来たように想う。平べったく言えば、要するに、ハイデガー哲学は精神革命を目指すということである。まずは、伝統的な西洋哲学の言葉づかいのラジカルな破壊ということがある。西洋形而上学のいわゆる脱構築。つまり、伝来の概念装置を揺さぶり、ズラし、脱臼させて、内部から解体する作業。その具体的戦略が、形式的指標法だった。その際勿論、伝統的なものの見方・考え方の破壊が目的ではない。脱構築は何より、読者であるぼくたち自らの自己変容を促すためである。そのことでさらに問わず語りに、ある至高の光景(存在神秘)を呼び込むことができるからだ。自ずから、哲学そのもののあり方も、根本から変質する。哲学と言えば、何か抽象的な概念の大伽藍、強靭な論理が組み上げた思弁のビッグシステム。普通誰しもそう思う。だからさらに思い込む。そのビッグシステムには、あらん限りの<解答><根本的な癒し>が書き込まれている、と。だが、そんなことが哲学だと、ハイデガーは考えない。哲学は道。僕たちをどこかへ連れ出す通路に過ぎぬ。通路に過ぎぬが、しかしそれは変容回路。道を行くことで、僕たち自身が変貌する。歩いているうちに、視野の曇りがとれ、司会が開け、身はリフレッシュ。そんな実際の散歩やウォーキング同様の変化が、精神(実存の構え)の次元で起こる。自己変容とか、精神革命とも言われたそれ。ハイデガーの場合、哲学とはまさにそんな自己革命の道だった。

こうした発想の前提には、僕たち人間が、自らの生や存在の事実に対して、まずは普段眠っている、という洞察がある。初期・前期に「耽落」とか「生の朦朧性」と言われたことである。考えてみると僕たちは普通、この世の内部に埋もれきっている。今日の予定や明日の成果で、頭はいっぱいだ。そのため、自分の存在だとか、この世の存在そのことに目を注ぐことなどすっかり疎かになる。これが耽落(深きねむり)のモチーフである。その際、この耽落が、惰眠をむさぼるとか、世俗にまみれニセモノの生活をしているといった、何か堕落した否定的な劣悪状態を意味してなどいない。むしろ懸命に利発に誠実に生きていればいるほど、そうなる。真剣に誠実にひとに惚れれば惚れるほど、身も世も忘れてしまう恋愛のように、この世の生に没頭し、そこに亀裂なくはまり込む姿ほど、人生をひたむきに生きる形式もない。それが誠実にこの世を生きることだ。この世の存在だとか、自分の存在にことさら思いをめぐらす(=耽落しない)方が、むしろ異様。どうかしている。普通じゃない。けれど、だからこそ、懸命に生き、誠実に利発にこの世に応接すればするほど、この世の存在を、あるいは自分がこの世に存在していることそのことを、忘却してしまう。そのパラドクスから一寸ばかり抜け出ること。生自体が自らの存在に対し<ねむる>という、この自然な傾向性(耽落)を破って、存在神秘へ目覚めていくこと。人生劇に没頭し熱演する普段の生活から、覚めて観ること。「現存在(生)が自己自身に対して覚醒して在ること」。その意味で、深きねむりから深きめざめへ。それが、ハイデガー哲学の基調音となって鳴り響く根本モチーフである。

ではそもそも、眠りから覚めることができるのは、なぜなのか。それは、ぼくたち人間に、覚醒能力があるからだ。人間だけに備わった覚醒操作(存在理解・開示性)。普段ほとんど休眠状態が、しかしそれでもなお、何らかの仕方で、かすかに働いているこの覚醒作用。それをフルに起動させること。それが、「深きめざめ」のモチーフに過ぎない。だから耽落ということで責められることがあるとすれば、折角の覚醒作用がほとんど封鎖されたままであるという、ただ一点に尽きる。もっと言えば、ぼくたちは普段あまりにも理知的な動物として立派に意識を働かせ、誠実に懸命に生きているが、だからこそ、折角の覚醒回路を詰まらせ、錆びつかせ、「現に-在る者」でなくなっているということである。だとするとハイデガー的革命は、思考内容や思考様式の変更というよりはむしろ、思考する場所を移転させようとする革命ということになろう。つまり、普段誠実に懸命に生きているとき作動する理知的思考の場から、それとは別の質の思考の場所へ移動すること。それが自己変容とか、精神革命と言われたことの実態だということである。

かつて、近代哲学によって「意識の中へ移転された思考を、意識の場所から別の場所へ移す」こと。「意識というそれ自身の内で閉じられていた場所」に終始した意識中心主義の近代哲学を、解体、破砕し、存在に開かれた現存在という<非意識的>場所へ思考フィールドを移すこと。それが深きねむりから深きめざめへの変容だ、というのである。現存在という述語は、伝来の哲学の思考場所(意識・理知)へのアンチテーゼだった意識を起点に、意識の内実として、意識の内へ、すべてを還元しようとする意識中心主義のモデルネへの、反抗だったのである。

彼はよく言う。何が言われているのか、表現されているとは何なのか。そんなこと(意識や理知による頭だけの理解内容)はどうでもよろしい。重要なのは、言われていることについて、思考する<自らの存在>が変化するということである、と。そしてそのことを、「理性的な動物から<現存在>への人間の本質変容」と定義する。だからそれは、「ぼくたちの習慣となった表象思考(死せる魂)を、簡素なるがゆえ不慣れな思考する経験(生ける経験)へ転調すること」である。その変化の中で、理知理性がヘゲモニーをもつ対象化思考(伝統的思考)から開放され、現に<いまここ>にこうして在ることに見開かれ、存在の凄さを目撃する者(現─存在)へ変身するというわけだ。

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