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2013年12月 5日 (木)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(7)

.時間性の問題─「存在の意味」とは「時間性」のことである

『存在と時間』の後半部分に入ると、ハイデガーは、息せき切ったようにして、「時間性」という問題を出してきます。「時間性」の問題は、自分の存在の最後を考えるという文脈で、「完成の可能性」を考えるという連関で提示されます。私たちのあり方の分析で、今まで問題にされてきたのは、「完成されていない」あり方だった。そのために、今までの分析は、「根源」を明らかにするような分析ではない。私たちにとって、「完成の可能性」はどこにあるのだろうか、この問題を取り上げなくては、自分あり方について基礎存在論的な分析をしたとは言えない。存在論を仕上げるには、自分の存在の完成した姿を考察しなければならないと言うのです。

しかし、問題があります。現に生きているということは、まだこれからも生きるということです。従って、ハイデガーが言うように、存在論の完成のためには、今のあり方には「まだない」という部分を考えなくてはならない、今のあり方のなかにまだ回収されていない部分についての思想を展開しなくてはならない。つまり、「完成の可能性」の方から、自分の姿を捉えることが必要となります。私たちにとって、自分の存在の完成とは何でしょうか。自分姿の最後となるのは、どのようなあり方でしょうか。それは、時間的には「死」のことです。私たちの存在は「死」というかたちで、完成を見ます。

しかし、自分の死という出来事は回収不可能な出来事です。それは、もはや「世界のうちにいる」自分にとっての出来事ではありません。ですから、時間的な最後としての「死」は、到来する可能性して、先取りして受け止めることしかできないのです。つまり、死を覚悟しつつ生きるという「死と向かい合ったありかた」としてのみ受け止めることができます。死と向かい合う時、私たちにとって、「死」は一定時点での生物的な機能停止ではありません。むしろ、いつでもありうる可能性、絶えず到来する可能性という姿を取ります。時間的な完成としての「死」が到来する可能性であるように、自分の姿の完成も、絶えず到来する可能性として、そこへ向かう形でしか可能でないのです。私たちは「死を覚悟して生きる」ことで、ある種の完成へと向かうことになります。

けれども、そう語りながらも、ハイデガーは、絶えず到来するものと言う問題から目を離すことができません。根本的な気分や、刻々と近づいてくる死という形で、自分の方へやって来るものに目を奪われてしまうのです。自分が先取りするものではなくて、自分の方へと到来するものです。

「死」は、自分の時間の終わりという形をとってやって来ます。「気分」は、状況が自分でコントロールできない、もうどうにもできないという形で、何かの到来を告げます。そして、何かの可能性は、自分が先取り的に理解する可能性です。可能性が現実になるのは、時が満ちることによってです。このように、時間は、あちこちの場所からまるで私たちに目配せするように、これまで分析した現象のあちこちで姿を現します。「気分」は、私たちの存在が「投げ入れられた」過去の痕跡を示し、「理解」は、先行的な「投げかけ」というかたちで未来を指す存在論的時間の矢となります。そして、「世間一般」に堕ち込んでしまう私たちの日常的自分は、現在という時間への埋没を意味することになります。どうも、私たちの存在は、このように、様々な時間の系列の中で、絶えず何か到来するものを受け取っているようなのです。時間とは、私たちの方へと到来するものが、私たちの方へと到来するために取る形式かもしれないのです。

 

この本の初めのところで、存在論の究極目標は、「存在の意味」の解明であることが説明されました。ハイデガーは、すでに『存在と時間』の冒頭で、「存在の意味」とは「時間性」のことであると定義しています。私たちは、自分の存在の内に、様々な時間の流れを抱え込んでいます。様々な時間の流れを抱え込むことで、様々な存在が到来するのを可能にしているのです。もし、様々な時間の流れを一つにまとめる「時間性」という問題が解決されれば、私たちが抱え込んでいる様々な存在についても解明できるはずです。つまり、「存在の意味」が解明できるはずです。そして、存在論が完成する筈です。

そして、存在論は完成することなく途上となってしまいました。いや、むしろ、私には「時間性」の理論は完成されてはならないとしか思えません。「存在の意味」は究極的な形で解明されてはならないのです。なぜなら、私たちはまだ生きて存在しており、私たちの後にもまたせおびただしい存在が生きてくれるだろうからです。存在の事実が終わっていない以上、存在論も終わってはならないのではないでしょうか。ハイデガーの存在論が途上でしかないという事実は、私たちひとりひとりに、「存在論的な途上を生きる」とでも言いましょうか。自分の存在を存在論的に位置付けるという重要な課題を与えます。私たちひとりひとりの「自分の存在」は、存在の破片のようなものです。それだけで完成することはない出来事です。けれども、また、同時に、破片である私たちひとりひとりの存在こそが、存在論を完成させるために唯一不可欠な手がかりなのです。存在論がたえず途上であり続けるための基盤なのです。

皆さんのひとりひとりの生きてあることは、ひとつのかけがえのない存在論的出来事であり、そのかけがえのなさにおいて、存在論という哲学も成り立っているのです。「自分が存在している」という明白な事実は、壊してはならない事実なのです。

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