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2013年12月24日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(8)

第Ⅱ部 存在充足としての認識活動

トマスによると、人間は、被造物のなかにおいて、最高度の仕方で、「諸能力の分化・多様性」を有している。というのも、「人間よりも下位のものは、何らかの個別的な善のみを獲得する。それゆえ、何らか少数の特定のはたらきと力のみを持っている」。それに対して、理性的な存在者は、より普遍的で高次のはたらきへと開かれている。だが、中でも天使のような知性だけの存在者は感覚的能力を持たず諸能力の分化も豊かなものではない。それに対して、「物体的世界と非物体的世界とのいわば地平であり接合点のようなもの」であるところの人間は、より豊かな能力の分化を有しているのである。

そして、トマスは、人間の有している多様な諸能力による諸々のはたらきを、知性や意志のはたらきのように「(はたらくもののうちに)留まるはたらき」と熱するとか切るというような「(外部のものへと)移行する働き」とに区別している。このうち、移行する働きにおいては、働きを受ける外部のものの方が完成されるのに対して、留まる働きにおいては、働きは働くも自身の「完成・完全性」として、働くもの自身の内に留まる。このような性格を有する知性と意志の「留まるはたらき」を通して、人間は、理性的実体が理性的実体である限りにおいて常にすでに有している完全性を、より高次の完全性へと高めていくことができるのである。これが、ペルソナに固有のはたらきとしての知性と意志に焦点を置いて論述を進める理由である。

祖間際、注目すべきことは、知性と意志、それぞれのはたらきに方向性の対照が存在していることである。知性は、外界の対象を認識することによって同化し内面化する能力であり、それに対して、意志は、外界の対象へと脱自的に関わる能力なのである。すなわち、知性は他のものの同化によって自己をそして自己のはたらきを担っているペルソナを完成されるような働きであり、意志は他のものへの脱自的な関係性の形成によって自己をそして自己のはたらきを担っているペルソナを完成させ、同時に関係性を取り結ぶ他者をも完成されるようなはたらきなのである。

その際、人間の知性は、「出発点においては何も書かれていない書字版のようなものである」にもかかわらず、そのような知性に基づいて、人間の魂は「或る意味においてすべてのものである」とも言われており、人間精神は、貧しさと豊かさがきわめて力動的な仕方で統合されたものとして語り出されているのである。ここでの「すべて」という完全性には二つの意味がある。それは、人間が人間である限りにおいて常にすでに与えられている基本的な条件(第一の完全性)という意味と、人間にとって本来的であるにもかかわらず未だ十全な形では実現されていない目指されるべき在り方(第二の完全性)という意味の二つである。そして、前者が後者を基礎づけている。がてら、人間のペルソナが「全体として完結したもの」と言われるにしても、孤立した仕方で最終的な完全性を生まれながらに有しているということなのではなく、自らの外にある目的との関係において第二の完全性を目指していくと言う目的志向的な在り方をしているということなのである。

知性認識に関していえば、人人間知性が「何も書かれていない書字版」であるということは、逆に言えば、豊かにものを書き込むことのできるような可能性という意味での「第一の完全性」を有しているということであり、そのような完全性に基づいて、「宇宙とその諸原因の全秩序が書き記される」という「第二の完全性」へと向かっていくような力動的な構造を有しているということなのである。そして、そのような「第二の完全性」は、「第一の完全性」と完全に別のものなのではなく。「第一の完全性」のなかに萌芽的な仕方ですでに含み込まれている可能性が現実化したものなのである。人間は、認識活動を通じて、単に狭い意味における知的な満足を味わうのみではなく、外界の豊かな「存在」によって刻み込まれることによって、「存在の充実」へと分け与っていくことができるのであり、トマスは、そのような仕方において、知性という認識力を持っている人格の存在論的な豊かさを語り明かしているのである。

 

第3章 知性認識における人格の自立性と関係性

第1節 魂の本質と諸能力との区別

トマスによると、「魂とはこの世に生きているもののうちにおける生命の第一の根源・原理のことである」。そして、彼は、人間の魂に関する考察を、「魂の本質」と「魂の諸能力」との根本的な区別のもとに展開している。これは、もしも魂の本質自体が働きの直接的な根源であるとしたならば、生命の原理である魂を持つものは、現実的に生きているように、常に諸々の諸々の働きを現実に為していることになってしまう。だが、実際にはそのような戸はない。我々は、或る時には知性認識や意志のはたらきを為しているが、他の時には為していない。それゆえ、本質と諸能力との区別が必要となる。

そこで、「本質」とは異なるものとして規定される「能力」の存在論的身分について、トマスは。「固有性」と「付帯性」の区別に基づきつつ説明している。事物の本質の外にあるものであれば何であれ付帯性と言われることができるのではなく、種の本質的な根源から原因されるのではないもののみがそう言われる。それに対して、「固有性はものの本質に属さないが、種の本質的な根拠に基づいて原因されるのであり、それゆえ、本質とこのような意味における付帯性との中間である」。このような仕方において、魂の諸能力は、いわば「魂の本性的な固有性」として、実体と付帯性のあいだの中間と言われる。それらは厳密な意味で本質であるわけではないものの、本質から直接的にそして必然的に流れ出るので、魂が存在していながらそれらが奪われているということは可能ではない。そして、このような諸能力に基づいて、諸々の働きが遂行される。

それやえ、心身複合体であるペルソナとしての人間が存在していれば、その形相である魂の固有性としての諸能力に基づいて、自ずと働きが生じてくる。本質でもなければ付帯性でもない「固有性」という特徴的な存在論的身分を持った諸能力の中間的な在り方が、ペルソナにおける存在と働きを媒介する役割を持っている。

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コメント

すみません。最初の一、二回は何とかついて行こうとしましたが、その後はほとんど理解不能です。神という絶対的な存在の、時間的にも空間的にもとても近くて同時に果てしなく遠いもの、を前提にして存在というものを考えていくということがどうしても出来ません。日本人的な汎神論的な感覚からは、絶対的な存在である神をそもそも想定するのが無理なようです。人間は「神への長い道」(by小松左京)をたどることを宿命づけられている存在なのでしょうか。

OKCHANさん、コメントありがとうございます。多分、私の読みの理解が中途半端ゆえだと思います。この後の時代のデカルトになると心身二元論になって、倫理など精神が独り歩きして、「こうであるべき」ということになる(人間精神が神に替わる)のに対して、意外と、トマスは、肉体を備えた人間ということを考えていて、人間にとっての「善」とは生き残る(生存する)ことだといって、肉体の欲求のようなものを肯定したうえで倫理を「あるべき」の方向からだけでなく、「ある」という方向からも考えようとする、ダイナミクスが興味深く、実存的な側面があったりするのが見える、というのがこの本を読んだ印象です。私はセンスがないのか、神のことは一種の仮定くらいにしか考えず、ほとんど気にせず読んでしまいました。

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