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2013年12月

2013年12月28日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(12)

第3節 神の把握可能性と把握不可能性

トマスは、人間の最終的な完全性である至福の内実を、神が把握可能なのか把握不可能なのかという狭義の認識論的な問題設定の枠組みのみで考えてはいなかった。そして、ラーナーの解釈に欠けていたのはまさにこのような視点である。トマスの全体的な問題設定としては、ラーナーのいう光の形而上学の展開において、その一つの派生的問題として、「神の把握不可能性」という問題を導入しているからである。

神認識の場合には、人間が対象である神を自らの見慣れた親しみのある世界の中に位置づけるのではなく、人間の方が徹底的な自己超越をとおして「自存する存在そのもの」である神へと脱自していくということであり、そしてそのようなことが可能になるのは神の側の恩寵による受容に基づいているということである。自らの認識様態に人間が最後まで束縛されつつもその認識が何らかの形で神に届かないわけではないということが肯定されているのは、神の側の受容ということが根拠になっているのである。

その「受容」ということは「恩寵」といった特別な愛に基づくのみではなく、そもそも人間が神を起源とした自然本性的存在を有し、自然的理性によって目的としても神へと向けられているということ自体が、神の受容に基づいている。というのも、トマスは、自然の領域があってその奥に恩寵の領域があるといった二重構造で思索を進めているのではない。知性的被造物がその自然的能力を備えて存在しているということ自体、存在賦与という神の愛に基づいているのであり、それはそれ自体、「恩寵」という神学的概念で呼ばれていないにしても、恵みにほかならないだろうからである。

それゆえ、「恩寵の光」や「栄光の光」による神の側の受容によって可能になる認識は、たしかに人間の自然本性を超えているのではあるが、自然本性に反するどころか、むしろ、自然本性自体に内在している究極的な可能性を初めて現実化するものでもある。それゆえ、被造知性が神の本質を観ることを可能にする根拠として語られている神の「恩寵」というものは、被造知性を自らにとって自然な認識様態への自閉から何らかの形で解放するはたらきとして、しかも、だからといって被造知性の認識様態を排除するのではなくむしろそれをその認識様態に基づいて完成する働きとして、語り出されている。これは言い換えれば、他者である神を親しい他者として受け入れながらしかも私の自分らしさが失われないどころかむしろそれまでにない輝きを帯びて立ち現われるという事態であり、我々は、これと類比的な事態を、神認識とは別の局面においても実際に経験している。それは他者への「愛」という態度にほかならない。

トマスは、「希望」を現実化しつつ克服した至福者について語ることによって、希望の役割に制限が与えられ、それによりかえって、そのような希望を担っている現世の人間と神との関係が、ラーナーにおけるよりも具体化された積極的な方向を持ち得ているといえるだろう。

 

第4節 至福者の認識様態

こうして、神認識においては、「知」の方向性が、他者である神を人間が自己の認識様態へと同化するという方向から、自己自身が神へと類似化しつつそのことによって「神の知」へと参与していくと言う方向へと転換する。そしてそのことは、神の本質を直視している至福者の認識様態を分析することによって、より明らかになる。

神の本質を直視されるということは、神という一対象が認識されることを意味するのではない。そうではなく、「自存する存在そのもの」であり、純粋現実である「神の知」に人間が参与することを通して、この世における通常の人間的認識においては断片的な形で多様性の中に拡散したままに認識されるにとどまっている世界内的な事物の総体を、「被造物全体」として全体的に理解するための道が開かれ、そのような豊かな「存在の充実」に人間が参与していくことができるようになるのである。だが、だからといって、至福者たちは、被造物のすべてを認識できるわけではない。

現世の人間が神を直視することができないのは、結果である可感的被造物が原因である神へと充分に導く力がないからであった。それに対して、至福者においては、原因である神を全体的に把握することができないから、その結果である被造物のすべてを認識することができない。それゆえ、神の本質へと参入した至福者=把握者において初めてありありと露わとなる神の把握不可能性というものがあることになる。そして、その神の把握不可能性は、被造物全体の把握不可能な豊かさの認識へと反照する。

 

第5節 神の把握不可能性の含意するもの

こうして、神の把握不可能性は、神だけの問題にとどまるのではなく、神を「起源と目的」とする被造物の把握不可能性へと反照してくる。すなわち、人間が、根拠である神に対して自己相対化しつつ問いの運動を遂行する時には、我々の周りにすでに存在していた感覚的世界が新たな形で秩序づけられて根源への問いに開かれてきて、そのような根源からの光のなかで考察されるようになる。

例えば、至福者において、認識し尽くすという意味で神を把握することは不可能であるということが、現在の生において認識されることによって、我々は、神の認識不可能性という点において至福者との何らかの共通性を獲得する。そして、そのとき、至福者における神の把握不可能性ということの意味も転換する。すなわち、至福であるにもかかわらず神を完全には把握していないのだという消極的な理解のみではなく、至福直観においてこそ、神の把握不可能性とその神を「起源と目的」とした被造物全体そして我々自身の把握不可能な奥行が初めて完全な意味で露わとなるのであり、そのとき、「把握不可能性」の意味するものは、単なる否定的な認識なのではなく、むしろ、あらゆる肯定的な認識によっても汲み尽くせないほどに神を中心とした実存全体が存在の充満を有しているということがはっきりと露わになる、ということなのである。無限である神が有限である被造知性によっては把握不可能であるということは、現世における自然理性的認識によっても充分に概念的に認識されうることではあるが、それはあくまでも概念的認識である限りにおいて、神の遠さという意識を促し、我々に絶望を与える可能性を有している。だが、神を「かんでいる」「至福者」においては、神の把握不可能性ということが愛を伴った親しさにおいてつかまれることによって、把握不可能なほどの豊かさとして肯定的に受け取られるのである。

 

結論 「把握」の場合分けの持っている意味

トマスは、「把握」を広狭二つの意味内容へと分節化して、「把握者」の存在態様を確固とした仕方で語り出して「旅する者」の希望を基礎づけるとともに、そのことによって、かえって、「認識し尽くす」という意味での「把握」の可能性をはっきりと否定することに成功している。そして、人間の無限の受容可能性と自然本性的能力によるその実現の不可能性とのギャップという形で、「自存する存在そのもの」に与りゆくプロセスが、人間に固有な自然本性の運動自体の力によって実現しつつ、そのような運動の実現に神の側からの働きかけが不即不離の仕方で関与していることを語り出すことを可能にしている。そしてその結果、単純な不可知論と実在全体に関する絶対知の獲得という両局から人間精神を解放して、人間理性の単なる相関者としてではなく、他者である神をまさに他者である神として理解する可能性を根拠づけている。

「存在の充実」を求めて知性認識活動に従事する人間は、「自存する存在そのもの」である神の認識においてこそ、そのような「存在の充実」を究極的に獲得することができるのであるが、そのような神認識は、「存在の充実」を永遠的な仕方で所有している神の側からのはたらきかけが伴って初めて十全な仕方で実現する。そして、そのようなはたらきかけが伴って初めて十全な仕方で実現する。そして、そのような仕方で時間的に「存在の充実」を獲得していく人間は、その極点においても、「存在の充実」そのものである神と融合することはないのであるが、それは単なる否定的な事態なのではなく、むしろ、把握し尽くされないほどに豊かな「存在の充実」によって刻み込まれることによってこそ、神との関係における人間知性の究極的な完成が非融合的・自立的な仕方で遂行される、という構造になっているのである。

2013年12月27日 (金)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(11)

第4章 神認識における人格の自立性と関係性:神の把握不可能性の含意するもの

知性認識における関係性の形成においては、世界内的な諸事物や自己自身の認識のみではなく、世界全体の根源である神の認識が重要な課題となる。だが、トマスは、神は、完全に認識し尽くされるという意味では人間によって把握されることはないとも述べている。しかしながら、このような考え方は、人間の知性のはたらきを最終的に無化してしまうことになってしまうのではないだろうか。

トマスは、人間が神を「把握する」ことができないということを、二つの異なった文脈で語り分けている。第一に、「この世」における人間の神認識の可能性に対してハッキリとした限界を確定する際に、神の把握不可能性ということを語る。すなわち、人間はこの世においては、神の本質を見ることは決してできないのであり、このような事態こそ、人間が神を「把握すること」ができないと言われることの第一の意味にほかならない。この場合の「把握」は「追求」に対立するものとして、つかむこと、すなわち、すでに現前した形で持たれている何らかのもののつかみのことを意味する。そして、天使やキリストなどの「至福者」は、この意味において「把握者」と言われるのであり、それに対して。現世を歩む「旅する者」としての人間は、常に追求者として歩まなければならない。それゆえ、この意味の「把握」は、「希望」の対概念として語られるのであり、「把握」が可能になっている場合には、「希望」という不完全な在り方は存在しない。他方、トマスは、天国における至福直観においては、神の本質が見られるという意味で神が人間によって把握されることをはっきりと肯定している。だが、それは、神が人間によって完全に認識し尽くされるということを意味するのではない。そしてこのような意味において神は至福者によっても把握されることができない。これが神の把握不可能性の第二の意味にほかならない。この場合の「把握」は、ものが認識可能である、そのかぎりを尽くして認識されるとの意味である。そして、このような意味においては、神を完全に把握するのは神自身以外にはないとされる。

 

第1節 カール・ラーナーの解釈への批判

カール・ラーナーの「トマス・アクィナスにおける神の把握不可能性について」という論文の中で、次のような主張が為されている。

「至福直観における神の把握不可能性ということは、被造的な知識の有限性の徴しとして、その到達する限界のようなものとしてのみ理解されてはならない。むしろそれはまさに被造的知識が到達したものなのである。」そして、ラーナーは、把握不可能性の二つの意味を場合分けすることなしに、「認識し尽くす」という意味のみでこの言葉を解釈し、至福直観において、神の把握不可能性が把握不可能性として露わになるとともに、希望も希望としてのその真の姿を現すという観点から、キリスト教の本質を次のように規定する。「キリスト教がどれほど単純なものとなるであろうか。すなわち、それは、把握不可能な神へと、委ねる愛において自らを明け渡そうとする心構えであり、また、このことはせずに、理解可能なことにしがみついて罪を犯しているのではないか、という怖れである」。

このようなラーナーのキリスト教に対する理解は誤りとは言えないが、トマス理解は単純化の誹りは免れ得ない。トマスは、「把握できない」神へと開かれた人間精神の力動性を閉ざす可能性として、ラーナーの指摘している「理解可能なものにしがみつく」という可能性すなわち有限的な被造物を絶対化するという可能性のみではなく、把握することのできない神の把握できなさに絶望するという可能性も指摘しているからである。そして、あらゆる意味での探求の失敗や迂路に晒されざるを得ない神探求において、我々に必要な「希望」とは、神の「把握不可能性」に対する希望ではあり得ず、神の何らかの意味での把握可能性への希望であらざるをえないのであり、トマスは、「把握」の意味の場合分けを通して、神の「把握者」である「至福者」の姿を明らかにし、そのような希望を確実なものとすることに成功している。トマスは把握可能性のただ中でも人間は神と何らかの仕方で結びつくことができるのだという「つかむ」という意味での方向を強調し、理解し尽くすことができないという意味での把握不可能性は、あくまでもその副産物として位置付けていたに過ぎないのではないかと思われる。

 

第2節 自然的理性による神認識の限界

トマスは、人間が神の本質をこの世で観ることができないこと─すなわち神を把握することができないこと─の理由を次のように説明する。すなわち、認識されるものは認識者のうちに、認識者の在り方に従って存在するのであるが、神は認識者である被造物の在り方を無限に超え出ていて対比を絶している。人間の自然本性的な認識は、感覚にその端緒を取るのであり、可感的被造物によって導かれるところまでしか及び得ないゆえに、神の全能力を認識するところまで導かれることは出来ず、それゆえ本質を観ることもできない。

そもそも、認識するということは、認識されるものが何らかの仕方で認識するもののうちに存在することによって実現する。それゆえ、認識するという行為の卓越性は、認識者が、自己に自然本性的に備わっている形相以外の他の事物の形相をも所有し得るというところにある。それゆえ、認識するという行為の卓越性は、認識者が、自己に自然本性的に備わっている形相以外の他の事物の形相をも所有しうるというところにある。しかも、認識されたものは、他の所有物のような失われ得る仕方で所有されるのではなく、認識者の存在に刻まれるような形で所有される。すなわち、感覚を通して人間知性は他の事物の類似性であるところの形象によっていわば刻みつけられる。知性は事物の類似性を自らのうちに引き入れ、自己を現実化するこれは、他者を自己に同化することによって、そのような「存在の充実」を実現する同化の力をもちうる。

だが、神は、どのような被造の形象によっても表現し尽くされることができない。被造物は原因である神を何らかの形で表現しているものの、神の本質を表現するには不完全であるにとどまる。それゆえ、類似性を媒介にして神の本質が観られることは不可能である。だから、人間知性は、神を自らに同化するようなことは決してできない。

2013年12月26日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(10)

第3節 知性認識における自立性と関連性

トマスは、知性的な認識者としての人間の卓越性を述べ立てる際に、しばしば、「魂はある意味においてすべてのものである」というアリストテレスの『霊魂論』の言葉を引用する。トマスによると、理性的な実体(魂?)は、世界の空間的な広がり・全体性に還元されない固有な全体性を個体として有している。認識者(人間?)の非認識者(動物?)に対する卓越性は、感覚とか知性とかいう個別的な能力自体にではなく、むしろ、そのような能力に基づいて可能となっている本性の「より大きな広がりと拡張」に求められている。換言すれば、既定の自己を超えた新たな関係性の構築を可能とする受容力において、人間の卓越性が認められているのであり、このような点において、認識を持つものは、或る意味において、神の類似性へと近づくのである。

これは、認識を持っている人間知性をその豊かさの側面から明らかにしている言明であるが、実は、その豊かさは非常な貧しさと裏表の関係にある。人間は神や天使などの諸々の知性の序列において最下位にあるのであり、出発点においては何も書かれていない書字版のようだからである。こうして、「我々は、最初は単に可能態において知性認識する者であり、後になってから現実的に知性認識する者とされる」。

人間知性のこのような構造は、知性的魂の自己認識に関して決定的な帰結をもたらす。というのも、人間知性は、身体的・感覚的な働きを介して外部の可感的世界から抽象される可知的形象なしには全くの可能態にとどまらざるを得ないのであるから、そのかぎりにおいては、現実的な知性認識の対象とはなり得ないことになるからである。それゆえ、知性的魂は、「自らの本質」によって自己自身を認識するのではなく、「そのはたらきを通じて」自己を認識する。こうして、人間の知性のはたらきは、魂の外との関わりへと出ていきつつ再び内面へと立ち帰る、という円環的・自己還帰的な構造を持つこととなる。

人間は、自存する実体としての自己の在り方を十全な形で実現するためには、自己のうちに閉塞していてはならず、むしろ、知性認識のはたらきにおいて魂の外との関係をより豊かなものとして構築していかなければならない者として実体的に存立している。それが人間に与えられた存在論的な条件である。そのために、魂の本質から、はたらきの基盤である知性という能力─それははたらきにおいて魂の外の存在者と関与する─が発出し、魂の本質と諸能力という分化が実体の次元において生じている。そして、理性的実体は、自立性という自己に本性的に与えられている基本的な条件を、魂の外の存在者との関係に吸収されて失ってしまうどころか、むしろ、実体的な一性と全体性をはたらきのなかでより明示的な形で高度に具体化して完成させていくことができる。こうして、そのような完成のただなかで、人間は、自立的な仕方で自存すること自体が他の存在者との関係性を含み込んで初めて可能になっているという自己に固有な在り方を、経験的に実現しつつ自覚する。それが人間の自己認識にほかならない。そして、そのような自己認識においては、自己は、単なる一対象として認識されているのではない。そうではなく、このようなはたらきの全体を可能にしている諸能力のはたらきと存在の根拠として、魂の本質が、再帰的に自覚され認識されているのである。

それゆえ、関係性の形成による自立性の維持と完成というこのような媒介的な構造のうちに含意されているのは、外から内へという単なる認識の時間的・空間的な順序だけではなく、むしろ、存在するものへ全体へと開かれていながらも自己自身だけによってだけによっては無である人間知性が、存在するものとの関係によって初めてその固有な意味を付与されているという人間に与えられている根本的な存在論的条件なのである。人間にとって、この世界全体は、そこへと偶然投げ出された馴染みのない─馴染むことのできない─異郷なのではなく、自らの知的本性と本質的な相関関係を有する馴染み深い場所─知的なはたらきによって馴染み深いものにしていくことのできる場所─なのである。そして、人間におけるこのような在り方は、最終的には、知性という魂の一能力によるはたらきの次元のみではなく、魂の本質そのものによって基礎づけられる。というのも、知性という能力は、人間の魂の本質を完成させるためにこそそこから流出しているのであり、単なる偶然的な付帯性とはことなる固有性として、人間の魂の本質自体が、具体的なはたらき以前に、知性的で再帰的なはたらきの遂行へと本質的に向けられていることを指し示しているからである。

 

結論 

トマスは、「実体」とか「自存」という一見閉鎖的・自己完結的な印象を与える言い方でペルソナを理解しているが、それは、他の存在者との関係を妨げるものではなく、むしろ、他の存在者との関係においてこそ、人間の自存性・実体性はその本来的な性格を完成される。というのも、自立的な仕方で自存すること自体が他の存在者との関係性を含みこんで初めて可能となっているからである。

認識者である人間は、「宇宙とその諸原因の全秩序が霊魂に書き記される」という「究極的な完全性」へと到達することができるような「本性」の「大きな包容力と広がり」とを有している。人間は、認識活動を通じて、単に狭い意味における知的な満足を味わうのみではなく、外界の豊かな「存在」─究極的には万物の究極原因であり「自存する存在そのもの」である神─によって刻み込まれることによって、「存在の充実」へと分け与っていくことができるのであり、トマスは、そのような仕方において、知性という認識力を持っている人格の存在論的な豊かさを語り明かしているのである。

こうして、「理性的な本性を有する個別的な実体」としてのペルソナにおいては、実体性・自立性と関係性とは、相対立するような特質なのではなく、真に自立的であるためには関係性を必要とするという形で、あくまでも実体性・自存性に重心を置きながら統合されているのである。そして、そのような知性認識による関係性は形成の射程は、有限的な被造物にのみではなく、存在全体の源泉である神へも及ぶ。

2013年12月25日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(9)

第2節 ペルソナにおける存在とはたらき

ペルソナとしての人間は、その生命のはたらきの原理である魂のみによって構成されているのではなく、魂の本質と諸能力、そして魂と身体という多様性を担った複合体として初めて実体的に存立している。そして、それぞれの人間は、そのような仕方で存立していることを維持し続けようとする自己保存的な傾向性を実体として有している。

人間は、実体の次元において、自己保存と自己充実への根源的な傾向性を自ずと有している。だが、人間がその萌芽的な傾向性を具体的に完成させ全面的に現実化させていくためには、働きを必要とする。心身複合体としての人間は、形相である魂の本質によって生命を有する実体となっているが、それだけではなく、魂の固有性としての諸能力を介して、さらなるはたらきへと秩序付けられている。存在すること自体が活動であり、「第一現実態」とも呼ばれるその存在活動は、「第二現実態」とも呼ばれる具体的な活動によって完成される。そして、その際、「第一現実態」である存在活動は、「第二現実態」というより大きい完全性にとっての単なる前提条件にすぎないのではない。そうではなく、むしろ、「第二現実態」としての具体的活動は、「存在する」という「第一現実態」の真の含意を浮き彫りにしていくものなのである。

その具体的な構造は、「完全性」の意味の二つの区分を分析することによって明らかになる。トマスによると、「第一の完全性とは、それに基づいて事物がその実体において完全であるもの」である。そしてそれは、「諸部分の無欠さ」から生じてくる。例えば、「人間であることの十全性のためには、魂と身体からの何らかの複合体であり、認識と運動のあらゆる能力と器官を有していることが必要とされる」。これは、実体としての人間に対して、人間が人間であるというまさにそのことにおいて、常に既に与えられている基本的な条件である。だから、「部分という性格はペルソナの性格に反する」のであり、魂や手などの「人間の部分」はペルソナと言われることはない。魂が人間においてどれだけ中心的な役割を担っているものであろうとも、それだけでは完結した存在をもつことはできず、それ故、ペルソナと言われることもできない。ペルソナが「全体的で完結したもの」であるとはこのような意味にほかならない。

そして、ペルソナという語によって表現される人間個体の在り方の完結性の強調は、個人の自立した完結性を否定しかねないような知性論への反駁という背景も持っていた。トマスは、各人の固有の魂を─そして魂の一能力としての知性を─固有の仕方で個体的に有しているということをはっきりと肯定し、はたらきの行使の主体としてのペルソナの個体的な完結性と自立性を確保していた。ペルソナである人間は、知性認識という普遍的なはたらきを、あくまでも個別的な仕方で担い、個体の自立した在り方を保ち続けるようなものとして存立しているのである。だが、だからと言って、ペルソナは、他の存在者との関係を全く抜きにして一性や完全性を既得の所有物のような形で保持しているのではない、そうではなく、第一の実体的な完全性に依存しつつも、逆にその所与の完全性をより高次の仕方で完成させるような仕方で、第二の完全性(完成)が生じてくる。それは、はたらきによる諸々の目的の実現ということである。そして、「形相がはたらきの根源である」かぎりにおいて、第一の完全性が第二の完全性の原因となっている。

トマスは、「ペルソナ」という語を、存在とはたらきという双方の完全性に関わるものとして使用している。そして、彼は、諸能力による諸々のはたらきを、知性や意志のはたらきように「(働くもののうちに)留まるはたらき」と、「(外部のものへ)移行するはたらき」とに区別している。留まるはたらきと移行するはたらきの最も顕著な相違点は、次のことにある。すなわち、移行するはたらきにおいては、はたらきを受ける外部のものの方が完成される。たとえば、建築というはたらきによって、建築物が完成される。それに対して、留まるはたらきにおいては、はたらきは、はたらくもの自身のうちに留まる。

2013年12月24日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(8)

第Ⅱ部 存在充足としての認識活動

トマスによると、人間は、被造物のなかにおいて、最高度の仕方で、「諸能力の分化・多様性」を有している。というのも、「人間よりも下位のものは、何らかの個別的な善のみを獲得する。それゆえ、何らか少数の特定のはたらきと力のみを持っている」。それに対して、理性的な存在者は、より普遍的で高次のはたらきへと開かれている。だが、中でも天使のような知性だけの存在者は感覚的能力を持たず諸能力の分化も豊かなものではない。それに対して、「物体的世界と非物体的世界とのいわば地平であり接合点のようなもの」であるところの人間は、より豊かな能力の分化を有しているのである。

そして、トマスは、人間の有している多様な諸能力による諸々のはたらきを、知性や意志のはたらきのように「(はたらくもののうちに)留まるはたらき」と熱するとか切るというような「(外部のものへと)移行する働き」とに区別している。このうち、移行する働きにおいては、働きを受ける外部のものの方が完成されるのに対して、留まる働きにおいては、働きは働くも自身の「完成・完全性」として、働くもの自身の内に留まる。このような性格を有する知性と意志の「留まるはたらき」を通して、人間は、理性的実体が理性的実体である限りにおいて常にすでに有している完全性を、より高次の完全性へと高めていくことができるのである。これが、ペルソナに固有のはたらきとしての知性と意志に焦点を置いて論述を進める理由である。

祖間際、注目すべきことは、知性と意志、それぞれのはたらきに方向性の対照が存在していることである。知性は、外界の対象を認識することによって同化し内面化する能力であり、それに対して、意志は、外界の対象へと脱自的に関わる能力なのである。すなわち、知性は他のものの同化によって自己をそして自己のはたらきを担っているペルソナを完成されるような働きであり、意志は他のものへの脱自的な関係性の形成によって自己をそして自己のはたらきを担っているペルソナを完成させ、同時に関係性を取り結ぶ他者をも完成されるようなはたらきなのである。

その際、人間の知性は、「出発点においては何も書かれていない書字版のようなものである」にもかかわらず、そのような知性に基づいて、人間の魂は「或る意味においてすべてのものである」とも言われており、人間精神は、貧しさと豊かさがきわめて力動的な仕方で統合されたものとして語り出されているのである。ここでの「すべて」という完全性には二つの意味がある。それは、人間が人間である限りにおいて常にすでに与えられている基本的な条件(第一の完全性)という意味と、人間にとって本来的であるにもかかわらず未だ十全な形では実現されていない目指されるべき在り方(第二の完全性)という意味の二つである。そして、前者が後者を基礎づけている。がてら、人間のペルソナが「全体として完結したもの」と言われるにしても、孤立した仕方で最終的な完全性を生まれながらに有しているということなのではなく、自らの外にある目的との関係において第二の完全性を目指していくと言う目的志向的な在り方をしているということなのである。

知性認識に関していえば、人人間知性が「何も書かれていない書字版」であるということは、逆に言えば、豊かにものを書き込むことのできるような可能性という意味での「第一の完全性」を有しているということであり、そのような完全性に基づいて、「宇宙とその諸原因の全秩序が書き記される」という「第二の完全性」へと向かっていくような力動的な構造を有しているということなのである。そして、そのような「第二の完全性」は、「第一の完全性」と完全に別のものなのではなく。「第一の完全性」のなかに萌芽的な仕方ですでに含み込まれている可能性が現実化したものなのである。人間は、認識活動を通じて、単に狭い意味における知的な満足を味わうのみではなく、外界の豊かな「存在」によって刻み込まれることによって、「存在の充実」へと分け与っていくことができるのであり、トマスは、そのような仕方において、知性という認識力を持っている人格の存在論的な豊かさを語り明かしているのである。

 

第3章 知性認識における人格の自立性と関係性

第1節 魂の本質と諸能力との区別

トマスによると、「魂とはこの世に生きているもののうちにおける生命の第一の根源・原理のことである」。そして、彼は、人間の魂に関する考察を、「魂の本質」と「魂の諸能力」との根本的な区別のもとに展開している。これは、もしも魂の本質自体が働きの直接的な根源であるとしたならば、生命の原理である魂を持つものは、現実的に生きているように、常に諸々の諸々の働きを現実に為していることになってしまう。だが、実際にはそのような戸はない。我々は、或る時には知性認識や意志のはたらきを為しているが、他の時には為していない。それゆえ、本質と諸能力との区別が必要となる。

そこで、「本質」とは異なるものとして規定される「能力」の存在論的身分について、トマスは。「固有性」と「付帯性」の区別に基づきつつ説明している。事物の本質の外にあるものであれば何であれ付帯性と言われることができるのではなく、種の本質的な根源から原因されるのではないもののみがそう言われる。それに対して、「固有性はものの本質に属さないが、種の本質的な根拠に基づいて原因されるのであり、それゆえ、本質とこのような意味における付帯性との中間である」。このような仕方において、魂の諸能力は、いわば「魂の本性的な固有性」として、実体と付帯性のあいだの中間と言われる。それらは厳密な意味で本質であるわけではないものの、本質から直接的にそして必然的に流れ出るので、魂が存在していながらそれらが奪われているということは可能ではない。そして、このような諸能力に基づいて、諸々の働きが遂行される。

それやえ、心身複合体であるペルソナとしての人間が存在していれば、その形相である魂の固有性としての諸能力に基づいて、自ずと働きが生じてくる。本質でもなければ付帯性でもない「固有性」という特徴的な存在論的身分を持った諸能力の中間的な在り方が、ペルソナにおける存在と働きを媒介する役割を持っている。

2013年12月23日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(7)

結論 意志的能力の二重構造の示唆している人間の関係的な自立性

人間の意志の自己原因性を基礎づけるより高次の原因として「神」を理解しているトマスの人間論の構造を、自由論の観点より詳細に明らかにしている。

トマスの自由論は、「自由意志」と「意志」という二つの概念を中心に構築されている。トマスは、まず自由意志を次のように定義している。「我々が自由意志を有する者であると言われるのは、一方を退けて他の一方を受け入れる─つまり選択する─ことができるというまさしくこのことに基づいている。…選択に固有な対象は目的へと向けられたものに他ならない」。自由意志が直接的に関わるのが「目的へと向けられたもの」であるならば、目的自体へと関わる欲求的なはたらきを「意志」と呼んで、自由意志と区別している。しかし、「意志」と「自由意志」とは全く別な能力ではなく、根源的には同一の能力だとされている。なぜなら、目的への欲求である「意志」は、目的へと向けられたものに関わる「自由意志」の可能根拠として、「自由意志」を包含している。

このような意志の特徴を明らかにするためには、それが人間に与えられている「自然本性的な傾向性」だということを理解する必要がある。トマスは、それぞれの存在者におけるはたらきの原理を、「自然本性的な傾向性」とか「自然本性的な欲求」と呼んでいる。それらの概念は、認識を持たない存在者を含めたあらゆる存在者が善へと向かう存在活動の原理を意味している。

こうしても人間の意志と神との関係は以下のようになっている。すなわち、「究極目的(である神)は必然的に意志を動かす。というのもそれは完全な善だからである」。意志は、神から与えられた自然本性的傾向性として、究極目的へと必然的に動かされているのである。それゆえ、このような捉え方においては、人間の意志の神に対する徹底的に受動的な関係が語られている。だが、そのような普遍的善=第一動者=神への人間の秩序づけは、人間の側の措定に基づくのではないかぎりにおいて、確かに受動的なのであるが、人間は理性を有するがゆえに、そのような秩序づけを秩序づけとして内面化することができる。そして、意志のこのような性格に基づいた人間全体の自律的・自立的な在り方は、自発性・意志性と呼ばれていて、それが人間の自由を可能にしている。

こうして、人間が、具体的な場面における具体的な諸対象の現存のなかにおいて、何らかの対象を選択する際に、「自由に」選択するということは、その対象は人間の意志を必然的に引きつけるような力は持っていないということを意味している。換言すれば、人間の意志がそのような個別的な対象を意志するのは、そのものに対する自然本性的な(必然的な)傾向性に基づくのではない。だが、それは意志の自然本性的傾向性に反しているのでもない。というのも、自然本性的傾向性というのは、人間に与えられた根本的な条件のことであって、人間の個別的・具体的な意志の発動がそのような根本的な条件に全く反しているということはありえないからである。

人間がそもそも何らかの具体的な対象を選択するということは、その具体的な対象によって何らかの意味で引きつけられていることを意味する。だが同時に、その選択が自由に行われる限りにおいて、その引きつけは決して強制的な性格のものではないと言わなければならない。つまり、その具体的な対象が有限的なものにすぎないことが何らかの価値で実際に気付いているといえる。そして、何らかの世界内的な有限的善を有限的善として理解する時、実は我々は何らかの非有限的(無限的)な善を暗黙の裡に認識しているのであり、このような意味において、そのような「無限的善」と呼ぶべきものは、経験的対象としてではなく、具体的経験の成立根拠として、『経験』されていると言うことができる。そして、ここで「経験」と言われているものは、実は、「或る意味においてすべてのものである」と言われる人間精神の自己認識に他ならない。むすなわち、個別的な諸対象の持つ魅力が「不完全な善」なすぎないとの判断は、何らかの形における「完全な善」への人間の意志の志向を前提としているのであり、そのような志向を振り返ることを通して、「人間的欲求であるところの意志の対象は、普遍的な善である」というようなことが人間精神の自己認識として自覚されるのである。というのも、そのような普遍的で完全な善に対して開かれた自らの根源的な可能性を何らかの形ですでに自然本性的に認識しているからこそ、個別的な善をいくら獲得しても満たせない空虚を自らのうちに感じ取ってしまうのだからである。

このようにして、感覚的世界の地平には決してそれ自体としては現われることのあり得ない「無限なるもの」の「受容」の器として、我々が自らの精神を自己理解する時、感覚的世界の地平の内にある有限的諸善は、「無限なるもの」との対比の中で、徹底的に「有限なもの」として把握される。そして、そのことによって、「有限なもの」が、幻想的に理想化されることも単なる無価値的な事実性として切り捨てられてしまうこともなく、むしろ有限なあるがままに享受されるような地平が開かれる。というのは、人間精神が自己認識を通して、自らの目的を無限なるものの受容と理解する時、世界内的なすべての事物は、目的へと向けられたものとして相対化されるとともに、時間的・感覚的存在者である人間が直接的に触れるかけがえのない通路─無限なるもの(目的)へと導く─として捉えられるからである。

感覚的な時間的世界と知性によって開かれて来る永遠的世界の中間者として、人間が存在論的に自己理解を遂行するとき、経験的世界は、人間が、自己へと贈られてくる新たな事態の中において、常に新たな目的─手段連関に基づいて構造化することのできるようなものとして現前するとともに、だからといって単に人間の恣意に任されたものとしてではなく、人間の手による目的─手段連関の能動的な構築自体が、「普遍的な善」による「普遍的な動かし」に基づいたものであることが洞察されるのである。こうして、このような仕方で、最初にあげたトマスの定義が理解されるのである。

すなわち、人間が選択の自由を有するということは、個別的な外的対象の強制から自由であるということを意味している。ところが、そのような自由意志は人間の意志行為の第一原因なのではなく、その基盤には根源的所与としての自然本性的(=意志)があり、さらにそのような自然本性的な傾向性としての意志を措定するのは、第一動者である神にほかならない。それゆえ、人間が自己運動する自発的な存在者だということは、人間が自らの行為の最終的な因果関係・支配関係の網の目の中に存立していながら、「存在の普遍的な根源に対して直接的な秩序づけを有する」がゆえに、その「存在の普遍的な根源」を自らの根拠として受け入れることを通して無限への力動性に与り、世界内的な諸関係を自らの行為の対象・条件として受け入れつつも、完全に呑み込まれてしまうことはなしに第二次的因果連関として相対化しつつ、「存在の普遍的な根源」へと秩序づけていくことができる。このように、ペルソナとしての人間は、自立した自由な存在者としての自己根源性を有しつつ、あくまでも、創造者である神との関係性においてその自立性・自己根源性を確保している。

2013年12月22日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(6)

第3節 第一作用者と第二作用者の関係の分析

 

トマスによると、神は、それぞれのはたらくものにおいて、三つの仕方で働いている。すなわち、まず第一に、目的という特質に基づいてはたらいている。というのも、すべてのはたらきは何らかの善を目的として目指しているが、何らかのものが善であるのは最高善である神の何らかの類似性に分け与っていることによる。それゆえ、神は、目的という仕方でそれぞれのはたらきの原因となっているのであり、そのような意味ですべてのはたらくもののうちに働いている。 

第二に、作用者同士の依存関係という点において、第一作用者である神は、第二次作用者のうちにはたらいている。その理由は、秩序付けられた多数の作用者が存在している場合には、常に、第二次作用者は第一次作用者の力においてはたらいている。なぜならば、「第一作用者は第二次作用者を作用することへと動かす」からである。第一原因である神はあらゆる作用者のはたらきの原因なのであり、そのような仕方ですべてのものは神の力においてはたらきを為している。

第三に、神は、創造者として、「被造物に形相を与え、それらを存在のうちに保っている」。そして、形相は「はたらきの原理」であり、また、神は「存在」というそれぞれの事物の最内奥の原因なのであるから、神はすべてのものにおいてその内奥においてはたらいているということが帰結する。 

それゆえ神は、事物に形相を与え、それらの事物を存在のうちに保ち、また、それらをはたらくことへと作用因的に動かし、また、それらすべてのはたらきの目的としてもそれらのもののうちにはたらいているということが帰結する。 

 

 

第4節 「原因性」と自己根源性の相違 

トマスは、人間が「神の似姿」であることの根拠を、「自らのはたらきの根源であること」─すなわち自己根源性─に求めている。だが、すべての被造物がそれぞれに固有の「原因性」を有しているのであれば、人間が「自らのはたらきの根源である」ということは、他の被造物に比べて特に特権的な立場にあることの根拠だとは言えなくなってくるのではないだろうか。もしも「神の似姿」としての「人間」が特権的な立場にあるのであれば、「自らのはたらきの根源である」ということの内実の中に、単なる「原因性」に還元され得ない特質が見出されなければならない。

 『神学大全』第Ⅱ部の序文において、トマスは、人間の自己根源性の根拠として、「自由意志」と「自らのはたらきに対する支配力」という密接に結び付いた二つの特質をあげている。それゆえ、これらの特質の内実を明らかにすることを通して、「神の似姿」としての人間の自己根源性と他の被造物の原因性との相違がより明確になると思われる。その内実は次のとおりである。

すなわち、被造物において、はたらきの起源・根源は、「作用者自身のうちに」あることもあれば、「外に」あることもある。また、「自らが自らを動かす」という構造を有している存在者においても、そのような運動のうちの或るものは「理性的な判断から」生ずるが、他のものは「本性的な判断から」生ずる。というのも人間以外の諸動物は、判断に基づいて運動するが、その判断は自由な判断ではない。それらは、「自らの判断について判断することがなく、神によって自らに植え付けられた判断に従うのみである」。それゆえ、それらのものは、「自らの決断の原因」ではなく、それゆえ「決定の自由」を有していない。それに対して、「自由な判断」を下すことのできる人間は、「理性の力によって、為すべきことについて判断しつつ、自らの決断についても判断することができるのであり、そのことは目的、および目的へと向けられたものの特質を、さらに後者の前者に対する関係・秩序づけを認識しているかぎり可能となる。」 

ここで、人間以外の諸動物に対する人間の卓越性として語られているのは、人間精神の自己還帰性についてである。すなわち、諸動物においては、たとえ「判断」ということが語りうるにしても、その「判断」は特定の目的─手段連関に完全に服しているために、種的に規定された特定の環境世界への埋没から自らを引き離すことができない。それに対して人間は、具体的な「決断・判断」に基づいて特定の目的─手段連関に自らの身を能動的に置くことができるばかりではなく、そのような特定の目的─手段連関自体を吟味して相対化することができる。こうして、「人間は運動することにおいてのみではなく、判断することにおいても、自分自身の原因である」。それゆえ、このような意味で、人間は「自由意志」を持っていることになる。 

このような仕方で、人間は、その他の被造物も有している「原因性」を超えた仕方で、自己根源性を有していると言えるのである。そして、そのような自己根源性が人間のもう一つの根源である神との関係の中ではじめて可能になっているというのがトマスの人間論の特徴なのである。

2013年12月21日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(5)

第2節 「原因性」を付与するより高次の「原因性」としての「創造」

人間と神とは、同じく人間の働きの根源となっているとはいえ、その根源性の質は異なっている。トマスの創造論的な世界理解においては、神は、あらゆる被造物のあらゆる働きの「根源」となっているのであり、その限りにおいては、人間は、他の被造物と何ら変わりがない。それでは、人間が、他の被造物とは違って自己根源性を有しているというのはどういう事態なのだろうか。それを明らかにするために、まず、その準備として、「根源」である神の諸々の被造物との関わりの一側面を、「原因性」の付与という観点から明らかにできる。

トマスによれば、創造とは、「神である普遍的な原因からの存在するもの全体への流出」のことである。そうである限り、「あらかじめ何らかの存在するものが前提されているということはありえない」。それゆえ、「創造するとは無から何ものかをつくるということにほかならない」。ここで注意しなければならないのは、トマスにおいては、創造行為が終われば世界への能動的な関与を中止して世界をその自立的・自然的な自己展開へと委ねてしまうものと理解されているのではないということである。創造とは単なる過去の一時点における出来事に留まるのではない。「神は、諸事物のうちに存在という結果を、諸事物が存在し始めるその発端において生ぜしめるだけではなく、諸事物が存在に保たれている間中、生ぜしめている」のである。それゆえ、神は、存在の作出因として、それぞれの事物のない奥に生ぜしめたそれぞれの事物に固有な存在と触れながら、それに常に臨在している。それゆえ、「創造は、被造物においては、その存在の根源としての創造主への或る種の関係であるほかはない」ということになる。

ここで言われている「或る種の」関係には、次のような含意がある。被造物同士の関係においては、それぞれのものの実体性・自立性がすでに前提となったうえで、それぞれの実体の内在的原理に基づいて付帯性としての関係が成立するのであるが、創造においては、このような付帯性としての関係を担う実体は前提されるどころか、神の創造のはたらきは被造物の存在の根源として、このような実体そのものを措定するような関係にある。このような関係を「超範疇論的関係」と呼んで、被造物相互間における「範疇としての関係」と区別している。空間的な比喩を用いるならば、個々の被造物が存在してお互いの間にいわば水平的な相互関係を結んでいる場所そのもの(被造界)を垂直的な形で措定し根拠づけているのが神の創造の働きだということができる。先ほどの創造の定義において、「或る種の」と言われていたのは、このような「超範疇的関係」を意味していたのである。

このような形で、「神による世界創造」ということを世界全体の根本的な枠組みとして捉える捉え方は、決してトマス特有のものではなく、キリスト教の成立以来の基本的な考え方である。そのような思想史的な流れの中におけるトマス哲学の独自性は、神による世界創造という一貫した神中心的世界理解を貫きつつ、その中でも被造物の自立性ということをはっきりと肯定し得ているという点にある。すなわちトマスは、神を「第一作用者」と呼び、その他の被造物を「第二次作用者」と呼んでいるが、トマス的世界理解においては、第二次作用者が第一次作用者である神に依存しつつ独立しているということ─すなわち「依存的事物の独立性」─が表明されているのである。

トマスによると、世界内的な存在者は、「被造物」として、その「創造者」たる「神」のことを「表現」しているのであり、「神が諸事物を存在へともたらしたのは、自らの善性を諸々の被造物に伝達し、それらを通じて善性を表現するためであった」。そうである以上、神の善性の核心的な要素の一つである「原因性」・「作用する力」を被造物に伝達することが必要だったのであり、そのことによって被造界の内部に「因果の秩序」が保持される。こうして、第一原因である神がすべてのことを為すよりも、第一原因が、原因性を付与された第二次原因と協働して世界の秩序を保持することの方が、第一原因の卓越性をより優れた仕方で表現するということになる。このような観点から、被造物固有のはたらきが存在していることは、神の卓越性を弱めるどころか、むしろそれを強めるとして捉えられている。被造物のはたらきと神の働きとは同一の地平に存在してゼロサムゲームを繰り広げるような相互排除的・対立的なものとしてではなく、協働という観点から考えられているのである。

2013年12月19日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(4)

第2章 ペルソナの自己根源性:被造物としての人間の自立性

自立的な個体であるペルソナとしての人間は、創造者である神に対してはどのような在り方をしているのであろうか。そこにおいても自立性というようなものが考えうるのであろうか。「被造物」として人間を把握し、「創造主」による摂理などということを考えてしまえば、人間の主体性・自発性・自由意志といったものは、つぶれてしまうか、せいぜい二次的なものとして保存されるか、いずれにせよ、根本的には無意味なものとなり、人間の具体的な生活の全体が無価値化されてしまうのではないだろうか。ペルソナとしての人間の自立性・自己目的性は、神に対する依存性とは両立しないのではないだろうか。

このような疑問に対するトマスの解決は、被造物としての人間が自立性という卓越性を有していることこそが、神の創造的な卓越性の何よりの表現だという捉え方だ。

第1節 『神学大全』における人間論の位置づけ

中世スコラ学者は、聖書に啓示された神の言葉を信じ、それをできるかぎり知的に理解していくという「信仰の理解」の立場に立っていた。神の存在はある意味では自明であり、問題はむしろ世界の在り方と神の在り方とをどう位置付けて説明するかということであった。

トマスの『神学大全』の全体構造には、万物を、その起源としての一者からの「発出」、及び終局としての一者への「帰還」として理解する新プラトン主義の原理が適用されている。だが、同時に、以下のような決定的な相違が存在している。すなわち、新プラトン主義においては、一者からの世界の流出と流出した世界の一者への帰還は共に自然必然的な運動であると考えられていたのに対して、トマスは、神と、神から「発出」し「帰還」する人間の双方が自由な働きを有していることを強調している。

トマスは、さらに第Ⅱ部の人間論・倫理学のところで、「人間」が「神の似姿」であることの根拠は、「自らの働きの根源である」ということ、「自己根源性」、に求められている。トマスは、人間は単純に「自らのはたらきの根源である」と言うのではなく、「自らもまたそのはたらきの根源である」という含みを持った言い方をしている。神の本質とはたらきが述べられる第Ⅰ部に続いて展開される第Ⅱ部の人間論においては、神のはたらきから切り離された形での人間論が展開されているではなく、自己根源性を持った神の似姿として自らもまた自己根源性を持っている人間という観点から、すなわち、神のはたらきと人間の働きの協働という複眼的な立場から、論が展開されている。

こうして、神という根源から発出しつつそれ自体が自己根源性を有している人間は、その結果として、静的ではなく力動的な性格を持つこととなる。そのようなトマスの人間観は、「人間は、神の似姿に向けて創られた」という聖書と教父の伝統的な表現に対するトマスの独自の解釈の中に反映している。これは、人間が神へと接近していくべく創られている、という動的な意味に解釈されている、ということである。だが、それは、「人間」という確固とした輪郭を持った一つの存在者が、「神」という全く別の輪郭を持った不可知の存在者ともともとは全く別個に存在していて、それから何らかの二次的な関係を取り結んでいる、ということを意味しているのではない。むしろ、「起源と目的」として自らを超えた「神」と呼ばれる実在に関係づけられていることによって、人間自らが、自分自身に対して他者性を孕んだものとして現存しているということ、「私は何であるか?」という問いは単なる事実記述的な形で答えることはできず、「私はいかなるものとなるべきであるのか?」という課題性を孕んだ問いと不可分の形で存在しているということ、を意味しているのである。

そして、人間本性のこのような動的な構造に関して、トマスは、「人間の自然本性は可変的である」と述べている。人間は、自らの存在論的な位階=アイデンティティを、固定的な形で与えられていない。人間は単純に人間で「ある」のではなく、人間と「なる」ことにおいて初めて本来的な意味で人間で「ある」ことができるようなダイナミックな存在なのである。トマスが「神の似姿」という概念を導入して語り出そうとしているのは、人間の自然本性の自己超越的な構造についてなのであり、自らに固有な在り方を超え出るまでに自己を超えていくことがかえって自己に最も固有な在り方の実現となるという人間本来の力動性がこの概念によって表現されていて、しかも、そのような形での人間の上昇は、あくまでも「起源」である「神」によって支えられて初めて可能になるということが同時に表現されているのである。

2013年12月18日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(3)

第3節 所与としての完全性と課題としての完全性

ペルソナにおける理性の役割は、「自己支配」「命令」という視点に尽きるのではなく、理性は認識との関わりにおいてもまたペルソナの全体性を基礎づける役割を果たしている。そして、それは理性による新たな全体性・完全性の獲得という形で語り出されている。

この「完全性」とは何だろうか。トマスは、完全性の意味を二つに区分している。すなわち、「第一の完全性とは、それに基づいて事物がその実体において完全であるもの」である。それは、「諸部分の無欠さ」から生じてくる。そして、このような第一の完全性に基づいて、第二の完全性(完成)が生じてくる。それは目的の実現ということである。

こうしてペルソナである人間は、所与としての完全性に基づいて、目的志向的な在り方を有し、もう一つの完全性─課題としての完全性─へと向かう。そしてそれは、新たな「全体性」の獲得という形で為される。そのことが、理性や知性を持たない他の存在者とペルソナ的存在者との決定的な区別となっている。

 

第4節 神のペルソナと人間のペルソナ:「知性」と「理性」

以上の探求においては、「理性的な本性を有する個別的な実体」というボエティウスに由来するペルソナの定義を出発点にして論を進めてきた。しかし、トマスのペルソナの定義は、このボエティウスのもののみではない。というのも、ボエティウスの定義は、第一義的には人間のペルソナの定義として行われるが、トマスにおいては「ペルソナ」ということが語られる中心的な文脈は三位一体論とキリスト論という神学固有の文脈であるからである。なぜなら、「理性的な本性を有する」ということも、「個別的」ということも、「実体」ということも、その本来の意味においては、神には適合しないからである。

すなわち、リカルドゥスによる「知性的な本質を有する共有されえない存在者」という定義である。トマスは、このリカルドゥスの定義が優れている理由として、以下の点をあげる。第一に、「理性的な本性を有する」ということは、「理性」という語が時間的な推論を意味する限りでの永遠的な神にあてはまることはなく、広い意味で「知性的な本性」を意味する限りにおいてのみ神にあてはまる。そしてまた、第二に、「個体」であるということが神に適合するのは、「個体化の原理が質量である限りおいて」ではなく、「共有不可能性を有する限りにおいて」である。また、第三に、「実体が神に適合するのは、自体的に存在することを意味する限りにおいて」なのである。

そしてこのことは、逆に、人間のペルソナに関する「ペルソナとは理性的な本性を有する個別的な実体である」という定義の意味内容を、裏側から指し示している。すなわち、第一に、「理性」とは推論的・過程的な理性を意味している。第二に、「個別的」とは、質料によって個体化されていることを意味している。第三に、「実体」とは、「諸々の付帯性のもとに立つ」ということを意味している。

このうちの第一点、「理性」と「知性」の区別に基づいて、天使や神は知性的と言われ、人間は理性的と言われる。「天使や神の知性は、いきなり、完全に、事物の全体的な認識を有している」のに対して、「人間は、一つのことから他のことへと進んでいくことによって、可知的な真理の認識へと到達するが故に、理性的と言われている」。

人間は、「理性的な」存在者であるから、目的としての全体性へと、認識と行為によって時間的に一歩一歩進んでいくような存在者となっているのである。「理性的」とは、人間理性にすぐに把握できることに自足してそれ以外のものを拒否するような態度なのではなく、むしろ、分節化された推論の積み重ねをとおして何らかの全体的・総合的な理解へ到達しようと試み続ける中間者的な在り方を徹底的に引き受けていくような態度を意味している。「理性的」とは、自らの限界を充分に弁えながらもどこまでもあらゆる実在に対して自らを知的・意志的に開いていこうとする根源的に開かれた態度を意味しているのである。

 

結論

ペルソナとしての人間は、可感的な世界に存在するかぎりにおいて、「諸々の付帯性」を獲得したり喪失したりしながら存在し、その内実において絶えず変化し続けているが、そのような付帯性を担っている「基体」・「実体」である「ペルソナ」そのものは、そのような変化を貫いて一性を保ち続けている。そして、そのペルソナは、「個別的・不可分割的」である限りにおいて、分割することも、他のペルソナと存在論的に融合することもありえない自立的で根源的な一性と全体性を有している。だからこそ、具体的な場面で自己分裂や葛藤を抱え込みながらも、完全に分裂することはなしに、それを統合して行くことができる。永遠的な「知性的本性」ではなく過程的な「理性的本性」を有していることによって、ペルソナとしての人間は、時間的に発展していく可能性を担った存在者となっているのである。

2013年12月17日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(2)

第Ⅰ部 理性的実体としての人格の基本的構造

第1章 人間論的概念としてのペルソナの輪郭

トマスにおいて、「ペルソナ」という語は、主に、三位一体論・キリスト論という神学的・存在論的な文脈において、「神のペルソナ」・「キリストのペルソナ」というような形で使用されている。この語が、「人間のペルソナ」を意味することも確かにあるが、それは極めて限定された文脈においてであるようにも見受けられる。というのも、それは倫理的な行為の主体を指す語としてはほとんど用いられていないような印象も与えるからである。

神学的な文脈において「神のペルソナ」の在り方を探求する際に、我々にとってより身近な「人間のペルソナ」の在り方が手がかりとされている側面はあるものの、そこにおける人間のペルソナの分析は存在論的なものであって倫理学的・人間論的な分析は明示的にはあまり為されていない。そこにおいては、「ペルソナ」という言葉は、人間の倫理学的な側面を意識論的・行為論的に説明するために用いられているのではなく、人間の自立性と一性を存在論的に明らかにするために用いられているのである。

だが、トマスがペルソナの定義について述べていることを丁寧に読むと、この概念を倫理学的・人間論的な概念として立ち上げることの可能性と意義が浮かび上がってくる。その意義とは次のようなものである。すなわち、トマスは、分節化の積み重ねを通した総合というスコラ学の基本的な方法論に基づいて、人間を考察する際にも、人間の諸能力を細かく分節化し、それぞれの能力に基づいた説明を別々の問題を立てて与えていくという道を辿っている。だが、人間の全体性は、そのような個別的な諸能力から後になって合成されたような可能性を孕んだ概念なのである。というのも、ペルソナは、「全体で完結したもの」であるからである。それゆえ、本章においては、完全性と全体性ということに焦点を当てながらトマスにおけるペルソナの定義の構造とそれと関連する文脈を分析することによって、人間のペルソナの存在論的な分析に孕まれている人間論的・倫理学的な含意を取り出すことを試み、「理性的実体」としてのペルソナ概念の孕んでいる人間論的な可能性の輪郭を明らかにしていきたい。

第1節 ペルソナと理性:ペルソナの自己支配

トマスは「ペルソナ」という概念を、ボエティウスが『二つの本性について』の中で与えている「ペルソナとは理性的な本性を有する個別的な実体である」に拠って理解している。ここで用いられている、「理性」「本性」「個別的」「実体」等の用語について、トマスは次のように述べている。

「実体」と言われることによって、ペルソナの特質から、付帯性─どのような付帯性についても、ペルソナが語られることはあり得ない─が排除される。「個別的」と言われることによって、実体のカテゴリーにおいて類や種─それらもまたペルソナと言われることはできない─が排除される。「理性的な本性を有する」と付け加えられることによって、ペルソナではない非生命的物体や植物や動物が排除される。

この引用からは、ペルソナならざるものを排除するために、これらの用語が使用されている。このうち、「理性」概念に関しては、ボエティウスには見うけられないトマス独特な解釈が見出される。それは、理性による自己支配という考え方である。トマスによると、「ペルソナ」と呼ばれる「理性的な諸実体」は、理性を有していることによって、「自らの働きに対する支配を有し、他のもののように単に働かされるだけでなく、自らによって働く」。すなわち、理性を有しているペルソナ的存在者は、「理性と意志の能力」である「自由意志」によって「自らを目的へまで動かす」が、それに対して、理性を欠いている非ペルソナ的存在者は、「自然本性的傾向性によって、自身によってではなくいわば他のものから動かされものとして、目的へ向かう」。換言すれば、「無理性的動物においては、何らかの欲求の特定は単に受動的な仕方で見出される」。例えば、ミツバチは蜜を作ること関してのみ勤勉であるように同一の種に属する動物はすべて同じように行動し、すべてのことについてではなく或る特定の活動についてのみ判断を下す。それに対して、人間は、理性によって自由な判断を下すことができる。人間においては、「欲求の能動的な特定」が見出されるのであり、それが、理性によって「自らの働きに対する支配を有している」ということの意味なのである。

 

第2節 はたらきの基体としてのペルソナ

人間の働きにとって「理性」がこれほどまでに重要な役割を果たしているのであれば、人間の働きの分析においては、理性の役割の分析で十分ではないか、しかし、トマスは単純にそうであるとは言わない。トマスにおいて、人間は、自己の行為への支配を有する者として、ひたすら合理的に目的へと一直線に向かっていくような単純な存在者として捉えられているのではない。人間は、内的な分裂の可能性を孕みつつそれを統合するという多層的な構造を持った存在者として捉えられている。そのことが、「ペルソナ」という存在論的な概念の持ち得る倫理学的・人間論的に意味と深いつながりを持っている。その手がかりは、トマスが「比喩的な正義」と呼んでいるものの分析において見出される。

トマスによると、「正義」のなかにある正しさというのは、行為者と「他者との関係によって構成される。ここにおける「行為者」と「他者」という言葉は二通りに解釈することができ、その解釈に基づいて、正義にも二通りの意味が生まれてくる。その片方が本来的な意味での正義で、もう片方は比喩的な意味での正義である。

すなわち、行為者が他の行為者である他者と関わるのは行為することによる。それゆえ、第一に言えることは、正義は、基本的に、人間と人間の間で実現する。「本来的な意味での正義は基体の多様性を必要とする」のであるから、「一人の人間の他の人間への関わり」において存立する。だが、トマスによると、正義とはそれに尽きるのではなく、そのほかに「比喩的な正義」が存在している。それは、「同じ人間のうちの異なった行為の諸根源」、例えば理性と怒情的欲求能力ないし欲情的欲求能力などが比喩的にいわば異なった行為者と見なされることがある」からである。「一であること」を有しているはずの人間は、それにもかかわらず、感覚的欲求と理性との衝突、または、感覚的欲求同士の衝突という形で、心が様々なものへ向かい、自己分裂を引き起こしてしまう。

このような事情を、トマスは、アリストテレス『政治学』における支配の類比的な理解という観点から考察している。専制的支配に対して、「市民制的・王制的な支配」において、自由人たちは、「支配者の統治に服しているとはいえ、自己に固有な何ものかを有しているのであり、それに基づいて指導者の命令に抵抗することができる」。「知性は様々な欲求を市民性的な支配によって支配している」と言われるのは、「感覚的欲求は自己に固有な何ものかを有しているので、理性の命令に抵抗することができる」という意味である。というのも、感覚的欲求は、「普遍的な理性が導いている思考力」からのみではなく、想像力や感覚からもまた動かされるからである。だからといって、これらのものが理性に服従するような性質を有しているということが否定されるわけではなく、感覚的欲求は、その固有な運動を保ちつつ、理性の「市民制的な支配」に服しているのである。

それゆえ、そのような形で相対的な独立を保っている怒情的・欲情的欲求能力が理性の命令に従うときや、一般的に人間の諸部分にそれにふさわしいものが帰属させられているときには、同じ一人の人間のうちに正義があると言われうる。ここにおいて感覚的欲求能力が理性に対して或る種の他者性を保ちつつ理性の命令に服属するという一なる人間内部の支配─被支配関係が語り出されているのである。その際、「(理性による)命令と命じられる働き」は、理性という「部分」と感覚的欲求という「部分」との関係という観点から見れば「多なるもの」であるが、だからといって全くバラバラな諸部分間のはたらきに過ぎないのではなく、「何らかの全体が一なるものであるような仕方で一なる人間的行為なのである」。それゆえ、理性は、人間的行為の根拠ではあっても人間的行為全体の主体ではなく、あくまでも人間の一部分を為す一能力に過ぎない。「自分の働きの主人」であるのは、「理性」でなく、「理性的な本性(すなわち人間主体)を有する個別的な実体」であり「それ自体で一」であるところの「ペルソナ」なのである。はたらきを為すということは、ペルソナに帰属する。というのも、はたらきは基体と個体に属しているからである。

この基体とは、本性と対比的に使用され、本性を有する個々のものを意味する。それに対して、ペルソナとは、理性的な本性を有しているところの基体なのである。それゆえ、ペルソナは基体の一種として全体で完結しものであり、完全性と全体性という特質を持っている。こうしてペルソナは、理性的な本性に基づいて、はたらき・行為を自己支配的な形で全体的に担う一なる自立的な基体であることが可能になっているのである。

2013年12月16日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(1)

序論

人間は、様々な存在者の相互関係によって織りなされているこの世界のただなかに生まれ、その世界に単に受動的に適応するのみではなく、それらのものとの多様で重層的な関係性を能動的に織りなしながら自らの生を築き上げていく。人間は、「善さ」や「完全性」を有している程度に応じて、存在の保持のために種々の関係性を取り結ぶ「必要がある」のであり、また、「善さ」や「完全性」を有している程度に応じて、自在に豊かな関係性を取り結ぶことができる。例えば、「完全性」・「自足性」を欠いている幼児は、自らの存在のために、養育者との関係を取り結ぶ必要がある。それに対して、成熟した親は、自ら何らかの欠如に促されて幼児と関係性を取り結ぶ必要性があるのではなく、無償の愛に基づいて、幼児と自由に豊かな関係性を取り結ぶことができる

人間存在は自己関係的ではなく、他者や他の諸事物との関係形成の中で、自己自身を乗り超えつつ新しい自己を形成していくことができる。そしてそのことによって自らの自立性を失うのではなく、豊かな関係形成の中で自らの自立性を新たなより優れた形で深めながら維持していくことができる。

トマス・アクィナスは、人間存在のこのような力動的な在り方を、「存在」自体の力動性に基づいて哲学的に基礎づけている。トマスは、単に、「存在」という事実に基づいて、「活動」という結果が生じてくる、ということではなく、「存在する」ということがそれ自体、力動的な活動であるということを言明している。「存在する」という事態が含みこんでいる動的な豊かさが、具体的な「活動」という事態へと分節的に展開していくのである。

本書が目指しているのは、人格(ペルソナ)の存在論的な構造を、徹底的に分析することによって、トマスの存在論的な人間論の構造を、「存在の充実」という観点から、「認識論」と「倫理学」の全領域に渡って統一的に把捉しつつ、「人格の存在論」を構築することである。

トマスが「ペルソナ」という言葉を人間に関して使用するのは、人間を生物学的説明したり、その対人的・社会的な側面を意識論的・行為論的に説明する文脈においてではなく、主に、その自立性と一性を存在論的に明らかにする文脈においである。つまり。ペルソナは「全体的で完結したもの」と言われ、また、「完全性と全体性という特質を持っている」というような仕方で存在論的に規定される。そして、このような「完全性と全体性という特質」に基づいて、「ペルソナは、自然全体のなかで最も完全なもの─すなわち理性的な本性において自存するもの─を表示する」と言われる。そのさい、「自存する」とは、「何らかのものが、付帯性のように他のものにおいてではなく、それ自体によって存在するものである」という根源的な自立性を意味している。トマスはペルソナの基本的な特質を次のように規定している。

理性的な諸実体にあっては、個別的・個体的なものが、(他の諸実体よりも)なお一層、特別なそして完全な仕方で見出される。これらの(理想的な)実体は、自らのはたらきに対する支配を有し、他のもののように単に働かされるだけでなく、自らによって働く。ところが、働きは個体においてある。このゆえに、諸々の実体の中でも、理性的な本性を有する個体は、さらに或る特殊な名称を有している。この名称がペルソナに他ならない。

このテキストにおいて、二つのことが注目に値する。第一に注目すべきなのは、ペルソナは、直接的には、倫理的な主体としてでもなく、何よりも、個体の最高段階として捉えられている、ということである。トマスがペルソナという言葉を人間について使用する時には、その理性的性格と個体的性格に基づいた存在論的な完全性の強調に力点がある。そした第二に注目すべきなのは、ペルソナが他の存在者との「関係」に基づいた存在論的な完全性の強調に力点がある。この二つの注目点を考え合わせると、トマスにおいてペルソナということが語られる原初的な局面においては、ペルソナは、他のペルソナや他の存在者との「関係」において捉えられているのではなく、自立的な「実体」として捉えられているように思われてくる。トマスは、相互的な関係性の中からペルソナがペルソナとして現出してくると考えているのではなく、自存的・自立的な「実体」としてペルソナを定義しているように思われるのである。もしも、そうだとするならば、ペルソナは自己自身へと閉ざされたものとなってしまうのではないだろうか。

このような問いを解きほぐしていくうえで第一に注目すべきなのは、「最も完全」と言われるペルソナとしての人間に言及するときに、トマスが「完全性」の意味を密接につながった二つの意味へと分節化していることである。トマスによると、「最も完全なもの」と言われる人間のペルソナには、密接につながりつつ区分された二つの完全性が帰属する。それは、「存在の十全性」と「目的との関係」である。前者が後者を基礎づけている。だから、人間のペルソナが「全体的で完結したもの」と言われるにしても、その意味は、人間が孤立した仕方で最終的な完全性を生まれながらに有していることなのではなく、自らの外にある目的との関係において第二の完全性を目指してくという目的志向的な在り方を各人がしているということなのである。ペルソナである人間は、所与としての完全性に基づいて、目的志向的な在り方を有し、働きを通して、もう一つの完全性─課題としての完全性─へと向かうような力動性を有しているのである。こうして人間存在には、二つの完全性が、密接に結び付いた仕方で存在している。すなわち、人間が人間である限りにおいて常にすでに与えられている基本的な条件(第一の完全性)と、人間にとって本来的であるにもかかわらず未だ十全な形では実現されていない目指されるべき在り方(第二の完全性)とである。一性と全体性という存在論的な完全性を常にすでに有しているペルソナは、はたらきによる関係性の形成を通して、さらに高次の完全性・全体性へと進んでいくことによって、自らの自立性を自他とのより深い関係性を含み込んだより高次の仕方で完成させていくことができるのである。

本書においては、トマスのテキストに見出されるペルソナとしての人間の力動的な特質を、ペルソナの自立性と関係性という問題意識に即して再構成しつつ、「人格の存在論」を構築していく。「人格の存在論」というタイトルによって意図しているのは、倫理学と存在論の相互関連という観点から、他者や世界との関係性のただなかで成立する人格の自立的な構造を存在論的に分析することである。存在論的考察が自ずと倫理学的洞察へと展開し、逆に、倫理学的考察がその基礎づけを求める中で存在論的洞察を深めていくという、倫理学と存在論の自由な相互連関の中で、トマス人間論の全貌を新たな仕方で浮き彫りにしつつ、「人格の存在論」を構築していきたい。

2013年12月13日 (金)

ターナー展(7)~Ⅹ.晩年の作品│THE FINAL YEARS

いよいよ、晩年のモヤモヤの作品です。これまで見てきた作品は、ここでの作品と比べてみれば、たしかによく描かれた風景画とは言えます。でも、いうならば、その程度、別にターナーでなくても、その力量を持った画家なら描くことは出来たかもしれません。私の独断と偏見でいえが、これまで見てきた風景画は、英国でも、日本でも、どこでもいいですが、アカデミーとかの画壇の権威に昇りつめて、高い評価を得ていた画家で、死後十年もすれば忘れ去られて歴史から消えてしまう画家の作品の域を出ないものだったと思います。絵画鑑賞の消費者の、独断と偏見に満ちた勝手な言いぐさですが、この晩年のもやもやとした作品はターナーでなければ描けないオリジナリティの塊のような作品で、彼の他に、こんな作品を描こうともしなかった、他に類似をみないものだと思います。ターナー自身は、これを未完成として、展示された会場で直前に仕上げる用意をしていて、展示の機会がなく、仕上げの描き足しができなかったので、未完のまま残されてしまった、という説もあるそうで、それは、確かにそうだと思えるものではあります。しかし、絵画鑑賞の消費者である、私のような人間は、それを作品としてみて、面白がっていけないわけはないので、これらはそういうものとして、楽しむというのが私の姿勢です。

Taketurna「平和─水葬」という作品。海景画の体裁をとっています。燃え上がる船のシルエットは、とくに帆柱や帆のところ等はきっちり形がとられていますが、左奥の白く描かれたのは船なのかどうか、また、中央の船が燃えて黒い煙が立ち上っているためか、また、船の影が伸びてきているためか、煙が流されたのか黒い不定形の形が左手前の海面のところにあったり、とよく分らない形があちこちにあります。また、背景の空の雲混じりのどんよりとした風景など、細部をよく見ると、不思議なものが、後から後から見つかるという作品です。タイトルのとおり、イギリスの高名な画家の遺体を水上で焼いて葬っているところを描いたとのことで、単なる海上の風景ではなくて、故人をおくる冥界の渡し船に擬しているとも解説されています。そうなのでしょうが。私には、シンボリックな意味づけよりも、前にも書きましたが、そこにターナー自身なのか、作品を見る人なのか分かりませんが、そこにある種の気分とか雰囲気、具体的で視覚的な発想ではなくて、言葉で、例えば小説なら“沈んだ気持ち”と一言で言えてしまうものが絵画では直接描くことができない。そのようなものを、ロマン主義の影響下にあったターナーは描く志向を持っていたのではないか。黒い煙と影のなかで、炎の色の鮮やかさや画面に散りばめられた不定形になにものか、あるいは全体の色調が何らかの言葉で表された気分というものを何とか画面で表わそうとした。しかし、具体的な見える形にしてしまうと、具体的なものを想像してしまって、気分を感じるには至らない。そうやって試行していったものの一つが、この作品ではないか。

そして、そのような試みを様々に繰り返しながら、出来て画面をみていると、今度は視覚的な面白さを発見した。そこで記号の逆転が起こった、とは考えられないでしょうか。悲しさを表わす涙が、いつか逆転して、涙を見せることが悲しんでいることを表現することになり、さらに嘘泣きというものに発展していく。そのプロセスで悲しいという感情はなくてもよくなっていく。ターナーのもやもやは悲しいという中心を虚った涙のようなものとは言えないでしょうか。つまりは、視覚的効果の塊です。

Tunerlui「フランス国王ルイ=フィリップのポーツマス到着、1844年10月8日」という作品は、明らかに未完成なのでしょう。ここに描かれている、ポーツマスで到着を歓迎する人々の影の薄さというのは、背景の空や海と同じような不定形の一部のようです。ターナーの色遣いの特徴の一つである黄色がとても目立っています。この色彩のグラデーションは画面の中で微妙な変化があって、見飽きないものになっています。

そして、展示の最後にあったのが「湖に沈む夕陽」という作品。タイトルをみれば、そんな感じとも思えるかもしれませんが、形らしきものは何もありません。赤系統の色と黄系統の色によるグラデーションと見ることができると思います。これは、例えば、マーク・ロスコの描く雲のような形態がモノトーンでグラデーションを施してあるのを連想させます。ターナーの方は2色使っているので、より派手で明るい感じがします。ロスコの作品が画面に吸い込まれて様な、静けさを湛えているのにたいして、ターナーの作品は動きがあって輝いているように見えます。もっと開かれた感じで、アピールするものが強い感じです。

Turnersunset

2013年12月12日 (木)

ターナー展(6)

Tunerthree_2Ⅴ.英国における新たな平和│BRITAIN;A NEW PEACE

Ⅵ.色彩と雰囲気をめぐる実験│EXPERIMENTS WITH COLOUR AND MOOD

Ⅶ.ヨーロッパ大陸への旅行│TURNERS EUROPEAN TRAVELS

Ⅷ.ヴェネツィア│VENICE

ナポレオン戦争後のターナーの活動は、独立した画家としてイタリア訪問も行い、その成果も、それなりに発表したという、いわば功成り名を遂げた時期といえるのでしょうか。この時期の後、晩年の作品が制作されるわけですが、イタリア訪問による大作は別にして、この展示では完成し発表された作品の展示は殆どなく、スケッチや習作ばかりで、それはそれなりに参考になるのかもしれませんが、単に好奇心で見に来た私のような人間には、ターナーのことを研究しているわけでもなく、熱狂的なファンでもないので、素通りに近かったというのが正直なところです。研究者にとっては、この時期が晩年の作品に向けての過渡期ということなのか、その手のスケッチが展示の中心だったようです。

「三つの海景」は、とにかく完成した作品と言えそうです。そして、何が描かれているのか分らないようなものになっているので、目立つのでしょうが、タイトルの通りに海岸の波がうちつけてくる様子を三つ並べた、ただし中に上下逆になっているのがあるらしい、というもの。発表を前提にしていたかどうか。

Tunerheidelberg_2ヨーロッパ大陸の旅行の際に描かれた「ハイデルベルク」という作品は、風景画というよりも幻想絵画に見える作品になっています。1.3×2mという大作です。その大きな画面で、これまで見てきたとは違うターナーが迫って来るようでした。今回の一連の展示で、私には馴染みとなったV字型の構図に、焦点となる中央には太陽の黄色い光がぼんやりと描かれ、このように太陽が目立つということは、全体に暗く淀んだような基調になっている。画面全体を見回して、明確な輪郭を持ったものは一つも描かれていない。すべてのものが隣との境界がぼんやりとしてしまって、まるで溶け合ってしまっているような薄ぼんやりして、人物すらも背景のなかに融けてしまっているような、実在感のないものになっています。そこに人間の生気は感じられず、現実の世界というよりは、冥界、死者の世界にいるような、幻想の世界に見えます。画家の大陸旅行を基にして描かれているのでしょうけれど、ハイデルベルクを想起させるような、現実の街の建築や名物は見て取ることができません。多分、イギリスがナポレオン戦争の勝利と経済的な成長によって、富裕なブルジョワが勃興し海外旅行がブームになって、それを対象に海外の風景や名物を紹介するというのが、ターナーのヨーロッパ旅行と作品制作の目的だろうと思います。しかし、この作品は、そのような目的に全く適っていません。これを見て、ハイデルベルクの景色を想像できないし、そもそもハイデルベルクに行きたいと思わせるものではありません。これまで見てきた作品は、たとえ実験的なことを試みているにしても、絵を売るという目的に適う売れ筋を意識しているのが見て取れるものでしたが、この作品は、そういうものが見えてこないものになっています。未完成の作品なのかと思いましたが、中央下に人々の集団がゾンビの行列みたいに並んでいるのをどうやって完成させるのか、を考えると、これはこれで、これ以上仕上げるのは無理なのかもしれません。この作品は、V字型の構図がしっかりしているので、風景画の体裁を一応とっていますが、それが崩れてしまえば、シャガールの幻想的な作品やカンディンスキーの初期のコンポジションに至る前の抽象的な志向を強めたころの作品に似たテイストを感じさせるものでした。今回展示されていたターナーの作品の中で異彩を放つもので、とくに印象に残った作品でした。Kmmurnauwithachurch1910


 

2013年12月11日 (水)

ターナー展(5)~Ⅳ.イタリア│ITALY

ナポレオン戦争が終わり、イギリスにとって平和が戻った1819年、ターナーは43歳になって、初めてイタリアを訪問したそうです。当時のイタリアは、芸術・文化の先進地域であり、古代からの豊富な文化遺産に溢れ、グランドツアーの憧れの地でもあったでしょう。そこで、ターナーは多くの先人の遺産に触れたり、南欧の陽光を目にしたのかもしれません。また、画家の商売ということを考えればイタリアの名所旧跡を描いて帰国後に売ることは、目論んでいたとのではないか、個人的には、そうであったとしたら、理解しやすい人ではあると思います。

Turnervatiターナー本人にとってもイタリアは憧れの地だったのでは、と思います。1928年にもイタリアを訪問していますが、このイタリア訪問の影響のもとにある作品は、ターナーの作品の中では、空が抜けるような青空で、いつものような陰影がなくすっきりしていて、輪郭のはっきりした風景になっているので、彼の風景作品の中では異質に見えます。とくに、この後の晩年の作品で、明確な輪郭とか鮮やかな色彩とかと正反対の方向に向かうことになるので、このイタリア訪問を契機にした作品は、突出した印象を与えます。

「ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ」は1.7×3.3mの大作の油絵です。手前のヴァティカンの回廊の有り様を前景として、下に広がるサン・ピエトロ広場を見下ろすような中景になり、遥かにローマの街並みからアペニン山脈を遠景として見晴らすという三段階の平面を重ね合せたような構造で、細長の大画面を見飽きさせない工夫が為されているように見えます。前景の回廊は、まるで凸レンズで見るような真ん中がへこんで周囲の回廊に囲まれている様が見て取れるようになっていて、回廊に施された文様の装飾が見えやすいように、回廊の天井に描かれた壁画まで細かく描写されています。それは、そのさらに手前に赤い模様の入った布で覆われたテーブルを配し、あたかもその絵を観る者の目前にテーブルがあるかのようにテーブルを手前を省略して向こう側、つまりは絵の側の半分だけを描き、描かない半分は観る者の側にあると言わんばかりに、観る者が臨場感を以って絵に入り込みやすくする工夫が為されています。その点に立って目の届く回廊を見渡す、見えてくる光景が凸レンズで見たようなものになってくるというわけです。そして、回廊の手すり近くには人物を配し、その人物が見下ろすようなかたちでヴァティカン広場の様子が鳥瞰的に描かれています。つまりは、手前の細かな装飾まで観る者に臨場感を持たせるように描かれた前景から、今度は、その前景に描かれた人物の視線に乗り換えて、回廊の下に広がる広場を望むという構造です。ここで、中景という異なる平面にスムーズ移るために、視点の移動を人物を配することによって巧みに行っているように見えます。その橋渡しをしているのが、画面左側の建物です。ここが前景と中景の転換点で、これがなければ、前景と中景に断絶が生まれてしまうようになっています。以前に見たようにターナーは建築物とか船舶とか生命の温か味とか柔らかさを持たない、冷たいほど明瞭な輪郭を有したものを描写するのに巧みで、石造建築が密集しているヴァティカンからローマの光景は、田園風景よりも、ターナーには描き易かったのではないか、と思います。しかし、このようなものは、かっちりと描くことができますが、下手をするとそれで終わってしまう。逆に樹木とか川といった自然の曖昧な輪郭は、ある意味描く側がいくらでもスパイスを利かすことができる。前のところでも、ターナーの作品はコンスタブルのような見たままを描写するのではなくて、それに付加価値をつけて、例えば物語を想像させるといった何かつくりものめいたものであるところに特徴があるとおもうわけです。いうなれば、観る者を惹きつけようとする、よく言えばサービス精神のようなものです。それを、この作品では、視点の移動を巧みに用いることで観る者を飽きさせない工夫を施しているといえるのではないか、と思います。そして、実際のところ、ターナーの作品は平面的に見えることが多いのですが、それで書き割りのような立体性を持たせていると思います。さらに、こんな工夫をさせたのは、画面の3分の1を占める、抜けるような青空と、物体の形状をはっきりさせずはいられない燦々と降りそそぐ乾いた陽光です。イングランド重く湿った空気と光は背景に暈しを入れることができますが、この風景では、それができない。はるかに、遠景のアペニン山脈が遠く霞むようなのが、かろうじて暈しが使われているというところでしょうか。全体として、工夫が凝らされた大作ではあるのですが、制作期間が短かったのでしょうか、薄塗りで素早く描かれた感じがします、それが、どこか仕上げが甘いというのか、どこか大作の重厚感に欠けた印象もないではありません。

Turnerreguターナーは1828年に2度目のイタリア訪問をします。その時に制作されたのが「レグルス」という作品です。今回の展覧会ポスターにも使われた作品で、今回の展示の目玉ということなのでしょう。レグルスというのはポエニ戦争でカルタゴの捕虜となったローマの将軍のことで、かれは暗い地下牢に監禁され、瞼を切り取られた後、牢獄から引きずり出され、陽光に当たり、失明したという伝説があるそうです。ターナーはその瞬きできないレグルスの目に眩いばかりの陽光に晒さられる瞬間、レグルスの目に映ったであろう瞬間を描いたということです。レグルスにとっては目を焼き尽くす、燃え盛る白熱の太陽が、画面の中心にあって、絵を観る者は烈しい光は、あたりを神々しく照らす光の洪水にも見えなくもありません。この作品の構図はクロード・ロランの「夕日の港」を参考にした、というよりはパクッたものであることは明らかです。しかし、陽光の描き方がターナーの作品を違ったものにしています。「ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ」以上に風景を“つくった”のがこの作品ということでしょう。一応、歴史画ということなのでしょうが、形は風景画です。それに演出を加えるというターナーの制作方法は、ここで、かなりエスカレートして突き詰められたと言ってもいいのではないでしょうか。構図は、クロード・ロランの作品から持ってきたものではあのでしょうけれど、前の「崇高」な風景画を制作していたときに頻繁に用いられたV字型の構図そのものです。左側の帆船の帆柱と右側の港の建物は、「崇高」な風景画の深く切れ込んだ溪谷の岩肌とおなじ構図です。そしてV字に切れ込んだ中心の空虚に、この作品では太陽がある。ただし、太陽そのものは眩い陽光のゆえに見えません。描かれていないんです、太陽は。そこには光だけがある。というよりも光は物体ではないので、光に映える空気や、海面や建物や船があるだけです。つまりは、V字型の構図の中心には何もない空虚になっているわけです。だからこそ光という物でないものが強く印象的という以上に神秘的に表現できたと言えると思います。そして、強い陽光に目がくらんで「ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ」では明瞭に描かれた建物や船がぼんやりとしてしまって、ターナーがイギリスの風景を描いていた時と同じような霞む風景になっています。これまで、イギリスの風景を描いていたと同じやり方で、イタリアのどこまでもはっきりした風景Turnerroranを描いてしまったことになります。これは、ぼんやりとした風景を見慣れていたイギリスの人々にとっては却って馴染んだ風景でしょうし、それに伝説という想像の付加価値がついて、ぼんやりとして風景が正当化されている、ということで感動のお膳立てをしてもらっているようなものです。ターナーは、そういう絵を観る人々をみて、「してやったり」とほくそ笑んだのではないでしょうか。これは、私の想像ですが。そして、この想像をさらに進めれば、このような成功に気をよくしたターナーは、このような演出を加速させていって、演出の要素がどんどん大きくなって、しまいにはもとの風景がどうでもいいようになってしまった挙句が、晩年のもやもやして何が描かれているのか分らないような作品にまでエスカレートしていってしまったのではないか。これは、私の妄想です。

Turnerharoそして、「チャイルト・ハロルドの巡礼─イタリア」という作品も今回の目玉のひとつということでしょう。イタリアの風景を描いているのでしょうけれど、全体の感じは、以前にイギリスの風景を描いた「イングランド:リッチモンド・ヒル、プリンス・リージェントの誕生日に」と似通っています。つまりは、この時点で描かれた風景の違いよりも、風景をどう描くか、どう演出するか、ということにターナーの主眼があったことの証になっているのではないか、と思います。ここから、描く対象となる風景そのものがなくなってもいいではないか、と考えることとは紙一重です。

電車で席を譲られた

先日、帰宅途中の電車のなかで、吊革につかまっていると、目の前に座っていた若い男性が私の目を見て、すっと立ち上がった。私に何か信号を送っているようだが、最初、何が合ったのかあったのか分かりませんでした。どうやら、私に座席を譲ってくれたようでした。生まれて初めてのことでした。その時は、戸惑いと、恥ずかしさしか感じられませんでした。

そのあと、自嘲気味にココログで呟いたりしたのですが、このところ、なんとなく心に引っかかって、何か釈然としない日々が続きました。最初は、「これでオレも、そんな年齢(老人)の仲間入りということか」などと老年に差し掛かりつつあることを寂しく思ったりしていたのかと思いました。

そんなことを考えるでもなく、なんか頭の中から離れない数日後、今度は、先日とは逆に、電車の中で自分が座っていて、目の前に立っている人に席を譲ったのでした。未だ、心のひっかかりが残っていました。その時、数日前の自分のことを思い出したのです。そして、今、席を譲った自分を比べていました。そして、席を譲った自分は、譲ったときに、ちょっと自分を誇らしかったり、とまでは行かないまでも、ちょっと気分が良かった、ということに気が付きました。そして、その裏返しで、譲って座ってもらった人に対して、多少の憐み、とまでは行かないまでも、多少の優越感を抱いていたということも。そして、席を譲られたときに、私に席を譲ってくれた若い人に対して、私が、そういうことをしたときに懐いてしまう、相手に対する微妙な憐みを、感じ取ってしまったのではないか。もしかしたら、その若い人は、私と違ってそんな優越感をもつような人ではなかったのかもしれません。私が、優越感を持つような人間なので、立場が違ったら、逆に劣等感を持ってしまっただけかもしれません。

なんか、私の捻じ曲がった根性に起因する僻み、ということだけの話かもしれません。そのせいか、変にブライトだけは高いという、しょうもないところもある付き合いにくい性格なのですが、席を譲られたときに、そういう憐み、というほどのことまでいかないまでも、年寄りを大切に保護してやろうという上から目線、というのを、その立場になって被害者意識かもしれませんが、ちょっと感じてしまったのでした。席を譲るということには、そういう心持ではなく、反対に敬意を持って、座っていただく、というのが本来の(ちょっとタテマエでしょうが)ものだったのではないか、とちょっと思ったりしました。

そういえば、と、家族でも、職場でも、友人でも、相手に敬意を払うということを、最近忘れていたような気がします。

ちょっと説教くさい投稿になりました。

2013年12月10日 (火)

ターナー展(4)~Ⅲ.戦時下の牧歌的風景│TUNER’S PASTORAL VISION IN A TIME OF WAR

Turnerhouseここでいう戦時下とはナポレオン戦争のことで、現実の世界が動揺しているのに対して、泰平、静穏な日々の営みを彷彿させる牧歌的な景観をターナーは描くようになったと言います。前章の「崇高」さを求めて大自然の厳しい姿を描いていたのと、180度方向転換したのでしょうか。美術史の教科書をみれば、ターナーと同時代のコンスタブルはバルビゾン派の先駆けとなるような牧歌的な田園風景を穏やかに描き、これに対してターナーはロマンチックな激しい風景を描いたとなっていましたが、これは、コンスタブルへの歩み寄りということなのでしょうか。このことは、後で触れたいと思います。

ナポレオン戦争時は、フランスは海軍力で劣るイギリスに対しては大陸側を封鎖して、イギリスをヨーロッパ大陸に入れない、つまり、実質的に海に閉じ込める戦略をとったはずで、イギリスは大陸との貿易ができなくなったはずで、物資の不足や経済の停滞と戦時体制で、大仰な歴史画や大自然の厳しい風景を描いた激しい作品よりも、ほっとさせる穏やかな平和だったころの日常的風景を描いた作品の方が受け入れやすいのではないか、そう考えたって不思議ではないと思います。それほど豊かではない生活状態だったはずのターナーにとっては作品が売れなければ生活ができないので、こういう方向の作品の傾向を移していくのは、正解だったのでは。この展覧会をみていると画家の生涯の時間的経過に沿って作品が並べられていますが、この時期と言い、戦後の平和が戻った後はイタリアに渡り、その外国情緒を描いた作品を売るという商売っ気ありありの、消費者ニーズを意識していると明らかに見えるところが、ターナーの才能を示していると思います。展覧会では、あまりそういうことには触れないで、芸術至上みたいな感じですが。例えば、これを機に、テムズ河畔のアイズルワーズに家を借り、周囲の牧歌的風景を戸外で制作するようになったと言います。こうした描き方をするには、筆の運びをある程度軽やかに、素早くしなければならない。それが目を凝らして観察した自然の姿を、そのまま絵に描きとめる手法とあいまって、新鮮で率直な習作を生み出す。

Turnercons「河畔の家、木立と羊の群れ」(左上図)は、上で説明されたような、アスルズワース周辺の風景です。カンバスをストレッチャーに張らずに板にピンでとめて持ち出して、薄く伸ばした顔料で、おおまかな筆遣いが一気呵成に描いたような印象を謳えます。とくに水面のさざ波や反映を描く躍動的な筆痕の連続によくあらわれている、言います。例えば、コンスタブルの「干し草車」(右図)という作品と比べてみると、ターナーの作品の方が、上で説明したような一気呵成に、悪く言えばコンスタブルほど丁寧に描かれていない感じです。しかも、コンスタブルに比べると画面がうるさい印象です。例えば、ターナーの作品では画面の左右で明暗の対比をはっきりとさせ、それが樹木の描かれ方が左側と右側とでは対照的になって、池の描き方も、左側の無人の船は日陰に打ち捨てられるようにあるのに対して、家畜の群れは左側の明るいところに言います。これだけで寓意的な想像するのは考えすぎかもしれませんが、そこに想像を掻き立てるような物語的要素が散りばめられているように見えます。陽光のうつろいとか、池の水面のさざ波とか樹木が揺れる様子とか。これに対して、コンスタブルは一つの場面を丁寧に切り取ったという印象で、ターナーとは逆に想像を掻き立てるような物語要素は感じられません。そこにあるのは、禁欲的な潔さのようなもので、絵そのものを見てくれと言わんばかりです。ターナーの作品に比べて、左側の空が切れてスカッとした爽快感があり、手前の車に視線が集まるようなポイントで安定した感じが穏やかな風景を印象付けます。これに対してターナーの作品には中心がなくて、しかも対立的要素によって構成されて、視線を動かすように工夫がなされ、端的に言えば“つくられた”感じが強いです。

Turnerhamo_2「セント・ジョン村からハモウズの入江を望む、コーンウォール」という作品は下塗りされた紙に油彩で描かれた作品。屋外で手早く、まるで水彩画のように描かれた作品です。たしかに、穏やかな牧歌的風景ですが、バルビゾン派やコンスタブルのような人々の生活に密着した風景というよりは、絵画作品を購入してくれるであろう貴族や金持ちのブルジョワが郊外に館を構えて気晴らしに眺めるような風景、ハイキングや狩りの途中で眺めるような風景と言えるでしょうか。手前の人物は、地元の人間かもしれませんが、ここに眺める人物を配置することで、風景にそういう想像の余地を与えているように感じられます。「河畔の家、木立と羊の群れ」もそうですが、物語の一場面とでも言うような“つくられた”感じが、どうしてもつきまといます。それが、ターナーの作品へのとっかかりの良さになっているのでしょう。前の「崇高」といい、ここでの牧歌的といい、このころのターナーの作品には、言葉で表された気分のようなものが先に在って、その前提のもとに作品が構成されているように見えます。

そして、もしかしたら、これは後から思えばという発想の見方ですが、このような言葉による、視覚から出て来たのではない、気分のようなものから作品をつくっていこうとすることが、後年の靄のような作品に遥かつながっていくのではないか。そして、光と陰の移ろいや揺れる水面を描こうとした書法が突き詰められていって茫洋とした靄のような光景を描く筆遣いに発展して行ったのではないか、と想像してもおかしくはないと思います。

2013年12月 9日 (月)

ターナー展(3)~Ⅱ.「崇高」の追求│IN PURUIT OF THE SUBLIME

Turnershower風景に対するターナーのアプローチに重要な影響を及ぼしたのが、見る者の心に畏怖を抱かせる自然の「崇高」さを美しいとみなす価値観だった。エドマンド・バークは『崇高と美の観念の起源』の中で、奔放に荒れ狂う自然を目の当たりにするとき、人の心にわき起こる強烈な不安や恐怖に思索をめぐらせた。「崇高」には古典的な美に劣らないほど、人の心に強く働きかけ、精神を高める力があるとバークは論じた。美術の分野では、これが視覚的な刺激の追求となって表われた。鑑賞者は雪崩や地震、激しい雷雨や時化の海など自然の根源的な力を描いた絵を見て、身を安全な場所に置いたまま、危険を体験することになった。絵描きとして出発した当初から、「崇高」を求めるこの独特の表現法はターナーの志すところと難なく一致した。ターナーは風景画も、歴史画と同じように、人の感情と知性に強く働きかけることができるということを実地に示そうと試みる。崇高な風景を描くうちに、ターナーは当然ながらドラマチックな自然現象が人の感情に与える力を探り当てるチャンスに恵まれた。何にもましてターナーの興味を駆り立てた地勢が山だった。と、この「崇高」さについて、長い解説が付されています。

Turnersnowdon2「バターミア湖、クロマックウォーターの一部、カンバーランド、にわか雨」(左上図)という作品。雨雲に覆われた暗い風景の中で虹が輝かしくかかっているという作品。画面全体を前景、中景、後景に分けて、中景だけに雲の隙間から日が差している。それゆえに虹がかかったのだろうけれど。そこで日が差したところは陽光に輝き、まるで黄金の都のように映える。これに対して前景の湖は暗く、手前の樹木と湖面に浮かぶ船は影になっている。この大きさと中景、後景の大きさの対比が、奥の風景の大きさを対照的に強調している。そして、後景の山は暗い雨雲にけぶっている。ここでは、明と暗、遠と近、大と小が対照的に置かれて、この対照が劇的な雰囲気を盛り上げていると言えます。そして、後景の山容が真ん中がくぼむV字の形になっています。これは前回で見た「ウォリスの岩壁付近のエイヴォン川」でもそうなのですが、ターナーは山を描くときに川や湖と一緒に描くことが多いのか、ターナーの志向性なのか、山容を真ん中て屹立させるような構図よりも、真ん中を溪谷や谷間して鋭く切り込ませる構図を好んで採っているようです。この作品でも、ちょうど虹の端がV字の底に落ちていて、そこに陽光が差して輝いていて、そこに視線を集めるような構図になっています。この構図について、後でゆっくり考えてみたいと思います。

Turnersnowdon「ナントレ湖越しに望むア・ガーン山、遠方にスノードン山」(右上図)「スノードン山と深い谷、隊列を組んで進む軍隊」(右図)という、未完成の水彩画です。水彩画といっても、前の「バターミア湖、クロマックウォーターの一部、カンバーランド、にわか雨」という油彩作品しサイズは変わりません。これは、「崇高」という印象を与えることを考慮すれば、画面が小さければ人は見下す視線をとってしまい、自然の脅威に畏れる感情は起こりません。その効果を考慮しているのではないかと思います。この二つの作品の構図を見てみると「バターミア湖、クロマックウォーターの一部、カンバーランド、にわか雨」では、右手前のア・ガーン山と左遠景のスノードン山の間はV字に切れ落ちています。また、「スノードン山と深い谷、隊列を組んで進む軍隊」はVに鋭く切れ落ちた溪谷が中心にあって、そのV字の稜線が幾重にも奥に連なって、再奥にそびえるスノードン山の山容は真ん中ではなくて左手によっていて、真ん中は空にあてられています。解説では、ターナーは山を「崇高」さを表わす素材として見出したように説明されていますが、ターナー自身は必ずしも山を描きたいと思っていなかったのではないかと思います。参考にノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダールの風景画を見て下さい。中央に白銀の険しい山岳が屹立するように描かれていますが、この山容そのものが人事を寄せ付けない厳しい自然の「崇高」さを感じられるのではないでしょうか。山そのものを描くことで、「崇高」さを表わすことが十分可能であることを、この作品はTurnerdahru示していると思います。これに対して、ターナーは山を描くとしても、ダール(左図)のように中心に置きません。しかも、山をはっきりと描くことはせずに、遠景でどちらかというとぼんやりと霞むように描いています。もう一つ参考に、アルプスの画家ジョバンニ・セガンティーニの晩年のアルプス三部作のうち「生」という作品です。この作品では、必ずしも山が中心に描かれているわけではありませんが、背景で遥かに聳えるアルプスの厳しい岩稜が手前の人の生活と対比的に見ることができ、自然の厳しさが想像できるものです。セガンティーニ(左下図)のように遠景の山を明瞭に描くこともできたはずなのに、ターナーはそれもしていません。それは、どうしてなのでしょうか。V字の構図、あるいは遠景の山を明瞭に描かないということは、V字の構図で生じている空隙を埋めている空、あるいは空気、もっと言えば虚無の空間を実はターナーは重視していたのではなかったのか、これは私の仮説です。このことを頭の片隅に置きつつ、これからの作品を見ていきたいと思います。

Turneralps自然に寄り添うターナーの「崇高」の解釈は、歴史や神話の出来事をテーマに据える野心的な油彩画の大作の土台ともなった、「エジプトの第十の災い」には、神がエジプト人の初子たちに加える激しい懲罰の視覚的な隠喩として、崇高のイメージの中でもとりわけ厳しいものが用いられている。と解説れている「エジプトの第十の災い:初子の虐殺」(右下図)という油彩の大作。ターナーはニコラ・プッサンの画法を模倣した。平面を重ねて奥行を出したり、暗い色調を用いたりしているところに、プッサンの影響が明瞭に表われている。プッサン風の「歴史的崇高」に加えて、ターナーは「黙示録的崇高」と呼ばれる表現も採用している。前景で子ども死を悼む女たちの姿によって表わされる物語の詳細は、雷雲、強風になぎ倒される木々、劇的な光と影の対照などに圧倒されて目立たず、作品は全体として、ターナーが繰り返し主題とした、圧倒的な自然の威力の前でなすすべもない人間の無力さを強く印象づけるものとなっている。と解説されています。

Turneregypt私には、ここで見た風景画の書法に人物が加わり、サイズが大きくなったことで表面的な迫力を感じさせるようになったということで、基本的に風景画とは変わらないように見えます。ただし、歴史画ということで、絵画作品の背景に物語が既にあって、その物語を知っている人はその一場面として見るでしょうから、風景に対して過剰な意味づけをしようと。することになります。そのときに、ターナーが「崇高」ということを見る者に感じさせることを志向していたとすれば、このことは有利に効果的に働くでしょう。物語に崇高を感じていた人たちが、その場面を見れば、自ずと崇高を感じ取りやすくなるわけですから。それは。参考として見ていただいているプッサン(下図)に比べてターナーの作品で描かれている人物に動きがなくて、まるでビルディングの建設現場にある簡易予想図のイラストの人物のように建物の添え物の域を出ていません。

Turnerpusan


2013年12月 8日 (日)

ターナー展(2)~Ⅰ.初期│BEGINNINGS

Turneravonターナーは14歳でロイヤル・アカデミーの美術学校に入学を許され、厳格な履修過程に勤しみ、当時の職業的な画家必要な技能を短期間のうちに身につけたといいます。画家になりたての頃から、ターナーは歴史画を美術の最も高尚なジャンルとする既成の価値観に抗い、美術界の偏見を突き崩そうと試みる。ターナーは歴史画ではなく風景画に打ち込み、風景画を理知的な表現形式に高めようとして力を尽くす。これに加えて、主に素人画家や花を描く女性画家の領分とされていた水彩画を重視する姿勢を貫いたのも珍しい。と、後にターナーの芸術を特徴づける重要なテーマの多くが、画家として独り立ちしようとするこの時期にすでに芽生えており、海の情景を好むこと、旅好きなこと等もうかがえる。というように解説されています。

「ウォリスの岩壁付近のエイヴォン川」という水彩画は、いわゆる絵になる風景となっていて、手前の木の枝ぶりや中央のヨットなどの道具立ては絵葉書のようです。「エイヴォン川の12の風景」という版画集として出版する計画があったということですが、今で言えば名所の紹介のようなものではなのいか、と思ったりします。比較できるものではないでしょうが、日本の江戸時代の歌川広重の「東海道五十三次」の版画集のような、なかなか旅に出られない庶民に名所の風景を紹介して見せるというようなものとして描かれているように、私には思えます。また、このターナー展を通して見てみると、この時代の画家が稼ぎをするときに一番便利なはずの肖像画が一枚もなかったのが驚きでした。自画像もほとんどない。それは、多分、ターナー自身が肖像画が上手くないことの自覚があって、早くから肖像画以外で収入をえることを考えていて、名所を紹介するようなとか挿絵のようなものとしての風景画を追求していったのではないか、と勝手な想像をしてしまいます。解説では伝統的な絵画のヒエラルキーに抗ったようなことが書かれていましたが、歴史画を描くには歴史や文学の教養が必要だし、手間もかかるので、駆け出しの知名度もなく、生活の余裕もないターナーには着手するのが難しかったのではないか。事実、この作品を見ても、巧いという印象を先ず受けます。本人も、得意分野との自覚があって、そこで生きる道を探したのではないか、と思いたくなります。というのも、これを見ているとターナーの明らかな個性が分からないのです。

Turnerdur次の「ダラム大聖堂の内部、南側廊より東方面を望む」という水彩画。これを見ると、後の船もそうなのですが、ターナーという画家が建築とか船とかの人工の構築物の描写が抜群に巧かったということが分かります。先に見た、「ウォリスの岩壁付近のエイヴォン川」でも、樹木や森などの植物の生命感のあるものよりも、背景の岩壁の無機的な物体の方がキチッと巧みに描かれているように見えます。形態がカチッと決まって輪郭が明確な物体、揺らいだり、動いたりなどして形態が変化しないもの。柔らかさとか微妙さ陰影のようなグラデーションによるのではなくて、どちらかというと白黒のハッキリとした物体。これに太陽の光線が差し込むと、物体自体が固く表面に素材上の変化がないために、光線の反射を法則的に考えて、光線だけに留意して描くことができる。陽光の差し込む効果だけを考えて、つまりは光を抽象化させることができるわけです。ところが、人物では、皮膚の表面が微妙に変化していて、その変化の不規則さが生命感を醸し出すことになるのですが、ターナーは多分、それを表現するセンスに欠けていて、それを自覚していたのではないか、と私には思えます。むしろ、この作品のようなゴシック様式の複雑に建物の構造であっても、構成するパーツは単純なので、描くときは単純なパーツの組み立てとしてパターン化させることができます。だから、ターナーの風景画は構造とかパースペクティブを表現する志向が高くなっていきます。その反面、細部にこだわるような超細密のような方向性はありません。それは、水彩画という初期のターナーが盛んに描いたものの影響もあるかもしれません。

Turnermoon「月光、ミルバンクより眺めた習作」という小さな油彩の作品。それまで、水彩画を描いていたターナーが油彩を描き始めたころの作品で、絵の具の塗りは薄く、水彩画の用法をなぞるかのようだと言われているようです。ロンドンを貫いて流れるテムズ川に降りる夜の帳、その静寂に満ちた詩情を喚起する見事な興趣に富む。””水面に映る月明かりのハイライトは、情景を照らす唯一の光源として揺るぎない筆捌きで描いた満月の白い円盤の下方に、この上なく繊細な白の絵の具のタッチで表現されている。と解説では、多くの言葉を割いて説明されています。月明かりの淡い光の中で、川辺の風景は影となって、輪郭の形態を抽象することができ、物質表面の質感とか、空気感とかは明るい陽光が当たってはじめて見分けられることで、さらには遠方を細かく見渡すこともではないため奥行も感じることはできません。それらの絵画要素を切り捨てることができて、ターナーはそれを積極的に活用して、平面的な光景で月だけをくっきりと描き、それ以外は影絵のように平面的にすることで神秘的な印象を醸し出していると思います。また、暗さのグラデーションを描き分けて、晩年の靄のような作品に通じると、後付けですが思わせるところも見せています。これを以って、晩年の作品の先触れと見るのは恣意的な気もしますが。下の作品は、ターナーが参考にしたかもしれない、ジョセフ・ライト・オプ・ダービーの「マットロック・トーの月光」ですが、比べてみるとターナーの方が夜の暗さの中で、風景全体が見渡せないことを積極的に利用して、神秘性を強く感じさせるものになっているのが分かります。Turnermoom2


2013年12月 7日 (土)

ターナー展(1)

Turnerpos都心でのセミナーの帰り、雨模様の天気だったが、展覧会の感想を書き綴ること、それを見てくれる人が現われたということが、動機の多くを占めるようになって、多少の無理をしてでも出かけるようになってきた、と自覚症状を認識している。また、これからは仕事で都心に出る機会も、それほど多くなくなるので、今のうちにという心持ちも働いている。そして、このところ抱え込んでしまっている屈託の捌け口として、効果はあるかどうかは分からないけれど。

夕方という時刻と雨という天気のせいか、予想された混雑はなくて(とは言っても、ひとはそこそこいたけれど)、落ち着いて作品を観ることのできる状態ではあった。ただ、閉館1時間前という制限があったので、どうしても限られた時間を考えてしまい、また閉館時間前のアナウンス放送も何度か入って、最後は急き立てられるように作品を観ることになってしまった。時間をかけてゆっくり鑑賞するとか、何回も会場に足を運んで、気に入った作品を繰り返し鑑賞するということもないので、一発勝負。カッコよく言えば一期一会。だった。今回の展覧会は、スケッチや習作の類もおおく、ターナーの作品は似たようなものが多いため、一回目で見たい作品を絞って、二回目以降でじっくり鑑賞するというやり方は適していると言えなくもない。

さて、主催者のあいさつの中では、次のように紹介されています。1775年に生まれたターナーは、10代で英国各地の風景や名所旧跡を描く地誌的水彩画家として出発しました。そして、26歳で早くも英国美術の最高権威であったロイヤル・アカデミーの正会員に選ばれるなど、若くして成功を掴みました。生涯にわたって風景表現の可能性を探求し続け、「崇高な」自然を描き出そうとした作品や、光と色彩に溢れる幻想的で詩情に満ちた作風から、ロマン主義を代表する画家の一人と称されています。…西洋美術史において風景画の可能性を広げ、英国絵画の地位を飛躍的に高めた巨匠の作品を間近で鑑賞し、その神髄に触れていただければ幸いです。ここに主催者の意思が感じられるか、微妙な気がしますが、とりあえず優れた風景画家としてターナーを捉えているようなのは、ターナーのスタンダードな伝記にしたがって網羅的なのだろうと想像できるだろうからです。

私にとって、ターナーという画家は晩年の茫洋としたような、輪郭の判然としないような、靄のような、ほとんど抽象画のような、数点の風景画を描いたということに尽きます。偏った見方であることは自覚していますが。それが、今回の展示を見てみると、作品は大半は絵葉書のような風景を紹介するような、型にはまった風景画というものでした。それが、晩年の作品を描いた画家と同じ人物とは到底思えないのでした。例えば、最初絵葉書や挿絵のような風景を描いているうちに、徐々に作風が変化してきたという軌跡は見つかりませんでした。では、何か転機があって晩年に突然画風が変わったのか。それとも、生計の糧を得るための絵と自分が描きたい絵を区別して、いうなれば二重生活のようなことをしていたのか、そんなことを想像したくなります。そんなことを頭の片隅に置きつつ、作品を観ていきました。

展示は以下のように、細かく章立てられていました。

Ⅰ.初期│BEGINNINGS

Ⅱ.「崇高」の追求│IN PURUIT OF THE SUBLIME

Ⅲ.戦時下の牧歌的風景│TUNERS PASTORAL VISION IN A TIME OF WAR

Ⅳ.イタリア│ITALY

Ⅴ.英国における新たな平和│BRITAIN;A NEW PEACE

Ⅵ.色彩と雰囲気をめぐる実験│EXPERIMENTS WITH COLOUR AND MOOD

Ⅶ.ヨーロッパ大陸への旅行│TURNERS EUROPEAN TRAVELS

Ⅷ.ヴェネツィア│VENICE

Ⅸ.後期の海景画│TURNERS LATER SEASCAPES

Ⅹ.晩年の作品│THE FINAL YEARS

個々の作品を、この章立てに沿って見ていきたいと思います。

2013年12月 5日 (木)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(7)

.時間性の問題─「存在の意味」とは「時間性」のことである

『存在と時間』の後半部分に入ると、ハイデガーは、息せき切ったようにして、「時間性」という問題を出してきます。「時間性」の問題は、自分の存在の最後を考えるという文脈で、「完成の可能性」を考えるという連関で提示されます。私たちのあり方の分析で、今まで問題にされてきたのは、「完成されていない」あり方だった。そのために、今までの分析は、「根源」を明らかにするような分析ではない。私たちにとって、「完成の可能性」はどこにあるのだろうか、この問題を取り上げなくては、自分あり方について基礎存在論的な分析をしたとは言えない。存在論を仕上げるには、自分の存在の完成した姿を考察しなければならないと言うのです。

しかし、問題があります。現に生きているということは、まだこれからも生きるということです。従って、ハイデガーが言うように、存在論の完成のためには、今のあり方には「まだない」という部分を考えなくてはならない、今のあり方のなかにまだ回収されていない部分についての思想を展開しなくてはならない。つまり、「完成の可能性」の方から、自分の姿を捉えることが必要となります。私たちにとって、自分の存在の完成とは何でしょうか。自分姿の最後となるのは、どのようなあり方でしょうか。それは、時間的には「死」のことです。私たちの存在は「死」というかたちで、完成を見ます。

しかし、自分の死という出来事は回収不可能な出来事です。それは、もはや「世界のうちにいる」自分にとっての出来事ではありません。ですから、時間的な最後としての「死」は、到来する可能性して、先取りして受け止めることしかできないのです。つまり、死を覚悟しつつ生きるという「死と向かい合ったありかた」としてのみ受け止めることができます。死と向かい合う時、私たちにとって、「死」は一定時点での生物的な機能停止ではありません。むしろ、いつでもありうる可能性、絶えず到来する可能性という姿を取ります。時間的な完成としての「死」が到来する可能性であるように、自分の姿の完成も、絶えず到来する可能性として、そこへ向かう形でしか可能でないのです。私たちは「死を覚悟して生きる」ことで、ある種の完成へと向かうことになります。

けれども、そう語りながらも、ハイデガーは、絶えず到来するものと言う問題から目を離すことができません。根本的な気分や、刻々と近づいてくる死という形で、自分の方へやって来るものに目を奪われてしまうのです。自分が先取りするものではなくて、自分の方へと到来するものです。

「死」は、自分の時間の終わりという形をとってやって来ます。「気分」は、状況が自分でコントロールできない、もうどうにもできないという形で、何かの到来を告げます。そして、何かの可能性は、自分が先取り的に理解する可能性です。可能性が現実になるのは、時が満ちることによってです。このように、時間は、あちこちの場所からまるで私たちに目配せするように、これまで分析した現象のあちこちで姿を現します。「気分」は、私たちの存在が「投げ入れられた」過去の痕跡を示し、「理解」は、先行的な「投げかけ」というかたちで未来を指す存在論的時間の矢となります。そして、「世間一般」に堕ち込んでしまう私たちの日常的自分は、現在という時間への埋没を意味することになります。どうも、私たちの存在は、このように、様々な時間の系列の中で、絶えず何か到来するものを受け取っているようなのです。時間とは、私たちの方へと到来するものが、私たちの方へと到来するために取る形式かもしれないのです。

 

この本の初めのところで、存在論の究極目標は、「存在の意味」の解明であることが説明されました。ハイデガーは、すでに『存在と時間』の冒頭で、「存在の意味」とは「時間性」のことであると定義しています。私たちは、自分の存在の内に、様々な時間の流れを抱え込んでいます。様々な時間の流れを抱え込むことで、様々な存在が到来するのを可能にしているのです。もし、様々な時間の流れを一つにまとめる「時間性」という問題が解決されれば、私たちが抱え込んでいる様々な存在についても解明できるはずです。つまり、「存在の意味」が解明できるはずです。そして、存在論が完成する筈です。

そして、存在論は完成することなく途上となってしまいました。いや、むしろ、私には「時間性」の理論は完成されてはならないとしか思えません。「存在の意味」は究極的な形で解明されてはならないのです。なぜなら、私たちはまだ生きて存在しており、私たちの後にもまたせおびただしい存在が生きてくれるだろうからです。存在の事実が終わっていない以上、存在論も終わってはならないのではないでしょうか。ハイデガーの存在論が途上でしかないという事実は、私たちひとりひとりに、「存在論的な途上を生きる」とでも言いましょうか。自分の存在を存在論的に位置付けるという重要な課題を与えます。私たちひとりひとりの「自分の存在」は、存在の破片のようなものです。それだけで完成することはない出来事です。けれども、また、同時に、破片である私たちひとりひとりの存在こそが、存在論を完成させるために唯一不可欠な手がかりなのです。存在論がたえず途上であり続けるための基盤なのです。

皆さんのひとりひとりの生きてあることは、ひとつのかけがえのない存在論的出来事であり、そのかけがえのなさにおいて、存在論という哲学も成り立っているのです。「自分が存在している」という明白な事実は、壊してはならない事実なのです。

2013年12月 4日 (水)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(6)

.「世界のうちにいる」とはどのようなことか

「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちで体験される世界が、私たちが生きている世界でした。この世界は、客観的に捉えられた世界とは別の姿をしています。ハイデガーは、存在論的な世界は、「気を遣う」という私たちの態度によって構成されていると言います。「気を遣う」という態度が、「切っ先が自分の世界に向かっている」ように世界を引き寄せるのです。生きるとは「気を遣う」ということだ、とハイデガーは言います。私たちが生きていくことは、いわば、様々な気になることと関わっていくことなのです。これが生きることの本質です。ですから、私たちが関わる世界は、中立的な無色透明の世界ではありません。「気を遣う」という私たちの側の態度に規定された中立の世界であり、さまざまな「意味」を持ち、様々な意味の担い手という姿をした世界なのです。価値や価値判断とは関係のない中立的な事実の世界がまずあって、そりに様々な意味が与えられてくるというふうではない。私たちは、最初から、様々な意味の中で生きています。

ハイデガーは、この「気を遣う」という私たちの態度をもとに、私たちが身を置いている世界がどのような形で現象してくるかを分析しています。「気を遣う」ということは、単なる心理的状態ではありません。気を遣うことで、人は、独特な仕方で、あることを自分の方へと引き寄せます。気遣いとは、ある存在が、その存在なりの姿をとるようにしてあげる、あるいは、その存在なりの姿を保つようにしてあげることを意味します。自分のためではなく、その存在の本来のために心を遣うことです。「世界のうちにいる」とは、「気遣い」によって「自分にとって」引き寄せられた世界のうちにいることなのです。

 

ハイデガーは、「うちに」というドイツ語から連想される一連の言葉が持つ力に依拠して、私たちの「世界のうちにいること」のありようを捉えています。そのことで、「うちに」が部屋に椅子が置いてあるような空間配置ではないことを明らかにします。空間的な<一方が他方の中に>という関係ではないのです。ドイツ語の「うちに」は、何よりも「住まうこと」「滞在すること」と関係がある、その地にとどまり続け、そこを自らの居場所と出来ることが想定されているというわけです。ある場所を開拓し、そこに馴染み、慣れた自分の居場所としてそこにとどまり続けることを意味します。このような「うちにいること」は、私たちにとっては自明のことに思われます。けれども「うちにいること」を存在論的に分析してみると、このごく当たり前のことが、実際は、非常に不安定な構造を持っていることがハッキリします。

例えば、部屋にテーブルがあります。そしてその手へブルの前のソファに、Rさんが座っています。まず、テーブルの場所とは、それが使われる場所のことです。この場所を離れてしまえば、テーブルがテーブルでなくなってしまう可能性があります。戸外では椅子になってしまうかもしれません。テーブルの空間性は、物の配置として捉えなければなりません。部屋の中で、ソファの前で、照明の横で…というように、特定の使用条件や生活の状況によって決まる位置です。それに対してRさんの居場所は、ある場所に「自分」がいるという自己発見的な構造をしています。つまり、「方向付け」を介して、自分の居場所が確認されるのです。「方向づけ」には、少なくともふたつの場所が必要です。自分のいる場所「こちら」と、うでない場所「あちら」です。自分の居場所は、とかく「方向づけ」の起点として、つまり「こちら」を出発点として、周りの「あちら」へ向かうと考えられることが多いのですが、実はそうでないのです。むしろ、自分の居場所とは、周りの「あちら」から自分の「こちら」へと帰ってくる、「あちら」を起点として「こちら」が決まるというかたちで確認されてきます。ですから、自分の居場所があるということは、「自分がここにいる」ということではないのです。そうではなくて、周りに人がいて、物があって、風景が見えということです。そうした様々な「あちら」が、私たちの「こちら」に向かってくる、自分の「こちら」を決めてくれることです。ハイデガーは、こうした空間性を「あたり一帯」という言葉で表現しますが、私たちは、この「あたり一帯」を持つことで、「うちにいる」ことができるのです。自分が「気遣い」によって引き寄せた世界に、とどまり続けることができるのです。これは、慣れた居場所があって、周囲との相互関係の中で生きていく私たちの姿です。

 

ハイデガーは、私たちのあり方を示すのに「下方が開いた弦」を描いて見せました。閉じた円環ではありません。「下方が開いた弦」です。「下方が開いた」というあり方は、たしかに私たちの存在の不安定さを示しています。自分の根っこが開いている。自分の根源が分からないのです。しかし、ハイデガーは、この開放性に対して上へと向かう矢を書き加えています。根源の方から向かってくる矢です。根源が放つ矢の運動の視点で見れば、私たちの存在は受容体というあり方を示します。あちらからやって来るものが、私たちを貫いている。私たちは、あちらからやって来るものの受け取り手にすぎないのです。ではいったい、何がやって来るのでしょうか。

実際、私たちは、あちらからやって来て自分の存在に浸透してくるものがあることを知っています。ハイデガーのいう「根本的な気分」です。何故なのか、何なのか、ハッキリさせることができない。けれども、はっきり感じ取られるという気分です。たとえば、不安がそうです。不安とは、「居られないくらい無気味」という気分であり、「世界のうちにいること」自体を貫く気分です。しかし、不安を抱く私たちは、自分がいったい何によって貫かれているか、実は分らない。ただ、ここに受容体としての自分がいるということだけが強く感じ取れられるだけです。この感覚は、「自分」という存在が、自分に見える層だけで形成されてはいないのを暗示します。まだ、未回収の部分があって、それが絶えずやって来る、けれどもそれは見えない。

2013年12月 3日 (火)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(5)

.自分は「世界のうちにいる存在」である

自分が自分である、自分が自分として生きている、この事実には、可能性に開かれていることが含まれていました。自分の事実性とは、自分の可能性のことです。自分の可能なあり方を模索し、可能性へ向けて自分を投げかけていくこと、それが生きてあることでした。このことは、可能性に対して開かれている形でしか生きていけないということを意味しています。与えられた「自分」をやっていればいいとか、自分の生き方をはじめから自分で選択して決定するということは含まれていないのです。可能性に対して開かれているということは、私たちの「現存在」の事実性です。つまり、厳然たる根本的事実であって、逃れられない事実です。私たちの存在は、可能性の「投げかけ」というかたちで生きることでしか与えられないのです。自分とは、「自分」をめぐって揺れ動く運動です。明確なアイデンティティを持つことでも、自己規定することでもない。したがって、「私は、何者か」や「私はどうあるべきか」という問いに、最終的な答えを見つけようとする試み自体が間違っていることが分かると思います。むしろこうした問いを常に続けることが、自分であることなのです。

私たちは、なぜ、「自分」をめぐって揺れ動くのでしょうか。ハイデガーは、この問題について、私たちの存在を根本から規定している事態を指摘します。つまり、「投げ込まれていること」という事態です。自分の可能性であるということは、この現実の自分であるからこその可能性ということであり、逃れられない自分という認識があってはじめて開かれるのです。

その自分が「なげこまれたこと」をハイデガーは存在論的な基礎概念として捉えるべきだと言います。「誰が」や「どのようにして」というように「投げ込まれた」ことの根拠を明らかにすることは出来ず、私たちは、自分を「投げ込まれた存在」として受け止めるしかないと言います。「投げ込まれた」ということは、「自分がいる」という事実の偶然性を暴露します。偶然性とは
存在論的に考えれば、「ないこともある」という可能性のことです。これに関連して、ハイデガーは「自存」という言葉を持ち出してきます。「自存」つまり、自分の力で存在していることです。そして「自存」という言葉を、「自分」と「存在している」という二つの事態の統合として、「自・存」というように分かち書きにしています。「投げ込まれた存在」としての「自分」の偶然性は、「自」と「存」のふたつの次元で現われるのだ、と言うのです。「自分」でないことがあり、「存在しない」ことがある、というふたつの否定性です。自分が生きてあるということは、明白で肯定的な事実と思われますが、実は、存在論的にいえば、二重の否定性がこの事実の隠された裏の面なのです。「自存」には、「自」の否定である「他のもの」と、「不在」が隠されている。いえ、むしろ、私たちが生きてあることは、この二重の否定性によって支えられていると言った方が適切かもしれません。

 

私たちにとって原初的な自己関係、つまり、「自分が自分を持っている」と言う関係は、「自分を失う」という否定的な側面を見ることで解明されました。この否定性を見つめることで、「自分」の根本が「開示される」、とハイデガーは言うのですが、目に見えてくるようになります。「開示」は、ハイデガー特有の概念ですが、もともと隠れたかたちであったものを目に見えるようにすることを言います。「投げ込まれた存在」としての「自分」を意識することで、隠されていた「自分」が目に見えるようになるのです。眠っていた状態から目覚めるわけです。

たしかに、私たちの日常的な「自分」は眠っている状態にあります。日常の生活の中で存在している時、「自分」はどこにいるでしょうか。私たちは、日常の決まったリズムで生活している時、その時々の状況に気をとられていて、とくに自分を意識することはありません。とりたてて「自分」について考えることはないのです。逆に「自分」が強く意識されるのは、いつもと調子が違う、自分が自分の思うとおりにならない時です。そのような時に、自分が強く意識されるのですが、「自分が遠い」と言う感じがあります。自分自身との距離が感じられるのです。そして、この距離こそが、強い自己意識を成立させています。反対に自分がしっかりと保持されているときには「自分が近い」と感じられるのですが、自分が近い時、自分は前面に出てこない。眠り、隠れている。自分が「自分」のもとにいるとき、「自分」というのは、周囲の状況との滑らかでダイナミックな一体として感じ取られるだけです。ハイデガーは、自分と周囲のそうした一体を、「状況の中で泳いでいる」というような日常的表現で捉えています。その姿を、「世界のうちにいる存在」と名付けています。私たちの「現にあること(現存在)」は、同時に「世界のうちにあること」ということでもあるのです。

哲学は長い間、この考えを否定してきました。回りの世界とは独立している自己意識(「私」という意識)を前提として、私たちと世界との関係を理解してきました。近代の西洋哲学は、主人たる私がいて、それが客体としての世界を見るという二元論のイメージで考えてきたのです。人間を中心とした主客構造は、西洋近代の社会が、自然や非西洋社会、そして近代以前の歴史的世界という問題を何とか処理して、合理化できるために必要とした構図でした。つまり、自分にとっての「他者」の問題を抑圧するための構図です。このように、「私」と世界との関係が、最初から主客ないし主従の関係として想定されることで、自然や非西洋社会を征服し支配することが正当化されてきたのです。ハイデガーは、非常に素朴で現実的な「自分」感覚をもとにすることで、こうした西洋近代の哲学的構図を打ち破ろうとしています。自分とは、世界を征服し支配する存在ではなく、「世界のうちにいる」存在なのです。

 

ハイデガーは、私たちの存在の「状況的性格」を踏まえたうえで、なんとか、「世界のうちにいる」ことを一般的なかたちで分析しようとします。その際に、ポイントは、やはり「自分」ということです。私たちの世界のありようは、それが私たちの世界である限り、「自分」という一点に向かっています。「自分」に絞り込まれた世界です。「自分」に絞り込まれたところから、世界が見えます。まず、「自分の世界」があって、皆と一緒の「共同の世界」があってというように。世界は「自分」を出発点として拡がっています。そうした世界のあり方を、ハイデガーは、「切っ先が自分の世界に向かっていること」と表現します。私たちが生きている世界を体験するのは、自分のその時々の状況においてでしかありません。「状況的性格」です。固定した「自分」はないが、同時に、「客観的な世界」というものが確立しているわけではありません。自分は「世界のうちにいる」状況的存在でしかなく、世界は、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちでしか現われて来ません。

私たちの世界は、たしかに、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちで体験されます。自分の周りに世界がある、自分から見た世界であるわけです。他方で、この「自分の世界」以外に、それを超えたより広い「環境」(「周りの世界」)があり、さらには、「自分世界」と他者の世界とが結び付けられた「共同の世界」といったものもあります。「自分の世界」は、「環境」や「共同の世界」とはっきりした境界で区切られているのではなく、すべては、ゆるやかに拡がっていくというかたちで結びついています。ハイデガーの言葉では、「不安定な流動的な成立」ということですが、そのために、「自分の世界」は常に「状況」的な現われ方をします。この「自分の世界」の自分とは、状況的な事態のことであり、主語「私」からでなく、「この自分にとって」という間接的なかたちでしか与えられない。「私が」見るのではなくて、「自分にとって」現われるのが世界である、ハイデガーは言うのです。このように、私たちは、西洋近代の哲学が教えるように、エゴないし「私は」という主語を介して「自分の世界」を持っているわけではありません。「自分の世界」とは、自分から見て近い世界、自分から見て分かる世界のことです。したがって、「自分の世界」とは、「自分にとって」というかたちで自分が引き寄せられる世界であり、「自分にとって」という形で自分に引き寄せられた世界のことです。

2013年12月 2日 (月)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(4)

.「自分存在している」という事実をどう捉えるか

1「自分」というのは何か

「自分」とは何か、この問いについて考えるために、ハイデガーは、まず、本来でない自分のあり方を分析しています。つまり、「自分自身から逃げる」という現象を見るのです。自分から逃げるとは、いったい、どこからどこへ逃げるのでしょうか。生きている限り、この私が消えてなくなるわけではない。それにもかかわらず、私たちは、なぜ、「自分から逃げる」や「自分を見失う」という表現を使うのでしょうか。こうした表現が一般に意味するところを捉えて、比喩的な意味で「自分」という言葉を使っていると説明することができます。「自分」という言葉で実際に言われているのは、自分の義務や自分の理想のことである、と説明できます。

「自分が自分であるときに、あなたは自分とどういう関係にありますか」と聞かれたとします。ハイデガーはこれに対して、「自分をしっかり持っている」と答えます。ハイデガーは、私たちの自分に対する関係は、この「持っている」という関係を基礎としていると指摘します。「自分」とは、私が知らないうちに、「はい、これがあなたですよ」と押し付けられてしまったもの、それにもかかわらず、生きている限り背負い込まされているもののような気がします。取り替えがきかないかたちで持っている、それが「自分」との関係です。ところが、この「自分」を失うことがあるのです。そんな時、どこで自分を失ってしまうのでしょうか。ハイデガー独特の問いの立て方です。「なぜ」ではなくて、「どこで」という点を考えるのです。

私たちか自分を失うのは、「世間並み」というところ(「一般に人は」という主語の支配する領域)においてです。人もこうするから、人がこう言うからというように、誰と特定できるのでもない主語、「人が」というところです。確かめようもない「一般人の意見」というところで、自分を見失ってしまう。このように、自分を失うことは、世間一般という、本来、自分がそこに居続けることができないところへと堕ちていき、自分の居場所を失うことです。

他方で、こうした「本来でない」方への自己喪失と並んで、「本来」の方への自己喪失もあるのです。我を忘れてひとつのことに没頭する。そのようなとき、私たちはどこにいるのでしょうか。やはり、「自分の前」ではありません。けれども、「世間」や「一般人」のところでもありません。そのようなとき、私たちは、自分でありながら、自分を遥かに超える大きな理想や課題や使命と一体となるところまで行こうとしています。つまり、自分が自分でありうる限界のところにいる。自分がありうることの最大の可能性に向かっているのです。

このように、私たちは、意外にも、「自分」に対してルーズな関係を持っています。同じ「自分」の中に、世間並がいて、同時に、理想や使命が存在しています。「自分」の存在論的な構造を見ることで分るのは、実は、どちらもが、私たちの「自分」の姿だということです。

従って、ハイデガーは、自己喪失や自己分裂を病的な現象と捉えることに対して、存在論の立場から警告を発しています。自分を失い、自分とうまくやっていけないことは、人間が、「自分」というものに対して固定できないルーズな関係を持っていることから生じてきます。それは、人間の自由な本質と関わりがある、とハイデガーは言います。自分を失う(ことができる)、自分が見知らぬものとなってしまう(ことができる)─自己喪失や自己分裂が、具体的経験として、現実的には辛いものであり、時に、非常な苦悩となるにしても、ハイデガーはそこに、人間の本質を見てとります。なぜなら、「自分を失う」ことは、人間のギリギリの可能性でもあるからです。ハイデガーは、ここに、私たちが、「自分」でありながら世間並みに堕ちていく動きと同時に、自分でありながら自分を超えていく可能性を見て取るのです。

 

さて、どうして、私たちは自分でありながら「自分を失う」ことがあるのでしょうか。先ほど、それは「人間の自由な本質」と関係があると説明されました。世間並の自分を選ぶか、そうでない自分を選ぶか、選択の自由に対して開かれているのです。自由とは、自分の意思で何かを選び、何かを決定することではなく、「開かれている」ことです。ハイデガーは選択の自由があると言わずに、「選択の自由に対して開かれている」という言い方をしているのは、このためです。

私たちは、自分が何を選択しているのか、その本当のところは、分らないのです。後になって考えた時にはじめて、自分が選択した道が何であったかが納得されるのであって、生きることにおける選択は、ある程度時間が流れ去った後でようやく明確になるのです。自分の選択を理解するための時間は、選択そのものを行った時間とは異なる系列にあります。ハイデガーが言うように、自由とは「開かれた存在」であるということ以上の具体的な規定はできないのです。

 

「自由に対して開かれている存在」である私たちは、素晴らしいこともおぞましいことも含めて、様々な可能性に開かれています。従って、現に存在しているという事実ではあるが、独特な構造をした「事実」であると言えましょう。それは、自分がどうあることができるかという可能性に支えられた事実です。どうあることができるかという可能性がもととなって、こう生きているような事実性です。ハイデガーは、生きることの事実性を、様々な可能性をめぐって生じる正名の運動と捉えてきます。可能性をめぐっての運動とは、実は、理解の運動です。あることが可能性であるためには、それを可能性として理解してくることが必要になるからです。そして、可能性の理解によって、自分の「そうありうること」という事実性に気付くことができます。今、可能性「として」という言い方をしました。可能性を可能性「として」理解する。これは単なる確認です。ハイデガーが注目するのは、「として」という部分です。「として」という言葉には、理解という私たちの行為が持つ構造が潜んでいます。構造と言うより、運動と言った方が適切かもしれません。ハイデガーは、この理解の運動に注目します。あることが何であるか分っていないとき、それを理解しようとして、思考は、予期と検証との間で往復運動を行います。この予期かないところでは、理解と言うものがそもそも始まらない。何が分かって、何が分からない。手が付けられない状態です。ハイデガーは、「として」をめぐる理解のこうした動きを、「投げかけ」と言う言葉で捉えています。こうかもしれないと投げかけてみるわけです。さて、理解の動きは、単に、こちらから投げかけるだけではなく、なげかけたことが対象の方から投げ返される動きをも含んでいます。つまり検証です。そして、今度は、自分の理解を修正する。そこで、新しい理解の可能性を考えだし、予測を再び対象に向かって投げかける、という形で動いていくのです。

このように見てくると、私たちが何かを理解するプロセスは、可能性と現実性という二つの極の関係と密接に結びついていることが分かります。理解は、可能な内容と現実の内容との間で往復運動を行います。従って、「可能性に開かれた存在」は、つねにこうした理解の往復運動を行っている存在です。私たちの「現存在」は、「可能性の方から自分を理解する」のであり、理解することで可能性を生きているのです。つまり、現に生きてあるということは、「投げかけること」で可能性を獲得し、可能性を理解することで「自分」を理解しつつ、この運動の中で生きていることを意味しています。

2013年12月 1日 (日)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(3)

3根本的な問いを考える

選択の自由を与えられている時、私たちはその事柄の意味について問いかけてみることがあります。「これでよいのだろうか」「もっとよいやり方があるのではないだろうか」というように、より良い可能性を求めて、今の状態を疑ってみることができます。ですから、疑うことができる、問いかけることができるというのは人間の自由の現われでもあります。自由から発せられる問いは、より良い可能性を求める問いですから、きちんと答えが見つかるものではありません。「これでよいのだ」という結論が出ることなく、いつまでも続くことがあります。

このように、「これでよいのだろうか」という問いは、自分の自由からの問いです。自由の問いは、厳しい問いでもあります。「これでよいのだろうか」と問うことで、現実をもう一度根本から問い直してみることです。もし、この問いを真剣に考えるのであれば、現状を変える覚悟が必要となります。「これでよいのだろうか」という問いかけの中で、私たちは自分自身を問い直すという作業を迫られてきます。自分との対決を迫られるのです。ですから、自分の問いの厳しさは、時に、私たちの「回避する」態度を引き起こします。自由の問いは、具体的な問題や強制があって「これでよいのだろうか」と問うのではありません。ですから、そのまま放棄することが可能なのです。答えが見つからないのに、「まあ、よいだろう」と止めてしまうことができます。「これでよいのだ」と答えるというのではなくて、回避してしまうのです。

自由の問いは、二つの点で、「存在」の問題に関わってきます。それは、まず、事柄のギリギリのところを問題にしてきます。「これでよいのだろうか」という問いは、極端な形では、「これは、ある方がよいのか、それともない方がよいのか」になります。現状について、存在すべきなくなってしまうべきかを問題にする。存在の是非に関わる問いです。心の変革とは、そのこと自体の消滅を考慮したところで、「これでよいだろうか」と問うことです。徹底した破壊のないところでは、「これでよいのだろうか」という問いは、真の意味で立てられているとは言えないのです。第二に、自由の問いは、私たちが、自分自身のあり方と対決することを要求します。自分の本来やるべきこと、本来の姿を示してきます。「これでよいのだろうか」と問いを立てることで、私たちは、自分の本来すべきことへの覚悟を試される、本来あるべき姿になる覚悟があるかどうか、問われるわけです。同時に、それができない自分、非本来でしかない自分の姿が炙り出されてきます。「これでよいのだろうか」と問うことは、自分の本来性と非本来性について考えることでもあるのです。

 

私たちは、「これでよいのだろうか」という根本的な問いを発することができます。この問いは、私たちの自由を保障すると同時に、終わりのない問いかけの堂々巡りを引き起こします。そして、究極的には、今の「存在」そのものを疑問視する問いとなります。しかも、この問いを発することで、私たちは、「自分の本来」という問題に直面させられるのです。「これでよいのだろうか」という問いが持つ根本的性格は、この問いの怖さを思い知らせます。けれども、同時に、私たちは、この問いを立てる時、自由な存在の優位をどこかで感じています。ハイデガーのこの考えには、徹底的に問うという作業に対する確信と、生きることへの強い意志が感じられます。私たちは、存在論というかたちで自分の存在を根本から問題にできるからこそ、存在するものとして優位に立っているのです。この時の優位とは、ハイデガーは、「途上にあること」を真に受け止めることだ、と言います。途上というのは、答えのない問いを立てることです。問いに答えを見つけることではなく、自分をオープンにしておくこと、可能であることを忘れないでおくことです。「とじょぅのあること」を開放して、自分を開いたとき、「根本的な疑い」が生じる。正しい生き方という正解を手に入れようとするのではない。とうしても答えが見つからないような疑問に身を晒すことが、存在論を考える私たちの優位なのです。「円環の運動のなかに跳び込むこと」を要求し、その円環にとどまり続けることを「思考の祝祭」と名付けたハイデガーの意図が分かります。ハイデガーは、根本的な疑いのことを「存在的な疑い」とも呼びます。「存在的な疑い」の後に、「気を遣うこと」「不穏」「不安」「時間性」という四つの項目が挙げられています。根本的な疑いが具体的なかたちをとった現象のことです。

 

「これでよいのだろうか」という根本的な問いを回避することは、自分自身から逃げることです。根本的な問いは、私たちを自分のあり方と対決させ、自分の本来を引き受ける覚悟があるかどうかを問いただすものです。この根本的な問いを回避することは、自分の本来ということから逃げることを意味します。

「自分」にはいろいろな姿があります。「本来の自分」や「本来でない自分」がある。また、「本来の自分」を知っているが、そこから逃げている自分があり、さらには、「本来/非本来」の区別すら知らないために、事実上逃避している自分など、「本来の自分」をめぐっていくつかのあり方をすることができます。「本来」という言葉で表現されているのは、「こうあるべきだ」という理想的な人間像のことではありません。私たちが、自分のあり方をどう理解しているか、そこから、自分をどう位置付けているかのことです。ハイデガーは、「本来でない自分」が「本来の自分」へと変わるべきであって、そのために自己逃避をしてはならないという道徳面を展開しているわけではありません。「自分」というものが、「本来でない自分」と「本来の自分」というふたつの極のあいだで揺れ動くさまを分析し、私たちの「自分」がどのような姿を取るのかを見ようとします。世間並のことで済ませようとする自分、現状に甘んじてしまう自分は、まぎれもなく、「自分」を構成する側面です。ただ、そのときには、私たちは「自分」を自分の目の前につきだしていない、自分にめぐり合うことができない。自分でありながら、実は、「自分」ではないのです。むしろ、「本来」と「本来でない」のあいだで揺れ動き、ときにより本来でありえたり、ときに本来でないことになったり、苦しい選択を行っていくのが、「自分」というものなのです。この揺れ動きこそが、私たちが「自分自身」に出会うことができる場なのです。

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