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2013年12月26日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(10)

第3節 知性認識における自立性と関連性

トマスは、知性的な認識者としての人間の卓越性を述べ立てる際に、しばしば、「魂はある意味においてすべてのものである」というアリストテレスの『霊魂論』の言葉を引用する。トマスによると、理性的な実体(魂?)は、世界の空間的な広がり・全体性に還元されない固有な全体性を個体として有している。認識者(人間?)の非認識者(動物?)に対する卓越性は、感覚とか知性とかいう個別的な能力自体にではなく、むしろ、そのような能力に基づいて可能となっている本性の「より大きな広がりと拡張」に求められている。換言すれば、既定の自己を超えた新たな関係性の構築を可能とする受容力において、人間の卓越性が認められているのであり、このような点において、認識を持つものは、或る意味において、神の類似性へと近づくのである。

これは、認識を持っている人間知性をその豊かさの側面から明らかにしている言明であるが、実は、その豊かさは非常な貧しさと裏表の関係にある。人間は神や天使などの諸々の知性の序列において最下位にあるのであり、出発点においては何も書かれていない書字版のようだからである。こうして、「我々は、最初は単に可能態において知性認識する者であり、後になってから現実的に知性認識する者とされる」。

人間知性のこのような構造は、知性的魂の自己認識に関して決定的な帰結をもたらす。というのも、人間知性は、身体的・感覚的な働きを介して外部の可感的世界から抽象される可知的形象なしには全くの可能態にとどまらざるを得ないのであるから、そのかぎりにおいては、現実的な知性認識の対象とはなり得ないことになるからである。それゆえ、知性的魂は、「自らの本質」によって自己自身を認識するのではなく、「そのはたらきを通じて」自己を認識する。こうして、人間の知性のはたらきは、魂の外との関わりへと出ていきつつ再び内面へと立ち帰る、という円環的・自己還帰的な構造を持つこととなる。

人間は、自存する実体としての自己の在り方を十全な形で実現するためには、自己のうちに閉塞していてはならず、むしろ、知性認識のはたらきにおいて魂の外との関係をより豊かなものとして構築していかなければならない者として実体的に存立している。それが人間に与えられた存在論的な条件である。そのために、魂の本質から、はたらきの基盤である知性という能力─それははたらきにおいて魂の外の存在者と関与する─が発出し、魂の本質と諸能力という分化が実体の次元において生じている。そして、理性的実体は、自立性という自己に本性的に与えられている基本的な条件を、魂の外の存在者との関係に吸収されて失ってしまうどころか、むしろ、実体的な一性と全体性をはたらきのなかでより明示的な形で高度に具体化して完成させていくことができる。こうして、そのような完成のただなかで、人間は、自立的な仕方で自存すること自体が他の存在者との関係性を含み込んで初めて可能になっているという自己に固有な在り方を、経験的に実現しつつ自覚する。それが人間の自己認識にほかならない。そして、そのような自己認識においては、自己は、単なる一対象として認識されているのではない。そうではなく、このようなはたらきの全体を可能にしている諸能力のはたらきと存在の根拠として、魂の本質が、再帰的に自覚され認識されているのである。

それゆえ、関係性の形成による自立性の維持と完成というこのような媒介的な構造のうちに含意されているのは、外から内へという単なる認識の時間的・空間的な順序だけではなく、むしろ、存在するものへ全体へと開かれていながらも自己自身だけによってだけによっては無である人間知性が、存在するものとの関係によって初めてその固有な意味を付与されているという人間に与えられている根本的な存在論的条件なのである。人間にとって、この世界全体は、そこへと偶然投げ出された馴染みのない─馴染むことのできない─異郷なのではなく、自らの知的本性と本質的な相関関係を有する馴染み深い場所─知的なはたらきによって馴染み深いものにしていくことのできる場所─なのである。そして、人間におけるこのような在り方は、最終的には、知性という魂の一能力によるはたらきの次元のみではなく、魂の本質そのものによって基礎づけられる。というのも、知性という能力は、人間の魂の本質を完成させるためにこそそこから流出しているのであり、単なる偶然的な付帯性とはことなる固有性として、人間の魂の本質自体が、具体的なはたらき以前に、知性的で再帰的なはたらきの遂行へと本質的に向けられていることを指し示しているからである。

 

結論 

トマスは、「実体」とか「自存」という一見閉鎖的・自己完結的な印象を与える言い方でペルソナを理解しているが、それは、他の存在者との関係を妨げるものではなく、むしろ、他の存在者との関係においてこそ、人間の自存性・実体性はその本来的な性格を完成される。というのも、自立的な仕方で自存すること自体が他の存在者との関係性を含みこんで初めて可能となっているからである。

認識者である人間は、「宇宙とその諸原因の全秩序が霊魂に書き記される」という「究極的な完全性」へと到達することができるような「本性」の「大きな包容力と広がり」とを有している。人間は、認識活動を通じて、単に狭い意味における知的な満足を味わうのみではなく、外界の豊かな「存在」─究極的には万物の究極原因であり「自存する存在そのもの」である神─によって刻み込まれることによって、「存在の充実」へと分け与っていくことができるのであり、トマスは、そのような仕方において、知性という認識力を持っている人格の存在論的な豊かさを語り明かしているのである。

こうして、「理性的な本性を有する個別的な実体」としてのペルソナにおいては、実体性・自立性と関係性とは、相対立するような特質なのではなく、真に自立的であるためには関係性を必要とするという形で、あくまでも実体性・自存性に重心を置きながら統合されているのである。そして、そのような知性認識による関係性は形成の射程は、有限的な被造物にのみではなく、存在全体の源泉である神へも及ぶ。

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