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2013年12月17日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナスにおける人格の存在論」(2)

第Ⅰ部 理性的実体としての人格の基本的構造

第1章 人間論的概念としてのペルソナの輪郭

トマスにおいて、「ペルソナ」という語は、主に、三位一体論・キリスト論という神学的・存在論的な文脈において、「神のペルソナ」・「キリストのペルソナ」というような形で使用されている。この語が、「人間のペルソナ」を意味することも確かにあるが、それは極めて限定された文脈においてであるようにも見受けられる。というのも、それは倫理的な行為の主体を指す語としてはほとんど用いられていないような印象も与えるからである。

神学的な文脈において「神のペルソナ」の在り方を探求する際に、我々にとってより身近な「人間のペルソナ」の在り方が手がかりとされている側面はあるものの、そこにおける人間のペルソナの分析は存在論的なものであって倫理学的・人間論的な分析は明示的にはあまり為されていない。そこにおいては、「ペルソナ」という言葉は、人間の倫理学的な側面を意識論的・行為論的に説明するために用いられているのではなく、人間の自立性と一性を存在論的に明らかにするために用いられているのである。

だが、トマスがペルソナの定義について述べていることを丁寧に読むと、この概念を倫理学的・人間論的な概念として立ち上げることの可能性と意義が浮かび上がってくる。その意義とは次のようなものである。すなわち、トマスは、分節化の積み重ねを通した総合というスコラ学の基本的な方法論に基づいて、人間を考察する際にも、人間の諸能力を細かく分節化し、それぞれの能力に基づいた説明を別々の問題を立てて与えていくという道を辿っている。だが、人間の全体性は、そのような個別的な諸能力から後になって合成されたような可能性を孕んだ概念なのである。というのも、ペルソナは、「全体で完結したもの」であるからである。それゆえ、本章においては、完全性と全体性ということに焦点を当てながらトマスにおけるペルソナの定義の構造とそれと関連する文脈を分析することによって、人間のペルソナの存在論的な分析に孕まれている人間論的・倫理学的な含意を取り出すことを試み、「理性的実体」としてのペルソナ概念の孕んでいる人間論的な可能性の輪郭を明らかにしていきたい。

第1節 ペルソナと理性:ペルソナの自己支配

トマスは「ペルソナ」という概念を、ボエティウスが『二つの本性について』の中で与えている「ペルソナとは理性的な本性を有する個別的な実体である」に拠って理解している。ここで用いられている、「理性」「本性」「個別的」「実体」等の用語について、トマスは次のように述べている。

「実体」と言われることによって、ペルソナの特質から、付帯性─どのような付帯性についても、ペルソナが語られることはあり得ない─が排除される。「個別的」と言われることによって、実体のカテゴリーにおいて類や種─それらもまたペルソナと言われることはできない─が排除される。「理性的な本性を有する」と付け加えられることによって、ペルソナではない非生命的物体や植物や動物が排除される。

この引用からは、ペルソナならざるものを排除するために、これらの用語が使用されている。このうち、「理性」概念に関しては、ボエティウスには見うけられないトマス独特な解釈が見出される。それは、理性による自己支配という考え方である。トマスによると、「ペルソナ」と呼ばれる「理性的な諸実体」は、理性を有していることによって、「自らの働きに対する支配を有し、他のもののように単に働かされるだけでなく、自らによって働く」。すなわち、理性を有しているペルソナ的存在者は、「理性と意志の能力」である「自由意志」によって「自らを目的へまで動かす」が、それに対して、理性を欠いている非ペルソナ的存在者は、「自然本性的傾向性によって、自身によってではなくいわば他のものから動かされものとして、目的へ向かう」。換言すれば、「無理性的動物においては、何らかの欲求の特定は単に受動的な仕方で見出される」。例えば、ミツバチは蜜を作ること関してのみ勤勉であるように同一の種に属する動物はすべて同じように行動し、すべてのことについてではなく或る特定の活動についてのみ判断を下す。それに対して、人間は、理性によって自由な判断を下すことができる。人間においては、「欲求の能動的な特定」が見出されるのであり、それが、理性によって「自らの働きに対する支配を有している」ということの意味なのである。

 

第2節 はたらきの基体としてのペルソナ

人間の働きにとって「理性」がこれほどまでに重要な役割を果たしているのであれば、人間の働きの分析においては、理性の役割の分析で十分ではないか、しかし、トマスは単純にそうであるとは言わない。トマスにおいて、人間は、自己の行為への支配を有する者として、ひたすら合理的に目的へと一直線に向かっていくような単純な存在者として捉えられているのではない。人間は、内的な分裂の可能性を孕みつつそれを統合するという多層的な構造を持った存在者として捉えられている。そのことが、「ペルソナ」という存在論的な概念の持ち得る倫理学的・人間論的に意味と深いつながりを持っている。その手がかりは、トマスが「比喩的な正義」と呼んでいるものの分析において見出される。

トマスによると、「正義」のなかにある正しさというのは、行為者と「他者との関係によって構成される。ここにおける「行為者」と「他者」という言葉は二通りに解釈することができ、その解釈に基づいて、正義にも二通りの意味が生まれてくる。その片方が本来的な意味での正義で、もう片方は比喩的な意味での正義である。

すなわち、行為者が他の行為者である他者と関わるのは行為することによる。それゆえ、第一に言えることは、正義は、基本的に、人間と人間の間で実現する。「本来的な意味での正義は基体の多様性を必要とする」のであるから、「一人の人間の他の人間への関わり」において存立する。だが、トマスによると、正義とはそれに尽きるのではなく、そのほかに「比喩的な正義」が存在している。それは、「同じ人間のうちの異なった行為の諸根源」、例えば理性と怒情的欲求能力ないし欲情的欲求能力などが比喩的にいわば異なった行為者と見なされることがある」からである。「一であること」を有しているはずの人間は、それにもかかわらず、感覚的欲求と理性との衝突、または、感覚的欲求同士の衝突という形で、心が様々なものへ向かい、自己分裂を引き起こしてしまう。

このような事情を、トマスは、アリストテレス『政治学』における支配の類比的な理解という観点から考察している。専制的支配に対して、「市民制的・王制的な支配」において、自由人たちは、「支配者の統治に服しているとはいえ、自己に固有な何ものかを有しているのであり、それに基づいて指導者の命令に抵抗することができる」。「知性は様々な欲求を市民性的な支配によって支配している」と言われるのは、「感覚的欲求は自己に固有な何ものかを有しているので、理性の命令に抵抗することができる」という意味である。というのも、感覚的欲求は、「普遍的な理性が導いている思考力」からのみではなく、想像力や感覚からもまた動かされるからである。だからといって、これらのものが理性に服従するような性質を有しているということが否定されるわけではなく、感覚的欲求は、その固有な運動を保ちつつ、理性の「市民制的な支配」に服しているのである。

それゆえ、そのような形で相対的な独立を保っている怒情的・欲情的欲求能力が理性の命令に従うときや、一般的に人間の諸部分にそれにふさわしいものが帰属させられているときには、同じ一人の人間のうちに正義があると言われうる。ここにおいて感覚的欲求能力が理性に対して或る種の他者性を保ちつつ理性の命令に服属するという一なる人間内部の支配─被支配関係が語り出されているのである。その際、「(理性による)命令と命じられる働き」は、理性という「部分」と感覚的欲求という「部分」との関係という観点から見れば「多なるもの」であるが、だからといって全くバラバラな諸部分間のはたらきに過ぎないのではなく、「何らかの全体が一なるものであるような仕方で一なる人間的行為なのである」。それゆえ、理性は、人間的行為の根拠ではあっても人間的行為全体の主体ではなく、あくまでも人間の一部分を為す一能力に過ぎない。「自分の働きの主人」であるのは、「理性」でなく、「理性的な本性(すなわち人間主体)を有する個別的な実体」であり「それ自体で一」であるところの「ペルソナ」なのである。はたらきを為すということは、ペルソナに帰属する。というのも、はたらきは基体と個体に属しているからである。

この基体とは、本性と対比的に使用され、本性を有する個々のものを意味する。それに対して、ペルソナとは、理性的な本性を有しているところの基体なのである。それゆえ、ペルソナは基体の一種として全体で完結しものであり、完全性と全体性という特質を持っている。こうしてペルソナは、理性的な本性に基づいて、はたらき・行為を自己支配的な形で全体的に担う一なる自立的な基体であることが可能になっているのである。

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