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2013年12月25日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(9)

第2節 ペルソナにおける存在とはたらき

ペルソナとしての人間は、その生命のはたらきの原理である魂のみによって構成されているのではなく、魂の本質と諸能力、そして魂と身体という多様性を担った複合体として初めて実体的に存立している。そして、それぞれの人間は、そのような仕方で存立していることを維持し続けようとする自己保存的な傾向性を実体として有している。

人間は、実体の次元において、自己保存と自己充実への根源的な傾向性を自ずと有している。だが、人間がその萌芽的な傾向性を具体的に完成させ全面的に現実化させていくためには、働きを必要とする。心身複合体としての人間は、形相である魂の本質によって生命を有する実体となっているが、それだけではなく、魂の固有性としての諸能力を介して、さらなるはたらきへと秩序付けられている。存在すること自体が活動であり、「第一現実態」とも呼ばれるその存在活動は、「第二現実態」とも呼ばれる具体的な活動によって完成される。そして、その際、「第一現実態」である存在活動は、「第二現実態」というより大きい完全性にとっての単なる前提条件にすぎないのではない。そうではなく、むしろ、「第二現実態」としての具体的活動は、「存在する」という「第一現実態」の真の含意を浮き彫りにしていくものなのである。

その具体的な構造は、「完全性」の意味の二つの区分を分析することによって明らかになる。トマスによると、「第一の完全性とは、それに基づいて事物がその実体において完全であるもの」である。そしてそれは、「諸部分の無欠さ」から生じてくる。例えば、「人間であることの十全性のためには、魂と身体からの何らかの複合体であり、認識と運動のあらゆる能力と器官を有していることが必要とされる」。これは、実体としての人間に対して、人間が人間であるというまさにそのことにおいて、常に既に与えられている基本的な条件である。だから、「部分という性格はペルソナの性格に反する」のであり、魂や手などの「人間の部分」はペルソナと言われることはない。魂が人間においてどれだけ中心的な役割を担っているものであろうとも、それだけでは完結した存在をもつことはできず、それ故、ペルソナと言われることもできない。ペルソナが「全体的で完結したもの」であるとはこのような意味にほかならない。

そして、ペルソナという語によって表現される人間個体の在り方の完結性の強調は、個人の自立した完結性を否定しかねないような知性論への反駁という背景も持っていた。トマスは、各人の固有の魂を─そして魂の一能力としての知性を─固有の仕方で個体的に有しているということをはっきりと肯定し、はたらきの行使の主体としてのペルソナの個体的な完結性と自立性を確保していた。ペルソナである人間は、知性認識という普遍的なはたらきを、あくまでも個別的な仕方で担い、個体の自立した在り方を保ち続けるようなものとして存立しているのである。だが、だからと言って、ペルソナは、他の存在者との関係を全く抜きにして一性や完全性を既得の所有物のような形で保持しているのではない、そうではなく、第一の実体的な完全性に依存しつつも、逆にその所与の完全性をより高次の仕方で完成させるような仕方で、第二の完全性(完成)が生じてくる。それは、はたらきによる諸々の目的の実現ということである。そして、「形相がはたらきの根源である」かぎりにおいて、第一の完全性が第二の完全性の原因となっている。

トマスは、「ペルソナ」という語を、存在とはたらきという双方の完全性に関わるものとして使用している。そして、彼は、諸能力による諸々のはたらきを、知性や意志のはたらきように「(働くもののうちに)留まるはたらき」と、「(外部のものへ)移行するはたらき」とに区別している。留まるはたらきと移行するはたらきの最も顕著な相違点は、次のことにある。すなわち、移行するはたらきにおいては、はたらきを受ける外部のものの方が完成される。たとえば、建築というはたらきによって、建築物が完成される。それに対して、留まるはたらきにおいては、はたらきは、はたらくもの自身のうちに留まる。

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