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2013年12月18日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(3)

第3節 所与としての完全性と課題としての完全性

ペルソナにおける理性の役割は、「自己支配」「命令」という視点に尽きるのではなく、理性は認識との関わりにおいてもまたペルソナの全体性を基礎づける役割を果たしている。そして、それは理性による新たな全体性・完全性の獲得という形で語り出されている。

この「完全性」とは何だろうか。トマスは、完全性の意味を二つに区分している。すなわち、「第一の完全性とは、それに基づいて事物がその実体において完全であるもの」である。それは、「諸部分の無欠さ」から生じてくる。そして、このような第一の完全性に基づいて、第二の完全性(完成)が生じてくる。それは目的の実現ということである。

こうしてペルソナである人間は、所与としての完全性に基づいて、目的志向的な在り方を有し、もう一つの完全性─課題としての完全性─へと向かう。そしてそれは、新たな「全体性」の獲得という形で為される。そのことが、理性や知性を持たない他の存在者とペルソナ的存在者との決定的な区別となっている。

 

第4節 神のペルソナと人間のペルソナ:「知性」と「理性」

以上の探求においては、「理性的な本性を有する個別的な実体」というボエティウスに由来するペルソナの定義を出発点にして論を進めてきた。しかし、トマスのペルソナの定義は、このボエティウスのもののみではない。というのも、ボエティウスの定義は、第一義的には人間のペルソナの定義として行われるが、トマスにおいては「ペルソナ」ということが語られる中心的な文脈は三位一体論とキリスト論という神学固有の文脈であるからである。なぜなら、「理性的な本性を有する」ということも、「個別的」ということも、「実体」ということも、その本来の意味においては、神には適合しないからである。

すなわち、リカルドゥスによる「知性的な本質を有する共有されえない存在者」という定義である。トマスは、このリカルドゥスの定義が優れている理由として、以下の点をあげる。第一に、「理性的な本性を有する」ということは、「理性」という語が時間的な推論を意味する限りでの永遠的な神にあてはまることはなく、広い意味で「知性的な本性」を意味する限りにおいてのみ神にあてはまる。そしてまた、第二に、「個体」であるということが神に適合するのは、「個体化の原理が質量である限りおいて」ではなく、「共有不可能性を有する限りにおいて」である。また、第三に、「実体が神に適合するのは、自体的に存在することを意味する限りにおいて」なのである。

そしてこのことは、逆に、人間のペルソナに関する「ペルソナとは理性的な本性を有する個別的な実体である」という定義の意味内容を、裏側から指し示している。すなわち、第一に、「理性」とは推論的・過程的な理性を意味している。第二に、「個別的」とは、質料によって個体化されていることを意味している。第三に、「実体」とは、「諸々の付帯性のもとに立つ」ということを意味している。

このうちの第一点、「理性」と「知性」の区別に基づいて、天使や神は知性的と言われ、人間は理性的と言われる。「天使や神の知性は、いきなり、完全に、事物の全体的な認識を有している」のに対して、「人間は、一つのことから他のことへと進んでいくことによって、可知的な真理の認識へと到達するが故に、理性的と言われている」。

人間は、「理性的な」存在者であるから、目的としての全体性へと、認識と行為によって時間的に一歩一歩進んでいくような存在者となっているのである。「理性的」とは、人間理性にすぐに把握できることに自足してそれ以外のものを拒否するような態度なのではなく、むしろ、分節化された推論の積み重ねをとおして何らかの全体的・総合的な理解へ到達しようと試み続ける中間者的な在り方を徹底的に引き受けていくような態度を意味している。「理性的」とは、自らの限界を充分に弁えながらもどこまでもあらゆる実在に対して自らを知的・意志的に開いていこうとする根源的に開かれた態度を意味しているのである。

 

結論

ペルソナとしての人間は、可感的な世界に存在するかぎりにおいて、「諸々の付帯性」を獲得したり喪失したりしながら存在し、その内実において絶えず変化し続けているが、そのような付帯性を担っている「基体」・「実体」である「ペルソナ」そのものは、そのような変化を貫いて一性を保ち続けている。そして、そのペルソナは、「個別的・不可分割的」である限りにおいて、分割することも、他のペルソナと存在論的に融合することもありえない自立的で根源的な一性と全体性を有している。だからこそ、具体的な場面で自己分裂や葛藤を抱え込みながらも、完全に分裂することはなしに、それを統合して行くことができる。永遠的な「知性的本性」ではなく過程的な「理性的本性」を有していることによって、ペルソナとしての人間は、時間的に発展していく可能性を担った存在者となっているのである。

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